意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

音楽室(私と先生)

「音楽室」は7年前に書いた小説で、最終話だけ書き下ろしである。「十字路」と同じ頃に書いたがそれと比べると今回の掲載にあたって手を入れた箇所は圧倒的に少なかった。理由のひとつとして主人公の性別の違いがあって、男性が主人公の場合私と同じだから気持ちを書きすぎるのに対し、女性だとわからないから一定の距離を保とうとする。
ただ書きながら飽きてしまったところもあり、同時に当時は前衛的な小説にもハマっていたから段々と先の読める展開が嫌になってしまい、最後はめちゃくちゃな終わり方をしてしまった(地震が起きて登場人物が入れ替わってしまう的な)。7年経ってそういう熱も冷めたのか、普通の終わり方をしたいと思って書き下ろすことにした。なので、文章の感じが他と違うのである。さらに心境の変化もあって、愛華がひどい目に遭って終わるのではなく、その後きちんと自信を取り戻してもらいたいと思った。タヤマ先生が献身的に愛華を世話することを「友達だから」と説明し、愛華はそのことをあまり理解できずに元の感じに戻ってあっさり芳賀くんを振ってしまう。私はその理解できない感じが無邪気でいいなあと思った。高校に行ってもまた誰かを傷つけたり痛い目に遭ったりするのだろう。タヤマ先生もまた、優しさが孤独と裏表であることを悟るのである。よく優しい人は強い人と言われるが、私はその強さとは孤独にたえる強さだと解釈している。でも優しい人は弱い人とも言われる。

振り返ると出会えて良かったと思える先生は2人いて、ひとりはドラムのレッスンに通っていたときの先生で、その先生はプロのドラマーというわけではなく、普段はビルの清掃の仕事をしていて結婚もせず年金も払わず体が動かなくなったら死ぬと宣言していたダメ人間だった。私はこの先生を心底尊敬していて先生のように生きたいと思ったが、ついに叶わなかった。ドラムはもちろん、Jazzや三島由紀夫も教えてもらい、レッスンの後に夢中で話をしたのを覚えている。

もうひとりは高校の現代文の先生で、この人は女で怒ると机を投げつけるという怖い人との話だったが、私のクラスのときは穏やかだった。私はこの先生との相性が良く、私はよく軽口を叩いたし、向こうも生徒の作文を匿名で読むコーナーで、何故か私のを読むときは私に向かって公開でダメ出しをするということをした。私の高校は卒業に向けてなんでもいいから制作しなさいというのがあって私は友人と小説と詩を書いたが、そのときにもこの先生に指導教員になってもらい、文章の手ほどきを受けた。おかげで私たちの作品は賞をもらったが、順位で言うと2位で、私は当然1位と思っていたから卒業式の後で文句を言いに行ったら「賞をもらって文句を言うなんて、あなたらしいわね」と笑われた。

音楽室(16)

下駄箱を確認すると全くの空っぽで、音楽部が使っている様子はない。そもそも練習は何曜日だっけ? 空っぽということはタヤマ先生も不在ということになるが、先生は靴を脱がずに、いつもそのまま中に入っていた。思い出した。靴ではなくてスリッパだった。服装には気を遣っていたのに、なぜ足元は学校の緑のスリッパなど履いていたのか不思議だった。
軽くノックしてから、ドアに手をかける。ぱちという音がして静電気が指先に生じ、あわてて指先を引っ込める。
もう一度。
開かない。
鍵だ。
そんな馬鹿な、と思う。
職員室にいる可能性だって充分にあるのに、そんな馬鹿なと思う。
改めてノックしてみる。さっきとは少しリズムを変えて、こん・こんと手の甲をぶつける。今さっきまでドアを開けようとした人とは、別人を装えば開くかもしれない。変化なし。
とにかく、不在だとしてもしばらくはノックし続けなければいけない。今振り返ったらまだ芳賀くんと今井さんとチカちゃんがまだいるかもしれない。3年の教室と第二音楽室は同じ階の同じ廊下だから、愛華のことを見ている可能性がある。振り返って目があったら最悪だ。とにかく3人が帰るまではドアの前で粘らなければならない。

準備室のドアを試したり、入口の隙間を覗いたりするうちに時間は流れた。ここまで粘れば大丈夫だろうと思い、ひと息ついたところで誰かが愛華の肩に手をかけた。今井さんだ。本当にしつこい。タヤマ先生を探す振りをして、振り切ってしまおう。振り向いて思い切りにらみつけると、手をかけたのは今井さんではなく、4組の前田くんだった。今井さんたちは、とっくに帰ってしまっている。
とっさに「仕返し」という言葉が頭に浮かんだ。4組の前田がタヤマ先生に仕返しするんだって。まさかタイミングがかぶるなんて。
「誰もいないみたいだけど。音楽部?」
必死に冷静さを装いながら、愛華は扉を指差した。仕返しのことは知らない風を装わなければならない。タヤマ先生の名前は死んでも出さない。
「だろうね」
前田くんは口元に笑みを浮かべながら答えた。前田くんは相変わらず短い髪を逆立てていて、顔はニキビ面だ。冬なので学ランの中に白いパーカーを着ている。フードの部分は外に出しているから嫌でも目立つ。そんな格好をしているのは学年に何人もいない。
前田くんの後ろには男子生徒がもう一人立っていた。髪が耳までかかっていて目が細く、ずんぐりした体型のくせに制服のサイズが合っていないのか手が半分隠れている。見たことがない。にこにこした表情がかえって不気味だ。
廊下には愛華を含めて3人しかいない。思った以上に時間が過ぎていて、みんな帰ってしまったのだ。前田くんの背中の向こうががらんとしているのを見て、愛華は全身から汗が噴き出すのを感じた。顔から血の気が引く。
「ふうん。じゃあわたし、ゴトウ先生のところに行くので」
声が震えないよう注意を払いながら、愛華は言った。急いで体の向きを変え、歩き出そうとした瞬間
「そうじゃないんだよな」
と聞こえた。なんだそれ。愛華が反論しようとした瞬間、耳元で「ぱん」と音が鳴った。愛華の右のこめかみに血が集まり、そこが熱をもつ。前田くんが愛華の頭を平手で打ったのである。手で押さえようとすると、今度は左側を殴られた。
「痛い」
声を張り上げるとまた殴られた。押さえていた手の上からなので、さっきとは違う音がする。前田くんは側頭部ばかりを執拗に狙う。その度にきん、と耳鳴りがし、めまいがする。身をよじって逃げようとしても、もうひとりが立ちはだかっている。押しのけようとしても押し返され、背中に壁がぶつかる。打つ手のなくなった愛華はその場にうずくまった。そこを蹴られる。
がちゃがちゃという音が聞こえる。目をやるとずんぐりが準備室のドアを開けている。鍵には板がつけられ、そこに「音楽準備室」と書かれている。板は麻ひもでくくりつけられている。
鍵が開けられる間は暴力は止み、愛華は現状の把握に努めた。逃げられるのか。声をあげるべきなのか。失敗したらもっと殴られるだろう。手がぶるぶるふるえ、涙もとまらない。殴られたところはしびれて感覚がない。それなのに、うまくできるわけがない。
そもそもなんでこんな理不尽な目にあわなければならないのか、納得できない。前田くんはタヤマ先生に復讐したかったはずだ。殴ったのはタヤマ先生で愛華ではない。完全な人違いだ。しっかり問いただしたいが、また殴られそうで怖い。
ずんぐりは鍵を開けるのに手間取っている。「家のと違って」なんて言い訳している。
「お前んち、引き戸じゃねーの?」
「引き戸だよ」
「じゃあ同じじゃん」
「ちょっと鍵の形が違う」
「鍵なんてどれも一緒だから」
「違うって」
愛華としてはこのまま口論にでもなって、永遠にドアが開かなければと願うが、途中で前田くんにバトンタッチしたらあっさり開いた。ずんぐりは用心深い性格で、前田くんがドアを開けている間ずっと愛華から目を離さなかった。
2人が両サイドから愛華の腕を抱え、中に引きずり込む。これから行われることについてはよく分かっている。抵抗しても無駄ならさっさと終わらせてしまいたい。愛華はむしろ自分の意志で歩きたいが、膝が笑って思い通りに動かない。
音楽準備室は入るとすぐに楽器の棚があって、奥にはグランドピアノもあって手狭だ。ピアノの側面に、歪んだ3人の姿が写る。ピアノと大太鼓の間に愛華は座らされ、服を脱がされる。そこが入口からも音楽室の通路からも死角なのだ。窓にはカーテンがかかっていて、その向こうから吹奏楽部の音出しが聞こえる。よく晴れている。初詣の日も快晴だった。愛華としてはすっかり観念し、されるがままになっているが、2人の男子が下手くそで、マフラーとコートまではうまくはぎ取れたが、その先がなかなかうまくできない。抵抗していると勘違いした前田くんが、頭をはたいてくる。ピアノと大太鼓のせいでうまく振りかぶれないらしく、さっきほど痛くはない。それでもみじめなことには変わりない。
後ろ手にブレザーを半分脱がされ、ブラウスのボタンを途中まで外された間抜けな格好で、愛華は自分の罪について考えていた。こんな目に遭わされるということは、それだけのことをしたのだ。生徒会とがN高だとか、自分には高望みだったのである。ソフト部の練習についていけなくて、こそこそとサボっていた時のことを思い出す。他人の顔色ばかりうかがい、言いたいことも言えずにうじうじ悩むのが本当の愛華だった。それなのにタヤマ先生や前田くんを利用して芳賀くんや今井さんに近づき、教師に真面目にやれなんて偉そうな言い、すっかりいい気になってしまった。だからこうなっても当然の報いだ。前田くんの仕返しは、最初から愛華に向けられたものだった。
「ごめんなさい」
涙声で繰り返し謝る。こうして服がうまく脱げないのも、愛華が全部悪いのである。
愛華の謝罪にずんぐりが噴き出した。涙と鼻水にまみれながら謝り続ける愛華が滑稽だったのである。待ちきれなくなった前田くんが、服の上から愛華の胸を鷲掴みにして押し倒す。
そのとき室内に大音量が響いた。
全員が顔を上げ、辺りを見回す。最初は何か大きなものが落ちたのかと思った。大太鼓の打面がびりびりと震えている。その後でソプラノが歌い出す。「夜の女王のアリア」だ。音楽の授業で聞いたことがある。夜の女王が主人公に復讐を促す歌である。
曲は音楽室の方から流れてくる。よく見ると音楽室へ通じる扉がいつのまにか開かれている。音楽室に誰かいる。
愛華は反射的にタヤマ先生を思い浮かべた。曲がサビの高音にさしかかったところで、確かにタヤマ先生が現れた。その頃には前田くんとずんぐりはすっかりうろたえ、その場に立ち尽くしている。
曲が終わるまで、タヤマ先生も動かなかった。タイトスカートにタートルネックのセーターを着て、足元はいつもの来客用のスリッパだ。ピンクのフレームのメガネの奥は無表情で、見方によっては愛華たちにはまるで関心がなく、曲に耳を澄ませているようにも見える。
「前に出なさい」
授業のときの、声が出てない生徒に言うのと同じだ。爆音の歌が終わった直後で部屋はしんとしており、普段よりも声の冷たさが際立つ。前田くんとずんぐりが愛華から離れる。2人ともタヤマ先生よりも背が高いが先生は全く動じず、腕を組んでいる。
「警察呼びましたので。暴行罪です。2人にはもう未来はありません」
淡々とタヤマ先生が説明した。2人は直立したまま動かなかったが、先生が「戻ってください」と言うと急いでどこかへ行ってしまった。

