意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

脇腹

コンビニにコーラを買いに行ったら最初こところにはなくて次のところに言ったら思いのほか駐車場が埋まっていて仕方がないからまた別のコンビニにしようと思って一度道路にでたら空いている駐車スペースを見つけたので別の入り口から再び駐車場に入った 正月のコンビニなんてどこもガラガラかと思ったら最初のところもすごく混んでいて時代をかんじた 私は朝から二回洗濯物を干し夕方には部屋に掃除機をかけた 子供のころの年末に親に「部屋をきれいにしないと神様がこないのでお正月ができない」と言われたのを毎年思い出す やはりせめて子供が小さいうちはお正月っぽくしたほうが良いのかと思う 父の実家では祖父母が存命のころ年の瀬には必ず餅つきを行いそれは大変楽しい行事だったが餅つきそのものは機械を土間に置いてウスや杵などは用いなかったから私には風情がないようにかんじて一種の怠慢のようにかんじた しかし機械も「ザ・機械」といった発動機と餅つき機を太いベルトでつないで動かすような装置でその後登場する炊飯器みたいな餅つき機よりかはずっと無骨だったのでまだ良かったんだと思う 熱々の餅が細い穴からうんこのようにうにょうにょ出てきてそれを「あちー・あちー」大騒ぎしながらタライに入れていく様は今でも鮮明に覚えている 最後の回は青海苔を入れるから緑のうんこが出てくるのである 結局のところ子供は勝手に正月をかんじてくれれば良いと思う


無事コーラを手にして飲んだらうっかり蓋を落としてそれが運転席のアクセルの下あたりに行ってしまった 信号待ちの際にギアをニュートラルに入れサイドブレーキを引いて左手を伸ばしたら案の定背中をつった 今も脇腹が痛い

大人になってもわからないこと

小学4年か5年のときに「孔雀王」という映画を見たがずっと山で修行していた三上博史演じる孔雀が街に降りてきて安田成美と妖怪退治みたいなのしながらディスコに行って都会慣れしている安田成美は踊ったりしているがそんなことに全くついていけず孔雀は席でさきイカみたいなものをずっと食べている そのさきイカみたいなものはお酒のおつまみの乾きものだということはわかるが一体なんなのかわからず大人になったらそのうちわかるのかしら と思っていたが私は大人になっても相変わらずディスコ等無縁だ 行きつけの飲み屋くらいできるものかと思ったが住んでいるのが田舎でそういうのもない 子供のときに見ていた大人の世界は幻かなにかだったのだろう


妻と下の子がインフルエンザになり私は予防接種を打ったから発症こそしないが明らかにウイルスは私の中にあるというかんじで喉が痛い 義父母もこの世の終わりのような席をしていて最初義父が調子悪くて年寄りが調子を崩すと少しシリアスなかんじになり妻やその妹は
「病院に行け」
と繰り返すばかりでまた義父はちっとも耳を貸さない 私はまあそれで手遅れになったも天命かと思った まるでドラマによくある風景である しかしその後若い人も調子を崩して「ああ風邪か」というかんじになった しかし子供がぐったりしているのは気の毒だ クリスマスをもらってまだほとんど遊んでいるのを見ていない 数日すると少しずつ元気になり私が悪くなった 何もしない年末年始である いつも何もしないが

生きる

https://anond.hatelabo.jp/20171230111228

上記の記事を読んで深沢七郎の「人間滅亡的人生案内」を改めて読みたいと思った 一時期よく読んでいて記事にも何度か取り上げたがいつのまにか取り上げなくなった 本の中には前向きなことも書かれているが「人間は滅亡すべき」みたいな主張もあった 自身を人間滅亡教と称していた 私はそれをどのように捉えていいのかわからなかったが字句通りでよかったと思う 上記記事を読んで改めて確かに滅亡すべきだと思った 滅亡とはまた違うのかもしれない 少し前に読んだ仏教の本に人は涅槃に至ることによって輪廻から解放されるとあって生まれ変わるから人が減らないのだ 滅亡するとはつまり全員が涅槃にいったことでありそれこそ究極のハッピーエンドである


