録画したものを見る前に上記の記事を読み、だいたいの内容も把握していたが、それでもラストの浅野忠信の敬語には笑ってしまった。この道化ぶりがたまらない。浅野忠信はおそらく元から頭のおかしい人だったが、今は妻の病気のせいでこうなったという理屈で堂々とおかしくなっている。もし妻が健康そのものだったらもっとまともな人だ、というふうになるのかもしれないが(他の病院と提携をまとめる場で突然取り乱したりしない)、その場合は今度は義父のプレッシャーだとか、また別の理由を見つけておかしな人になってしまうのだ。そういう「妻の病気を利用しています」的なぶぶんが浅野の罪深いところだ。
ところで昨日読んでいた「モンテ・クリスト伯」でも罪が取り上げられる箇所があり、何が罪かという話なのだがモンテ・クリスト伯爵の下僕が昔にある検事を殺したと告白する。その直前に検事は箱を土の中に埋めていて、その箱を開けると中に赤ん坊がいたのだが、まず殺した理由は下僕の兄があるとき殺されたのだが、検事に犯人探しを依頼すると、下僕と兄はコルシカ島出身のナポレオン派だということで、邪険にされてしまう。検事は王党派だったのである。それに恨みを持って殺すのだが、金が入っていると思って掘り出した箱の中には赤ん坊が入っていて赤ん坊は死んでいたが、心臓マッサージを施すと程なく赤子は息を吹き返した。それで罪滅ぼしかなんかか知らないが、結局下僕と殺された兄の妻(未亡人)で子供を育てようとなるのだが、これがとんでもない悪太郎で、元から悪なのだが、親を殺した手前強く出れないでいたら、どんどん増長して手に負えなくなり、最後には育ての母である未亡人に火をつけて殺してしまう。未亡人のことは「おばさん」と呼んでいたから育ての親とは言えないかもしれない。とにかくとんでもない子供であった。子供はそのまま行方不明となった。その話を聞いたモンテ・クリスト伯は何が罪なのかというと、子供を最初に母親に返さなかったのが罪だという。父親は刺し殺したが、母は生きていたはずだからである。それは現在の定義でいうと、ひどく不自然である風であった。
ところがその後殺されたはずの検事ヴォルフィールが普通に出てきて伯爵と話をしたりするから、私は混乱してしまった。これは私の読み間違いか、作者の記憶違いか、それとも登場人物の勘違い(つまり話として織り込み済み)のどれかであるが、私としては作者の記憶違いだったら素敵だなあと思う。こうなるとこの小説はエイモス・チュツオーラの「やし酒飲み」の世界で、もう生きているも死んでいるも大差ない状態で、やし酒飲みとは、主人公のやし酒を作ってくれていた職人がある日降ってきたやしの実を頭に食らって死ぬのだが、主人公がやし酒が飲みたいがために、死者の国から連れ戻そうとする話なのだが、もう途中からそんなことはどうでもよくなって、結局やし酒職人がどうなったとか、よくわからない。とにかくそういう感じの話になって面白い。