警察を呼んだのははったりだと愛華は思っていたが、程なく外からサイレンの音が出て外が騒然となった。そうなると警察がここまで来るのかと愛華はおびえたが、タヤマ先生はただ110番しただけで、警察もなんで通報されたのかを知らなかった。教師たちが手分けして校舎の中を点検して回ったが、音楽室は鍵がかかっているのを確認すると、そのまま行ってしまった。

タヤマ先生は最初は愛華の頭をゆっくり撫で、髪を直してくれた。それから体に手を回して抱きしめ、背中をぽんぽんとたたき始めた。頭にしろ背中にしろ愛華にはそれが自分の体のように感じなかった。それでもタヤマ先生の腕にしがみついて泣いていると恐怖が徐々に和らいでくる。
「立てる?」
愛華がうなずくと2人でゆっくりと音楽室に移動した。室内はストーブが点けられ暖かかった。タヤマ先生は愛華のブラウスのボタンをはめ、上に自分の黒いコートをかけてくれた。準備室に放り出されたコートとマフラーとブレザーを取ってくると、シワを伸ばしながらグランドピアノの上に並べた。
それから2人で一度部屋を出て廊下の水道まで行き、愛華は顔を洗った。顔が腫れぼったく、水が冷たかったが、徐々に慣れた。日が暮れかかっており、周囲は薄暗かった。用意されたタオルで顔を拭くと、先生が顔をのぞきこんでくる。
「見た目は、大丈夫そうだけど。どこか痛い? 口の中は切ってる?」
愛華の状態を確認するために見ているのはわかっているが、顔を見られるのは恥ずかしい。恥ずかしいと思うと勝手に涙が出てぐずぐず泣いてしまう。思わず「ごめんなさい」と謝ってしまう。
「戻ろう」
再びタヤマ先生に肩を抱かれ、音楽室に戻る。扉を閉めると、タヤマ先生は忘れずに鍵をかける。
愛華ちゃん来なくなってから、鍵かけるようにしたんだ」
愛華を再び座らせると、先生は紅茶を淹れてくれた。相変わらずケトルのコードをほどくのに手間取り、先生は苛立っている。愛華はその様子を見ながら、こうして放課後の音楽室にくるのはいつ以来だろう、と考えた。さっき自分が来なくなってから鍵をかけるようになったと言っていた。動作がなめらかだったから、もう長い間そうしているのだろう。
紅茶を飲んで一息つくと、することがなくなってしまった。愛華は体が重くて頭も痛み、家に帰って横になりたかったが、それでも暖かい音楽室は居心地が良かった。それに今は一瞬でもひとりになりたくない。
タヤマ先生もどうしていいかわからないのか、
「お菓子、ないんだよね。ダイエットしてて。あと職員会議で問題になって......」
とぶつぶつ言っている。ダイエットという割に、体型には変化がない。上半身はセーターでごまかしているが、タイトスカートは少しタイトすぎる。
「先生、ピアノ弾いて」
「おっけー」
愛華の言葉に助けられたように先生がピアノへ駆け寄り、椅子の調整を始める。こんな人だっただろうか。
タヤマ先生はドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」「英雄」を一気に弾いた。相変わらず手の動きが機械的で無駄がない。ふっくらした手だと思っていたが、遠い鍵盤に指を伸ばすと骨が出る。まっすぐに下ろした髪が横顔に垂れている。先生はそれには全く注意を払わず、ひたむきに弾いている。曲は全部頭に入っているらしい。
ラヴェルモーツァルトもラ・カンパネルラも、知っている曲も知らない曲もあった。適当なところで切り上げてしまう曲もあった。愛華は机の上に腕を投げ出して聞いているうちに、眠ってしまった。ピアノの旋律が、外国語のニュースみたいに耳に入ってくる。
色も形もない夢を見ながらまどろんでいると、どこかで聞いたことのあるメロディーが聞こえてきた。