とは言うものの現実の私は子供を2人も持ってしまった 甥も2人いる 人間は滅亡が正解としながらどうやって未来を語ればいいのか 特に語る必要はないだろう 私は子供のころ父によく「お前らの将来は悲惨だよ」と言われたがそういえばなら何故私を生み育てたのか 父はよく「親の監督責任」という言葉も好きだったから義務として育てたのかもしれない 一方で私が「ならなぜ生んだ?」という疑問を当時持たなかったのは父はそれほど真面目に子の将来の悲惨さについて考えなかったのだろう 晩酌という行為があるがそういう家の子は酔っ払いの親しかほとんど知らないのだから真面目に相手しようと思うわけがない


だから私はこの先も人間の滅亡については考えていくが同時進行で子の成長も見守りどちらもほどほどにやっていくつもりである

朝蟹を買う

朝蟹を買う番組を見ていて市場で女が
「買いますよー」
と絶叫してスタジオの人たちが「わー」だの「きゃー」だの言っててその後市場の女が
「それじゃあ試食します」
と言って市場の人が皿に載せた蟹の一部を持ってきてそこで私は馬鹿らしくなってテレビを消した この中に心底蟹を食いたい人がいるようには思えずそれなのに食いたそうにするのはいくら仕事とはいえかわいそうになってしまう しかしそのすぐ後に「これは一種のお芝居なんだ」という考えが浮かび確かにお芝居なら健康そのものの人がかなわぬ恋をして死にそうになったりしても後ろめたいかんじは全くなくそういう意味でお芝居は最初から最後まで嘘なのにポジティブだ 世の中には嘘や冗談が半導体みたくなかなか通じない人もいるが原始時代のお芝居は納得してもらうのにかなり骨を折ったのではないか 今でもドラマに「フィクションです」とか出ていてその本当の意味は知らないが昔読んだ「晴れときどき豚」という本でフィクションという言葉の意味を訊ねてきた息子に父親が「この文言がないとドラマを真に受けて怒り出す人がいる」と答えていて怒るというのは騙されたから怒ると思っていたがこれはフィクションなのにフィクションの宣言がなくて怒るということで見ている本人はフィクションだと気づいているから怒るのである


しかし子供のころはそういう発想はなくドラマを現実と混同する人が一定数いると思って世の中の得体の知れなさに恐れを抱いた しかし嘘に引っ張られるということは普通にあり人々はそれを「印象」と呼んだりする 例えばドラマAで変態だった俳優がドラマBで復讐に燃える刑事を演じていたりするとこんなにシリアスでも変態なんでしょ? とわざとごっちゃにして見ると楽しい

笑っていいともみたいな

仕事は明日まであるが明日から休みの人がいるので朝礼で
「○○さん今日で最後です」
と話してからしばらくして笑っていいともみたいだなと思った 春か秋の番組改変の時期に卒業するレギュラーがいるとタモリがエンディングで早口に「今日で卒業です」と言って花を渡していた 早口なのは湿っぽくならせないためなのか ちょうどそんなトーンで言ったがそういえばあまりタモリを見なくなった 笑っていいともも2000年くらいからあまり見なくなった ナイティナインとやっていたジャングルTVとか面白かった どういうコーナーか忘れたが女の人がサックス吹いているのが格好良かった あと音楽のクイズで歌詞の文字数だけ提示してそれに合わせたオリジナルのめちゃくちゃな歌詞を作って本人に歌ってもらうというコーナーがあってジュディ・オングが魅せられてのメロディーで
「血湧き肉踊る日米野球
と歌っていたときは涙を流しながら笑った

タイトルを間違えた

昨日見た映画は「トロイ」で「トロン」ではなかった しかもタイトルだけ間違えて本文ではきちんと「トロイ」と書いているから不思議だった わざわざ指摘してくださったかたがいたのでそのまま直さずにおいておこうと思う 私はよく間違えるが大抵はそのままにしているのだがたまに私のけっこう昔の記事に星をつける人がいてなんだろうと思って読んでみると他のブロガーの方を呼び捨てで呼んでいてぎょっとした 私はどういうわけかブログだと呼び捨てしまうことが幾度かあった しかし過ぎたこ とだし特に侮辱する内容ではないからそれもそのままにしておいた なんでも当てずっぽうだからこうなるのである昨日もブラッド・ピットが「ピ・ット」なのか「ビ・ット」なのかわからなくなったがブラビだとブラックビスケッツビビアンスーと南原と天山のグループだから違うと思ってブラピにしたら私のブログだと合っていた場合勝手にアンダーラインが引かれてリンクが貼られるから合っていたんだろう ちなみにブラックビスケッツのライバルはポケットビスケッツポケビのほうが先で千秋がボーカルで千秋はビビアンスーを心底うざったそうにしていた それはあるいは番組の演出なのかもしれないと思っていたがつい先日とんねるずの番組に千秋が出ていてそれは芸人の家に押しかける企画だったがキンタローの料理にまるで小姑のように嫌みったらしいことを言い続け私は千秋は心底性格が悪いんだと確信した 私は千秋の性格が悪いとドラミちゃんを見るたびにたまらない気持ちになるから悪い千秋のほうがいいと思う 年末の笑ってはいけないでは遠藤との離婚をさんざんネタにされてそれでも健気に「おにぃ」だの言ってるからこちらはホワイト千秋で私はこっちは好きではない