「たとえば君が 傷ついて
くじけそうに なった時は
かならず僕が そばにいて
ささえてあげるよ その肩を」

愛華も小学生のときに歌ったことのある「BELIEVE」という合唱曲だ。タヤマ先生がピアノを弾きながらまっすぐ前を向いて歌っている。弾きなれていないのか、それまでの自信満々な演奏とは異なり、たどたどしい。歌詞を何度も間違え、むにゃむにゃと誤魔化すところもあった。それまでのギャップと意外な選曲に愛華の眠気は完全に飛んでしまった。 
愛華ちゃん、卒業おめでとう」
歌が終わると先生は愛華のほうを見て、愛華にそう言った。
「先生、何言ってんの。卒業式はまだ2ヶ月先だよ」
「そうだけど、多分そのときは言えないと思うから」
「なんで?」
「わたし、教師やめるから」
「嘘」
「嘘」
「ちょっと、意味わかんない」
「うん、でも卒業式のときは、先生みたいに言わなきゃでしょ?」
「それも意味わかんない。先生でしょ?」
「そうだけど、友達として言いたかったの」
「友達」のところで先生は照れくさそうに自分の髪を耳にかけた。その仕草を見ていると、本当に同級生みたいに見えてしまう。
「わたし、友達なの?」
「うん」
「だってひどいことしたよ?」
「それはお互いさまじゃない、それに」
「それに?」
「友達ってそういうものでしょ?」
愛華はうん、と言ったが、その言葉が意味する本当のところはわからなかった。先生の優しさだけが心に染みた。涙ぐみそうになるが、また先生のひどい歌を聞かされそうだからこらえた。窓の外がすっかり暗くなり、遠くの街灯が灯台のように見える。
「さ、帰ろう。家の人も心配するし。送るから支度しよう」
「家の人」だなんて先生みたいな言い方するんだな、と愛華は思った。

タヤマ先生の予言通り、卒業式で顔を合わすことはできなかった。2月の終わりに先生は隣町の中学に異動してしまったのである。時期としては異例中の異例なので様々な噂が流れた。音楽室にこもってクスリをやっていた、とが教え子に無理やりキスして訴えられた、とか。前田くんは登校拒否になり、ずんぐりはそもそも何年でどこのクラスなのかも知らない。

今井さんは始業式の愛華の様子を心配して、翌日にメールを送ってきた。「芳賀くんのこと、気づけなくてごめん」と謝ってきたので、「チカちゃんのことが好きなら仕方ないもん。それなのにひどい態度をとって、わたしの方が、ごめん」と素直に謝った。友情は簡単に復活し、2人で担任のところに行って、第一志望を変えることを話した。N高のさらに上のW女子校にすると言うと、担任は今井さんばかりを説得しようとした。愛華のことは完全に見放している。次の休みに神社に行って改めてお揃いのお守りを買うと、2人で猛勉強をし、無事に受かることができた。合格発表の掲示板の前で、手を取り合って喜んだ。今井さんは泣いていたが、愛華は泣かなかずに今井さんの肩を抱いた。

卒業式の後に芳賀くんに告白された。校舎の裏に呼び出され、チカちゃんとは1ヶ月で別れたことを告げられた。第2ボタンのない制服で、生徒会のことや夏休みのこと、教師との議論のことやタヤマ先生への愛華の立ち回りのことなどを一気に話した。次々と出てくる思い出の場面に、愛華は卒業式のリバイバルみたいだな、と思った。
「俺、気付いたんだよ。松永のことが好きだってこと。好きだし、尊敬している」
非の打ち所のない言い回しに、愛華は素直に感心した。生徒会の演説も、クラスをまとめるときも、いつもこんな感じで、みんなの心をつかむ。
「芳賀くん、ありがとう。生徒会楽しかったね。でも芳賀くんは、私じゃなくてもっと違う人が好きだと思うよ」
「だから墨田とは別れたんだって」
「ごめんなさい。わたしもう、中学のことは全部忘れたいんです。早く高校生になって、また1からスタートしたい。自分のしたいことをしたいの」
「忘れたいって、俺のことも?」
「そうです」
芳賀くんの顔から表情が消え、放心状態になった。しばらく沈黙が続いたので
「戻ってください」
と言うと、ふらふらとどこかへ行ってしまった。

校舎の裏は日当たりが悪いため、体がすっかり冷えてしまった。道路沿いに植えられた桜はまだつぼみの状態だった。その向こうでトラックが大きなエンジン音を立てて通り過ぎる。空を見上げると校舎の3階の窓が、ちょうど音楽室になっていた。赤い絨毯やグランドピアノが頭に浮かぶ。タヤマ先生はもういないが、またあそこに迷い込む生徒はいるのだろうか。
「さよなら」
誰にともなくそうつぶやいて、愛華は歩き出した。

愛華は春から高校生になる。


〈了〉

音楽室(15)

年が明けて駅のそばの、市内の1番大きな神社で初詣をした。愛華の家からは自転車で20分かかり、こんなところまで初詣に来るのは初めてだった。例年なら家族とともに、近所の小さな神社に行く。区長たちが、ドラム缶に角材を突っ込み、それに火をつけて暖をとりながら日本酒をあおっているだけの光景だ。馬鹿な酔っ払いが愛華にも酒をつごうとして、親もこの日ばかりはまあ飲めるなら飲めば? みたいな顔をする。浮かれ気分の大人を見るのがしんどくなり、去年は行かなかった。
朝8時に鳥居の前に集合とのことなので、6時に目が覚めた愛華は、全員寝静まって誰もいない居間のコタツのコンセントを突っ込み、火力のツマミを最大まで回し、そこに両手両足を突っ込んで何もしないでいたが、やがてファンヒーターのスイッチを入れた。間があって送風口からごおという音が漏れる。
明かりはつけていない。灰色のカーテンがいくらかの光を通し、愛華の周りは、かろうじて暗闇を逃れている。なんだか神聖な気分がした。
特に意識しなくても、結局は時計ばかり見てしまう。着替えをして髪をとかし、7時半に家を出た。少し遠回りをして行けば、ちょうどいい時間に着くだろう。新品の靴下をおろした。家族は誰も起きてこなかったが、初詣のことは伝えてあった。誰と? とかそういうことを聞く親ではなかった。受験生だから初詣くらい行くのだと思われたのだろう。
鳥居の前で1人で待っていると、今井さんと芳賀くんが現れる。鳥居は東側にあったので、2人は逆光に照らされ、判別がままならなかったが、2人の絶妙な身長差ですぐにわかった。今井さんは学校の時とは違うコートを着て、違うピンで髪を留めていた。手袋は同じだ。芳賀くんはだいたいいつも通りだ。細かい部分でどこか違うのかもしれないが、ぱっと見で、いつも通り、と決めつけ安心した。
じゃあ行こうか、と鳥居をくぐろうとすると「ちょっと待てよ」と芳賀くんが愛華の左肩を押さえた。芳賀くんも古風なところがあって、改まった挨拶でもしたいのかと振り返り、深々とお辞儀をすると、芳賀くんと今井さんは笑いながらそれに応じてくれた。何か引っかかる笑い方だった。昨日の紅白の話題でも振って、様子見をしてみようかと思ったところで
「お待たせしましたあ」
と現れたのは、チカちゃんだった。たまたま偶然通りかかったのではないことは、芳賀くんたちからの迎えられ方ですぐにわかった。チカちゃんとは昨日の夕方にメールをしたのが最後だったが、愛華は初詣に行く、とまでは言ったが、時間までは教えていない。
何か嫌な感じがして、顔に出てしまいそうなのをなんとか抑えてニコニコしていたら、芳賀くんとチカちゃんが付き合い出したことを知らされた。
芳賀くんよりも今井さんを責めたい気分で、実際家に帰ってから「どゆこと?」と速攻で今井さんにメールをしたら「私だって知らない。昨日から付き合い出したらしい」とどこか怒り口調で返ってきた。ひょっとしたら、今井さんもやっぱり芳賀くんが好きだったのかもしれない。
このまま理不尽に怒りをぶつけ、友情もクラッシュさせてもよかったが、とりあえず先にチカちゃんの罪について考えようかと思った。が、人の彼氏を誘惑しやがってと言いたくても、芳賀くんは愛華の彼氏ではなかったし、考えてみると、愛華はチカちゃんに芳賀くんが好きだと言ったことはなかった。態度でバレバレだから、言う必要もないと思っていただけだ。大量のメールを順番に読み返してみると「芳賀先輩と愛華ちゃんてお似合いですね」のチカちゃんのメールの後には「そんなことないよ~(困りながらもにこにこしている絵文字)」と返信している。そんなことないのなら、取られても仕方がない。もしかしたら、チカちゃんは愛華にずっと遠慮していて、何度も2人の関係を確認し、特に進展もなく年も明けたことだし、思い切って告白だけでもしておこうと告白してみたら、思いもよらずうまく行ってしまっただけの話かもしれない。だとしたらチカちゃんはなかなか周りに気配りのできる、できた子だ。冬休みの前、チカちゃんが生徒会長に立候補して当選して芳賀くんと3人で大喜びしたのを思い出す。芳賀くんと2人で大きな声で応援した。チカちゃんは泣きながら「2人のおかげです」なんて言ってたが、よくよく思い出すと、その時芳賀くんのことを、いやらしい目で見ていた。泣いたのもきっと嘘泣きだ。
とりあえず芳賀くんのアドレスを消すことにする。アドレスが消えるとメールも消した。一仕事終えるとコートを着たままベッドに突っ伏した。しばらくするとお母さんに「お雑煮できたよ」と呼ばれた。
無視してもよかったが、餓死しても仕方ないので、朝、足を突っ込んだコタツに再び足を入れると「お餅いくつ?」と台所から声だけで聞かれた。ひとつ、と答えると餅がひとつ入ったお雑煮がやってきた。正面では父親が鼾をかいている。朝から飲んでいたことがわかる。そういえば今は一体何時なのだろう。テレビはついているが、正月の番組のせいで時間が読めない。時計を見上げようとするが、口の中の大根が熱くてそれどころじゃなくなってしまう。時計を見て時間も確認できないなんて、わたしは本当にかわいそうな子だ、と、愛華は思い、泣きたい気持ちになる。
その時タヤマ先生の笑い声が聞こえた。ぎょっとして顔を上げると、時計は6時15分を指している。もうとっくに日は暮れている。どうしてこんな所でタヤマ先生が? と思い、 部屋を見回すが、寝ている父親しか部屋にはいない。空耳だ。愛華は箸を置いてため息をついた。
確かに愛華の今の状況を見たら、タヤマ先生は笑うだろう。正月のテレビの前で雑煮をすすりながら、世界で1番不幸な女を気取るなんて、ギャグでしかない。もしこの場に先生がいたら、芳賀くんとチカちゃんの悪口をひたすら言うに決まっている。チカちゃんには一度煮え湯を飲まされているから、悪口は5倍増しである。
久しぶりにメールでもしてみるか、と思いたった愛華は、部屋に引っ込み、枕の下に埋もれた携帯を取り出した。念のためにセンターに受信メールを問い合わせたら、誰からもメールをは届いておらず、そのことを意外に感じながら、いよいよ孤独になっちゃったなあ4日からの冬季講習はどんな顔して行けばいいのかとか思いを馳せながら「先生、明けましておめでとう。ところでわたし、振られちゃいました」という文面をひと息で打った。ところが、宛先にタヤマ先生のアドレスを貼り付けようとしたら、不思議なことにアドレスが見つからない。タヤマ先生の、タ行のところを下にずれて行ったが、そもそもタ行には田村という塾の同じクラスで、大して仲良くしたくもないが弾みでアドレス交換した子しかいない。よくやるミスで、タヤマ先生をアドレス登録する時に、読み仮名を入れ忘れ、アドレスの最後の「♯」の項に入り込んでまうことがある、そこに画面を遷移させるが、誰の名前もなかった。仕方なくア行から順番に見たが見つからず、ワ行から遡っても結果は変わらない。芳賀くんを消した時に、一緒に消してしまったのかもしれない。だとしたら馬鹿だ。芳賀くんに関しては、もしアドレスを消したことを後悔したとしても、今井さんに聞けばいつでも復活できることを、愛華はわかっていた。対してタヤマ先生の場合は、そういう保険的なものは一切ない。本人に聞くしかないが、押しかけるべき先生の家の場所を知らない。
新学期までまだ1週間もあることに苛立ちをおぼえた愛華は、携帯をドアに向かって投げつけた。携帯は、ばきっとそれっぽい音を立てて床に落ち、愛華は慌てて被害を確認すると、側面に傷がついただけで、液晶は問題なく21時4分と表示されていたので安心した。
そこまできてようやく気づいたが、愛華はそもそもタヤマ先生のアドレスを知らなかった。先生が携帯を持っているかどうかも知らない。以前袋から取り出して見せてくれたのはどこかの生徒から取り上げたものだった。

始業式の後、まるで何事もなかったかのように今井さんが鞄を下げて愛華の席までやってきた。廊下のところでは、首にグレーのマフラーを巻いた芳賀くんが、一緒に帰るつもりでスタンバっていたので、愛華は呆れた。この人たちは、どれほど無神経なのだろう。そう思ったが、よく考えると、勝手に気まずがっているのは愛華だけだった。今井さんは、とりあえず自分から話題に触れるのは避け、愛華から持ちかけたら慰めようと思っている。芳賀くんはチカちゃんと恋人同士でも、友情は友情として大切にするフェアな男なのだ。
愛華は無言で立ち上がり、今井さんの手を引っ張って廊下に出た。
「今日はタヤマ先生のところに寄るから。先に帰って」
芳賀くんの前までくると2人にそう伝えた。何の前触れもない、タヤマ先生という単語に、2人の顔に「?」が広がる。芳賀くんはそのままだったが、今井さんの表情は徐々に険しくなる。きっとかつて音楽室で恥をかかされ、泣かされたことを思い出しているのだろう。
なんと言葉をかけていいのかわからない2人を残し、音楽室へ向かう。このままチカちゃんと鉢合わせしたら厄介だと思っていたらチカちゃんが前からやってきたので無視した。チカちゃんが怪訝な顔をしながら、愛華に道を譲った。
放課後、こうして音楽室へ来るのは本当に久しぶりなので、愛華は緊張していた。校舎の1番端にある音楽室のドア付近は、光があまり届かないために薄暗く、冷んやりしていて寒くなってくる。先生は中にいるのだろうか。

音楽室(14)

夏休み前半は3人がなかなか揃わなかったが、芳賀くんのバスケ部も今井さんの陸上部も早々に大会で敗退し、お盆の前辺りから3人で会えるようになった。塾の講習は夕方からだったので、昼過ぎに図書館に集合しそこで宿題をすませた。
愛華としてはできるだけ今井さんに遅れてきてもらい、芳賀くんと2人きりの時間を増やしたかったが、一度今井さんがおばあちゃんちに行ったときに気まずくて仕方がなかったので、それからは予め今井さんと待ち合わせしてから行くようにした。それに、やはり愛華の学力は2人と比べたら劣っているので、例えば芳賀くんが三平方の定理の応用問題を聞いてきても、咄嗟には答えられない。よく冷房の効いた自習室は居心地が良かったが、1時間もいると飽きてしまう。2人とも勉強中はあまり喋らない。以前佐藤さんたちと勉強したときはお喋りばかりで全然はかどらなかったが、そのときと雰囲気がまるで違う。
「なんが飽きた」
ある程度時間が経つと芳賀くんが言い出す。愛華としては待ちに待った瞬間である。自分から言うと「もう?」と言われそうで怖いのである。3人で建物を出て向かいの公園を散歩する。今井さんは「まだ終わってない」と渋るが結局はついてくる。図書館から出て道路の下のトンネルをくぐると公園になっている。中央には大きな池があって、そこをぐるりと一周するのがいつものパターンだ。そこら中から蝉の鳴き声が聞こえ、午後の暑さはうだるようだったが、図書館の冷房で冷え切った体にはむしろその暑さが心地よかった。
「高校行ったらさ、また一緒に生徒会やろうよ」
池の半分まで行ったところのベンチに腰かけ、あるとき芳賀くんが言った。ベンチは東屋の中にあり、さらにケヤキの木々が覆っているので辺りは影に覆われていて薄暗い。
「そんなうまくいくのかな。たくさん人がいるのに」
「N高の定員見たろ? 300人で中学と変わんないよ」
「うん。でもわたしはまず受かんないと話になんないから」
「大丈夫。愛華はわたしが必ず合格させるから」
今井さんが言った。今井さんは白いスニーカーを履いていて、靴底で砂利をこすりつけている。
「じゃあさ、今度は今井さんも一緒に生徒会やろ?」
「えー」
「今井さんは、副会長がいいと思う」
「ていうかさ、もう『今井さん』はやめてよ。私だって『愛華』て呼んでるんだから」
「じゃあ『鈴音』て呼べばいいの? なんか変」
「変じゃないよ。わたしの名前だよ?」
「わかった。『鈴音』て呼ぶね、これから」
「じゃあ俺も『高徳』て呼んでよ」
「やだよ、芳賀くんは、芳賀くん」
「高徳なんて、キモい」
「いや、俺の名前だよ?」
愛華はこのやり取りを高校に行っても続けたいと思った。芳賀くんは馬鹿にしたように爆笑する2人に、手すりに絡まった草の葉をむしり取って投げつけた。ふざけてやっているのは明らかだが一瞬愛華はひるんで、今井さんの腕をつかんだ。今井さんの腕は細かったがしっかりしていて、愛華は一瞬、自分は芳賀くんではなく今井さんが好きなのかも、と思った。
その瞬間、タヤマ先生とキスしたことを思い出す。思わず今井さんの顔を見たが、今井さんの唇はタヤマ先生のよりも薄く、色あいも地味だった。体全体も細く、Tシャツはぶかぶかだ。小太りのタヤマ先生とは全然違う。
「ていうかさ、生徒会って何のためにあるんだろうね」
愛華がつぶやくと、2人が目を丸くしてこっちを見てくる。愛華はかつてタヤマ先生が言っていた「生徒会なんてただの内申点稼ぎで何の意味もない」という言葉を思い出し、そのことを2人に説明した。もちろんタヤマ先生の名は伏せて。
「うーん、確かにそうかもしれないけど」
「でもさ、大人も同じことするわけでしょ? だったらその練習なのかもよ」
「じゃあクラスのディベートで十分じゃない? この前米の輸入の賛成反対みたいな」
「そうだけど、議会っていうの? そういうのの疑似体験みたいな」
今井さんのお祖父さんは市会議員をしている。
「よし、俺がちょっと考えてみるよ。疑似体験、ていうのもちょっと違うと思うし」
芳賀くんが立ち上がってそう言った。芳賀くんの額には汗が浮いている。愛華も背中にじっとり汗をかいていた。図書館に戻ったら冷えて寒く感じるのだろう。