とんねるずと言えばこの前細かすぎて伝わらないモノマネで三人組が某アクション俳優の真似(これが誰だかわからない)をしていたが暴漢に襲われたときの護身術を指南するというコーナーで左右から弟子がナイフで襲ってくるという内容で左の弟子のナイフはうまくとっぱらって過剰なくらい殴る蹴るをしていたらその間に右の弟子が先生の脇腹を刺してしまいしかし先生は左をボコるのに夢中で気づかない 先生がふと振り向くと思い切り刺されていてもちろん護身術指南だから玩具のナイフなのだが微妙な空気が流れる 刺した弟子のほうが気まずそうにしていてそこに先生がいきなり弟子を刺し返す 弟子が「先生!」と本当に刺されたかのようなリアクションをしここを見たところで私は涙を流して笑った


ところで玩具のナイフというかフィクションの中では本物のナイフだから現実では玩具ということになってしまうのだが上記のように「護身術指南のコント」というフィクションの中ですでに玩具のナイフだった場合は現実だと玩具の玩具のナイフということになってしまいしかし実際そんなものはないからどうしてフィクションの中に玩具のナイフというのが存在できるのか不思議というかどこまでも考えられる

映画「トロン」を見た

年末に映画を見ると年末という気がする 20歳くらいのときだったか大晦日かそれくらいに加山雄三の「エレキの若大将」が深夜にやってて見た さらにもっと前には大晦日に向けてルパン三世の映画が毎日やっていてホクホクした というわけで私の中で「年末=映画」というイメージが強い テレビ東京で今日の12時40分からブラッド・ピットの「トロイ」がやっていてぜひリアルタイムで視聴したいと思ったがいきなり子供が「駅まで送ってほしい」と言ってきて「映画を見るから無理だ」と言い早めに送ったが結局間に合わなかった 間に合わないと思ったから録画をした 録画をしながら追っかけで見ればCMを飛ばせるからかえってラッキーでは? と思ったがそうできたのは最初の30分で早々に追いついてしまい途中からリアルタイムに切り替えた びっくりするくらいCMが多かった どういうわけか中村雅俊が歌っているCMが多く歌詞に注目すると「人は人として生まれるのではなく人となるために生まれた」という人の道を踏み外した息子のことを言ってるとしか思えない歌や「エジプトにはピラミッドの設計士がいた」というシュールな歌などがあり楽しめた 映画は終始「これ見たことあったっけ?」と自問しつづける内容だった 見たことある映画だととちゅうで確信したがほとんど忘れていた 私は「トロイの木馬」について考えるといつも「トロイの作った木馬なのか逆なのか」と迷ってしまう トロイの主人公はアキレスだったがそういえばヘラクレスが主人公のも見た気がする 私は集団ががしがしする映像が好きである ギリシャがトロイの土地に上陸するシーンは「プライベート・ライアン」を思い出した プライベート・ライアンも最初がいちばん好きだ そういえばブラッド・ピットが戦車を繰る映画があるがとちゅうで女の子が死ぬあたりまでは楽し(というかいきなり死んで悲しかった 好みのタイプだったのである)かったが後半に行くにつれつまらなくなった 「トロイ」もヘクトル王子が敗れて木馬が出てきたくらいでもう見るのをやめようと思ったが暇だから最後まで見たがやっぱりつまらなかった 雑に分析するに映画とかストーリーは時間の経過とともに個に向かう傾向があり個がおそらく感動や感情の引き金になっていて私はそういうのが冷めるのである