「先生たちに、禁煙してもらおう」
二学期の最初の日の帰り道、芳賀くんがそう言ってきた。校舎を出たときは今井さんと2人だったが、後から芳賀くんが走って追いついてきた。
「禁煙?」
「そう。結構煙草吸ってる先生多いから」
「確かに。職員室も煙草くさい」
副流煙とか、吸わない人にも有害らしいよ」
「あと、校舎の裏で吸ってる先生もいるね」
「それじゃあ喫煙室とか? 場所決めて吸ってもらおうよ」
早速アンケートをとってみると、全教師の半数以上が喫煙者であった。散々タバコの有害性についての講義やビデオで洗脳してくるくせに、肝心の自分たちが所かまわず煙をふかすなんておかしいと、生徒会の中でも盛り上がった。
「それじゃあ一度、喫煙されている先生方と、直に話し合ってみたらいいんじゃないでしょうか?」
職員室で校長に、レポート用紙に手書きでまとめた要望書を渡すと、粋なことを言い出した。校長自身は5年前に尿酸値が上がって、医者に注意されて以来煙草はやめている。
早速翌週の放課後、会議室に招待され話し合いが始まった。愛華たちの中で、そこへ入ったことのある者はいなかったため、少し浮ついた気持ちになっていたが、足を踏み入れるとすぐにヤニ臭さが鼻をつき、あまり歓迎されていないムードだと感じた。テーブルの上に灰皿が置いてあるわけではないが、会議は煙草をふかしながら行われるのだろうか。かつて吐き出された煙が壁や天井に染み込んでいる。
会議室は細長い部屋で、窓のスペースが小さく、蛍光灯の光のみのぼんやりとした空間になっている。長机をロの字に並べると手狭になって、遅れた教師が入ってくると、手前に座っている愛華たちが椅子をずらして道を開けてやらなければならなかった。
話し合い自体も、すぐにだらけた感じになった。窓際に陣取った喫煙組の教師たちは妙にへらへらしており、まるで緊張感がない。タヤマ先生はその中にはいない。何か言われても適当にはぐらかし、やり過ごしてしまおうという気配が、よく伝わってくる。自分たちに負い目があるのは十分わかっているから、同じ土俵に上がることは絶対に避けようというのだ。
こうやって先に空気を支配されてしまうと、愛華たちの方はすぐに打つ手がなくなる。年の功もあるし、普段は向こうが上から言う立場だから、どこまで強気に出ていいのかわからない。いつのまにか元来の教師と生徒という関係が顔を出し、自ら道を譲るように聞き役に回ってしまう。調子に乗った初老+薄毛の国語教師が「俺なんかそれまで2箱だったのを、頑張って1箱に減らしたんだよ?」と周囲をキョロキョロしながら自慢を始め、それを皮切りに自分はニコチンが軽いのにした、午前はセッター午後はスーパーライトで我慢してる、等愛華たちそっちのけの誰が1番大変か比べが始まった。6人の喫煙組の後ろの窓から西日が差し始め、彼らの存在が来た時よりもずっと遠くになった。
「もう少し真面目にやってくれませんか」
1番端に座った愛華の言葉は、四角いテーブルの対角線上を通り抜け、室内の空気が一気に張り詰めた。喫煙者たちの視線が愛華に集まるが、愛華は肘をついて身を乗り出し、真正面からそれを受け止める。しばらく蛍光灯の音だけしかしなくなり、やがてホスト役として真ん中に座っていた教頭が、咳払いをした。これは何かの合図らしい。教師たちは一様に気まずそうな表情を浮かべ出した。教頭は下を向いて何も言わない。教頭の後ろには大きな日本地図がかかっている。
愛華は自分の言葉に興奮していたが、頭の中で、かつてタヤマ先生の元へ単身乗り込んだことを思い出していた。職員室で小さくなっている先生の背中に謝罪の言葉をかけた。それは、謝罪のための謝罪というより、どこか押し付けがましく、下手をすればこちらから手を差し伸べてやっているような謝罪だった。あの時は、この人が相手だからこんなことを言えるわけで、他の教師だったらまず無理だ、と思っていた。でも、今この場でその考えはひっくり返り、この人たちに言いたいことを言う方が、余程簡単だと思った。
結局この話し合いで、何か新しい取り決めが結ばれるわけでもなく、時間の無駄に終わったが、生徒会とでの愛華の評価は益々高まった。教頭にもあの後
「君は自分の意見をきちんと言えるんだね。素晴らしいな」
と褒められ、喫煙組の何人かも廊下ですれ違うときに声をかけられた。会議室では敵対ムードだったのに不思議な気がした。
芳賀くんは帰り道、今井さんに「やっぱりいざという時、松永は頼りになるよ」と誇らしげに報告した。今井さんは満足そうに微笑むにとどまった。

秋が深まるにつれ、愛華の成績も順調に伸びた。11月の模試ではそれまで努力圏だったN高がついに合格圏に入り、芳賀くんが自分のことのように喜んでくれた。今井さんは「まだまだこれからだよ、油断しないで」と釘を差したが、それでもホッとしたような顔をしていた。愛華の進路に、責任を感じているのだろう。2人とも当然N高は安全圏であり、むしろ愛華の成績を伸ばすことのほうが重要な任務のように感じている。

12月にちょっとしたことが起きた。
2学期末テストの直前だった。たまたま理科の先生が出張でいなくてそれじゃあテスト勉強の時間にしよう、教科は理科じゃなくてもいいよ、ということになり、一部の生徒は忠実にそれを守り、一部は騒ぎ始め、多数はその中間層に属す形になっていた。愛華はこれ幸いにと、塾の宿題にとりかかっていた。今井さんも多分同じことをしている。席が離れていてよくわからないが、誰かとお喋りしているようには見えない。
年明けにもう受験が、ということで、わかりやすく取り乱している子もいれば、完全に未来を捨てて、今という時間を謳歌している人もいた。窓の外は曇っていて雪が降るには早いが、雪の降りそうな天気だ。先週の模試の結果に満足した愛華は、その勢いで期末テストもいい点を取りたいと思っている。前回の二者面談では第一志望を下げるように言われた愛華だったが、期末テストで結果を出せば堂々とN高を第一志望にすることを宣言できる。芳賀くんと同じ高校に通うことが、現実味を帯びてきた。今井さんも含めて、来年は3人で同じ電車に乗って通うことになる。そこに新しい仲間が増えるか増えないかは知らないが、この3人の関係はずっと続いていく。
比較的真面目に勉強していた隣の列の男子が、飽きてしまったのかこそこそと何かを話し始めた。笑い飛ばせるような類のものではないらしく、不自然なほど顔を付き合わせて言葉をやり取りしている。どうせ下らない下ネタに決まっているから、聞き耳を立てるのも馬鹿らしい。そう思っているくせに、愛華の視線は、同じ英単語を行ったりきたりしている。わざとテキストを立てて顔を近づけるが、視界が遮られた分、音がクリアになって逆効果になった。
確かに「タヤマが?」という言葉が聞こえた。
男子Aの報告にBが、話に出てくる行動Xの対象が、確かにタヤマ先生であるかの確認をしている。確認をとったのはXとタヤマ先生が不釣りあいであるせいだろう。
「それどういうことなの?」
ついに我慢ができなくなって、愛華は話に割り込んだ。男子ABとは、そんなに親しい間柄ではない。見返す男子たちの顔は、青ざめ、彫像のようだ。あまり人に、というか女子には聞かれたくない話内容だった。男子Bは助けを求めるように、机の上のシャーペンを握った。開いたノートには辿々しい字の計算式が並んでいる。
「ただの噂だからわかんないよ?でも、4組の前田がタヤマ先生に仕返しするんだって」
「いつ?」
「わかんないよ。聞いただけだから」
愛華はさらに、誰に聞いたかを追求したが、それは隣のクラスの知らない人で、これ以上聞いても無駄なことがわかり、2人はを解放した。
4組の前田はあの前田くんだ。3年になってからクラスが違うので、今どうなっているのかはよく知らない。合唱コンクールでタヤマ先生に殴られ、一時期音楽の授業をサボっていた。愛華が生徒会に入った頃には、普通の生徒に戻っていたし、タヤマ先生も取り立てて嫌がらせをするわけでもなかった。3年になってから何か事件でもあったのだろうか。
そもそもチカちゃんの活躍で、タヤマ先生自身も最近はおとなしくなったときく。
奇妙な感情に支配されていた。外を見やると雨が降り出している。雪でも降りそうだったが、やはり雨だった。教室内は全ての蛍光灯が灯っている。まだ午後の2時だが、これを消せば、夜と間違えるくらい暗くなるだろう。愛華の目は、相変わらずひとつの英単語ばかり拾ってくる。
足元が冷えてしょうがない。履いている上履きがどうしようもなく冷たく、これが寒さの原因のような気がしてならない。愛華は一昨日から生理になっている。およそ予定通りにきて、量もいつも通りだ。もちろん替えのナプキンを忘れたりしない。もし万が一忘れたとしても、今井さんに言って借りればいいだけだ。今井さんじゃなくてもいい。クラスには20人近くの女子がいるのだから、その誰かに声をかければ何の問題もない。
4組の前田がタヤマ先生に仕返しするんだって。
男子Aは相手が愛華だから、うまいこと言葉をオブラートに包んだが、愛華はその前の会話もちゃんと聞こえていた。

タヤマ先生が前田くんにレイプされるらしい。

音楽室(13)

3年になると、今井さんがメインの友達になった。今井さんは陸上部だから、いつも一緒に帰れるわけではなかったが、生徒会のある日はお互いに待ち合わせをして帰る。クラスでは特定のグループと仲良くしたりしないが、今井さんとは常に一緒だ。
今井さんといると、こっちも垢抜けたような気分になる。生徒会の書記に当選したのをきっかけに、愛華を取り巻く状況は、少しずつ変わっていった。選挙活動を通して今井さんと親しくなった一方で、佐藤さんたちとは距離ができ、進級してクラスが変わると完全に切れてしまった。
音楽室へももう行っていない。
タヤマ先生は今年も2年生の全クラスと、3年生の半分の授業を見ている。愛華のクラスはその半分には入っていない。音楽係は今井さんと2人でやっている。今度の先生はゴトウという50過ぎのおばさんで、痩せてて背が低く、顔もシワだらけで、なんだか空気の抜けた風船のような容姿だ。ピアノは正直今井さんの方がうまい。取り柄と言ったらいつもニコニコして、怒らないことくらいだ。だけどそのせいで、授業に締まりがない。男子はすぐエロい話を始めるし、女子はこそこそと手紙を回し出す。
その責任が音楽係の自分にもある気がして、愛華は時折先生がくる前に、わざとリコーダーの練習をさせたりする。実際先生からは何の指示も受けていない。それを見てゴトウ先生は「まあエラいわね」なんて呑気なことを言う。おそらく愛華のクラスは他とはだいぶ雰囲気が違うだろう。ふざけている生徒には、愛華が直接注意する。ゴトウ先生に言いつけると脅したって効かないから、直接担任に報告して内申点を下げさせると言い放つ。言われた方は「なんかタヤマみてーだな。こえぇよ」とひるむ。

タヤマ先生はたまに職員室や廊下で見かけるが、声をかけ合ったりなんてことはなかった。そもそもすれ違うことがない。特に愛華の方から意識して避けているわけではない。以前の自分なら、気まずくてそうしていただろうが、今は会ったら会釈くらいはしようと思っている。それなのに遭遇しないということは、向こうが距離をとっているということになるだろう。教師のくせに、と愛華は思う。
芳賀くんとは、生徒会がある日には一緒に帰る。生徒会長になった芳賀くんは、週に1度、生徒会室の1番前で会議を取り仕切る。愛華はその隣の隣、端っこの席で、ノートに発言を書きつける。全ての発言をノートに取るなんて、どれだけの重労働なのかと不安だったが、実際は全クラスの評議委員が集まっても、自ら発言する者はまずいない。芳賀くんが発言を促してようやく口を開く、という有様だ。評議委員は、各クラス男女1名ずつ出す決まりだから、多分くじ引きか何かで無理に押し付けられたに違いない。早く帰りたいオーラが全開で、発言も右に同じみたいなものばかりで、なんの議論にもならない。愛華は芳賀くんを助けるつもりで、積極的に自分の考えを述べるようにして、会議が少しでも盛り上がるように努めた。
「芳賀先輩と松永先輩ってなんかお似合いですよね」
そう言ってきたのは、1年後輩の墨田チカちゃんだった。チカちゃんは4人いる副会長のうちの1人で、生徒会役員の中で、女子は愛華とこのチカちゃんだけだ。そのため必然的に仲良しになった。社交的で声がしゃがれていて、最初の顔合わせが終わった直後に、メールアドレスを聞かれた。久しぶりに愛華の携帯が頻繁に鳴るようになり、翌日寝坊することも増えた。今井さんや芳賀くんともメールのやり取りはするが、それほど盛り上がることはない。
チカちゃんのお似合いですね発言があったのは、夏休み前の最後の会議の日で、早目に終わったので、芳賀くんと夏休みの勉強計画について延々と話をしていた。今は芳賀くんともクラスが違うから、こんな風に話せるのも生徒会や帰り道だけなのだ。芳賀くんは地黒だから、真っ白なワイシャツがよく似合う。左のポケットについている名札はだいぶボロボロで、お互い長く中学生をやってきたことを自覚してしまう。もう3年の夏休みなのだ。チカちゃんは先に帰っていたが、話し込む愛華と芳賀くんの様子を見てお似合いと思ったのだろう。
勉強計画、と言ってもほとんどは塾の夏期講習がウェイトを占める。講習は、お盆をはさんで10回もある。それ以外に学校や塾の宿題を、図書館かどこかでやろうと言うのである。芳賀くんがいなかったら、おそらくこんなに勉強なんてしなかっだろう。愛華は4月から芳賀くんと同じ塾に通うようになった。それまでは塾へ行くなんて発想もなかったし、どうしてそんな発想がないのかと言えば、家から一番近い高校は、それほど勉強しなくても地元なら優遇して入れてくれるという話だったからだ。親も進路については何も言わない。
「それじゃあとは今井の都合も聞いてだね」
芳賀くんと今井さんは、もともと同じ小学校出身で、塾も同じだ。
愛華は選挙の後、早い段階で芳賀くんへの気持ちを今井さんに打ち明けた。今井さんの気持ちを確認し、釘を差す目的もあった。今井さんも芳賀くんに惹かれている可能性はかなりある。
ところが最初のメールの数分後に「マジで!?(絵文字)」と返ってきた後は、ひたすら協力するモードに徹し、芳賀くんのレア情報を提供してくれた。
帰り道の垣根の脇は、もう何万回通ったかという感じだ。後ろには今井さんがいて、道路側には芳賀くんが歩いている。正面から自転車などがくると、避けるために愛華の体は垣根にぐっと寄る。この向こうにソフト部がいて、かつてはとにかくそちらには目をくれず素早く通り抜けることに全精力を注いでいたが、今は憎らしい先輩はひとりもいない。所々に枝が飛び出ていて、自分の制服に当たりそうになる。
芳賀くんと別れるのは垣根が終わった十字路で、信号が青になると、振り返ることなく一気に行ってしまう。そこからは今井さんと2人になるが、今井さんとも5分くらい歩いて弁当屋の前で離れる。愛華の帰り道で、誰かと話をしながら歩くのはほんのわずかな距離で、あとは1人で横断歩道を渡ったり坂を上ったりする。愛華の家だけ理不尽に遠い。それでもこの長い道のりが、少なくとも今は苦ではなかった。歩きながら、さっきの会話や仕草、今日1日の出来事を振り返る。途中でクリーニング屋や交番の前を通り、公園を突っ切ってイチョウ並木を通るが、そんなことはほとんど記憶に残らない。帰る頃には汗だくになって、台所に直行し、麦茶を飲んでひと息つくと、携帯にはチカちゃんからのメールが届いている。
「芳賀先輩と愛華ちゃんて、なんかお似合いですよね」
もうすでに何度か言われているが、愛華は適当にはぐらかしている。何故か今井さんのように気持ちを打ち明けようという気にならない。それでも言われて悪い気はしない。むしろこの子がもっと無神経だったら、と思う。そうしたら、自分のいないところで、もしかしたら芳賀くんにも同じことを言うのかもしれない。馬鹿丸出しで「芳賀先輩も、愛華ちゃんのこと好きっていってましたよ!」とか報告してきて欲しい。
「そういえば愛華ちゃんて、2年の頃タヤマ先生に音楽習ってたんですよね?」
話題を変えようと思ったところで、目に飛び込んできたのは『タヤマ』の文字だった。愛華の背筋が寒くなる。いや、この子は別に、かつて愛華と先生が音楽室で逢引きをしていて、キスまでしたなんてことを知るわけない。少なくともこの1通のメールで、何もかも知られていると早合点するのは愚かだ。なのに低い方の可能性ばかり考えてしまう。そもそもこの子はいつから自分のことを「愛華ちゃん」なんて呼ぶようになったのだろう。後輩のくせに。チカちゃんは書道部だから上下関係が、よくわかっていないのかもしれない。この際だから、今後のためにビシッと言った方がいいのかもしれない。それにしても「愛華ちゃん」と「タヤマ先生」が1つの画面に出てくるのは、なんとなく不吉だ。タロット占いに見立てるなら、近いうちに何らかの関わりが出てくるということだろうか。待ち人来たりみたいな、ていつのまにかおみくじになっている。
もちろんチカちゃんは、何か秘密を握っているとかいうのではなく、タヤマ先生との相性が悪くてどうしようもないとの話だった。というか話を聞くとほとんどイジメだ。
タヤマ先生は、お決まりの初回授業校歌地獄にて、チカちゃんを真っ先に前に連れ出した。声が出てないとかの問題ではなく、チカちゃんのしゃがれ声が気に食わなかったためだ。授業の終わりに「もう少し真面目に歌ってくださいね」と言われたそうだ。それから合唱の時には、必ず槍玉に上げられるようになった。先生からしたら、声というよりも、馴れ馴れしい態度が気に食わなかったのだろう。
だがチカちゃんも負けてはいない。ある時「どうして私にばかり歌わせるんですか」と授業中、クラス全員の前で抗議をしたのだ。それは単にあなたが気に食わないから。というのが率直な理由だろうが、まさかそれをクラス全員の前で言うわけにもいかず、その場しのぎで「あなたの声帯は他の人と違っておかしいから」と答えたらしい。チカちゃんはそれには何も言い返さず、他のクラスメートもタヤマ先生の堂々とした態度に、何も文句は付けられず、授業は何事も無く再開した。授業が終わると、チカちゃんはその足で教頭のところへ行った。
タヤマ先生の救われたところは、チカちゃんが先に親に言いつけなかったことだ。もしそこから学校を経由せずに、ダイレクトに教育委員会に伝わったら、先生はそのまま職を失っていただろう。教頭はいち早くそのリスクを察知し、全面的にチカちゃんの肩を持つことで、話が大きくなることを防いだ。
「先生だって人間なんだから、間違いを犯すこともあるんだよ」
その後数日は、タヤマ先生の授業は教頭や教務、その他ベテランの教師が監視し、だいぶまともな授業が行われるようになった。以前のように、何の脈絡もなく生徒を指名したり、急に職員室へ引っ込んだりすることもなく、教科書は先生が自分で読み上げ、リコーダーの練習もグループごとに勝手にやらせて口も挟まず、かなりゆるい授業となった。
チカちゃんはクラスメートたちから英雄扱いされ、すっかり得意になっていた。
愛華ちゃんの頃もさ、酷かったんでしょ? タヤマ先生って。よく黙っていられたね」
愛華はタヤマ先生にとって特別だったから、黙っていられない必要はなかったのである。その発言で、ようやくかつての関係を勘付かれたわけではないと、愛華は胸を撫で下ろした。と同時に嫌味な言い方が鼻についた。
「そんなことできるわけないじゃん」
と送信すると、1秒もたたずに「どうして?」と返事が来た。どうしてどうしてとくるのか理解不能で面倒だから、そこで返事を送るのは止してしまった。麦茶がすっかりぬるくなり、コップが結露でべしゃべしゃになってしまった。

音楽室(12)

合唱コンクールが終わると、誰が宣言したわけでもないのに金曜の5時間目の学活が、選挙への準備の時間となった。それぞれ担当を決め、タスキやノボリを作ったり、演説のスケジュールを決めたりする。愛華は演説の内容を考え、明日の朝に発表しなければならなくなった。いくらなんでも急すぎる。誰かに抗議したいが、一体誰を中心に話が進んでいるのかわからず、状況についていくのが精一杯だ。みんな和気あいあいと自分の作業に取り組んでいる。佐藤さんたちはポスターの係になって、画用紙に愛華の名前を大きく書いている。あの前田くんも、朝の演説のローテーションに組み込まれている。少なくとも1年生の時はこんな風ではなかった。愛華の知らないところで誰かが立候補して、いや、ひょっとしたらクラスからは誰も出なかったのかもしれない。よく覚えていない。でも、こんなちょっとした文化祭みたいな雰囲気なのは、担任が呼びかけたからだろうか? それとも芳賀くんのせい?
「演説内容とか決まった?」
そう声をかけてきたのは今井さんだった。ほとんど話したこともないのに、いきなり砕けた態度をとってくるから戸惑う。今井さんは髪は茶色いけれど、目は真っ黒だ。左のほっぺたにニキビがあるが、位置が絶妙で、なんだかそれもアクセサリーに見える。かわいい。
「全然だよー」
敬語で返すべきか迷ったが、相手に合わせて語尾を伸ばし、ちょっと泣きそうな感じを出した。我ながら白々しい。
「じゃあさ、放課後一緒に考えようよ」
意外な言葉に、愛華は今井さんの顔をまじまじと見てしまう。今井さんの目も当たり前のように、愛華の顔に照準を合わせている。この人はきっと、他人の目を見ながら話ができるのだ。
放課後は音楽室へ行くつもりだったが、愛華は今井さんの提案を受け入れた。タヤマ先生が演説内容を一緒に考えてくれるわけなかったし、クラスの人気者に声をかけられて、愛華の気持ちも弾んでいた。

投票日までの2週間は、慌ただしく過ぎていった。ポスターを貼ったりする作業はまだ良かったが、とにかく人前で話すのが苦痛だ。朝は30分早く家を出て校門の前に立つが、いいポジションを確保できないため、途中から1時間前になる。朝ということもあって、なかなか声が出ない。それに、一体どのタイミングで話し出せばいいのかもよくわからない。自分の声が届く範囲が3メートルだとしたら、そこへ誰かが入った瞬間にスタートすればいいのか。だが、登校する生徒は次々にやってくる。最初の生徒に合わせれば、後に続く者は、何を話しているのかわからなくなってしまう。それならば少し遅くすればいいのか。ベストのタイミングはいつなのか。
すぐそばの芳賀くんと男子たちのグループを見ると、そんなことお構いなしに、人がいなくたって大きな声を出している。そんなことをしても、無駄に喉を潰すだけなのに。でもそれがきっと正解なのだろう。
そのうち大口を開けた芳賀くんと目が合う。何かを察したのか、愛華に近づいてきて、一緒にやらないかと提案をしてきた。隣の今井さんがそうしようと答え、軽く打ち合わせをしてから、みんなで声を合わせる。声はさっきとは段違いに響いて、冬の澄んだ空に吸い込まれていく。愛華の手には、演説用の原稿があった。この前今井さんと一緒に考えたものだ。当然芳賀くんのとは、内容が違っている。芳賀くんは芳賀くんで言いたいこともあるだろうに、悪いなと思う。芳賀くんの手には何もない。きっと全部覚えてしまっているのだろう。部活だってやっているのに、すごい。愛華もお風呂で練習したが、全部は覚えきれなかった。声が小さいのがいけなかったのかもしれない。けれど、真面目なことを言っているのを、家族に聞かれるのは嫌だ。芳賀くんはきっとお構いなしに何度も練習したのだろう。そう考えるとやっぱり自分には、生徒会なんて相応しくない気がしてくる。
前向きな演説内容とは裏腹に、気持ちはどんどんと沈み込んでくる。そんな気分から逃れるように視線をそらすと、校舎の裏手から、見覚えのある丸い輪郭が近づいてくるのが見えた。
タヤマ先生だ。
反射的に気まずい気持ちになる。もうずっと音楽室へは行っていない。先生は、愛華の様子を見にきたわけではない。校舎の反対側には駐車場があって、そこから歩いてきて、たまたま鉢合わせしただけだ。先生は白のジープみたいな車に乗っている。一度乗せてもらったことがある。突然先生が「『ねるねるねーるね』が食べたい」と言い出し、近くのコンビニまで買いにきたのだ。散々待っていると渋ったが「女の子がひとり留守居するのはとても危険」と強引に愛華を連れ出した。店内で誰かに会うんじゃないかと愛華が肝をつぶしたのは言うまでもない。先生は、さっそく駐輪場の脇を陣取る別の候補者の前を通るが、見向きもしない。大抵の教師が「頑張って」とか声をかけるのに、この人は相変わらずだ。挨拶をしてくる生徒にも無愛想な返事しかしない。先生は血圧が低く、朝は弱いから特に機嫌が悪いのだ。「挨拶は心を美しくする」と言う校長が見たら、怒り出すだろう。
間隔が5メートルほどになったところで、ようやくタヤマ先生は愛華の存在に気づく。と言っても足を止めたり、口に手をやるわけではない。一瞬重そうなまぶたが開かれただけだ。先生はキャメルのショルダーバッグを掛け直し、歩を緩めることなくずんずん距離を詰めてくる。ハチマキを巻いた愛華の姿には目もくれない。扱いは他の生徒達と同じだ。だが、前を通り過ぎる瞬間、ふっと息を抜くように、わずかに口元を緩めたのを愛華は見逃さなかった。
その瞬間、愛華は自分の心の内を全部読まれてしまった様に感じた。タヤマ先生はそのまま振り向くこともなく、ゆったりとした足取りで職員用の下駄箱へ吸い込まれていった。
残された愛華は不意に我に返ったような気分になり、恥ずかしくて、ハチマキもタスキも全て地面に叩きつけたくなった。生徒会とか学校行事全てが茶番に感じる。芳賀くんの隣のぽっちゃりした男子に、口が臭いとか適当な言いがかりをつけて、怒って帰ってしまいたい。
愛華は集団に紛れている自分の声を、徐々に絞っていく。ほとんど口パクになってきたところで芳賀くんが「じゃあそろそろ分かれてやろっか」と言い出す。
こんな状態で分かれたら、自分が声を出していないのは簡単にばれてしまう。せめて今日は一緒にやろうよと言いかけるが、やる気がないやつと思われるのも癪なので、仕方なく目一杯声を出すことにする。
演説を再開すると、愛華よりもずっと大きな声が聞こえ、自然と愛華の声もそれに引っ張られて大きくなる。声は今井さんのものだった。今井さんは頭を下げる時も、みんなよりも深い角度まで折り曲げたし、愛華の演説も覚えているのか、合いの手も完璧だった。終始リードされているうちに、愛華の気分も徐々に落ち着いてきた。周りを見てみると、通りかかったクラスメートは、必ず手を振ってくれていた。立ち止まって、ずっと愛華の様子を見ている教師もいた。空を見上げると、葉を落とした木が見え、数羽の雀が枝を揺らしていた。チャイムが鳴ってタスキを外すと、背中の汗が心地良かった。
教室へ戻る道すがら、今井さんは「絶対当選できるようにがんばろうね」とガッツポーズをしながら笑った。他の子がやったらお寒い感じだが、今井さんの場合は様になっていた。心の中でも、非難するのが憚れるようなさわやかさだ。「うん、がんばろうね」と自然と愛華も答えている。教室までの道のりを、走りたい衝動にかられる。
愛華の頭の中の「茶番」という言葉は、窓からの強い光のせいで、いつのまにか色褪せていた。

その日以降、校門の前でタヤマ先生の姿を見ることはなかった。

音楽室(11)

芳賀くんに生徒会を誘われたのは、合唱コンクール本番の1週間前で、4時間目の後、給食当番で小サイズの食缶を1人で運んでいる時だった。中身はコロッケだから、そこまで慎重になる必要はない。そんな時、トイレ帰りを装った芳賀くんに、斜め後ろから声をかけられた。どうしてこんな時に? と思ったが、考えてみると、こんな時くらいしか愛華が1人で行動しないからだ。休み時間は、佐藤さん一派の誰かしらのそばにいる。今もすぐ後ろには味噌汁の入った寸胴を運ぶ男の子が歩いているが、これは関係ないだろう。

「松永、一緒に生徒会やろうよ」

前置きや挨拶もなく、いきなり本題から入ってくる。しかも軽いノリ。いつから呼び捨てになったのか。急な展開に、愛華は生徒会すらうまくイメージできず、合唱コンクールの余興的なものを想像してしまう。幕間に漫才でもやれというのか。どっちがボケだろう。いや、そうじゃない。そういえば去年もこの時期、タスキをかけて投票を呼びかけたり、体育館の壇上で、何やら立派そうなことを主張している生徒がいた。そんなものは愛華にとって、別次元の出来事にすぎなかった。あの時記憶に残っているのは、体育館の冷たい床に座らされ、お尻が痛いのをひたすら我慢して演説を聞かされたことくらいだ。学校の美化がどうとか、本当にくだらないと思っていた。タヤマ先生ならもっと過激なことを言うだろう。でもタヤマ先生は悪口ばかりだから、投票する人なんていないだろう。

当然立候補なんて、全力でパスするわけだが、芳賀くんの眼差しにさらされると心が揺らぐ。おそらくこの前のタヤマ先生の所へ、1人乗り込んで行ったことがきっかけだ。やる時はやる女と思われたのかもしれない。しかしそれはヤラセみたいなもので、他の教師だったらまず無理な話だ。現に今この瞬間だって、うまく受け答えができない。緊張しているのもあるが、頭の中で生徒会の面倒臭さと芳賀くんと親しくなれる好機を比べていて、ベストな答えを導き出せないでいる。

ぐずぐずしているうちに、ドアが目前に迫り、芳賀くんはそれじゃあと去って行った。ポケットに片手を突っ込み、悠然と後ろのドアの方へ歩いていく。いつまでに返事をするみたいな約束は全くなかった。ひょっとしたらただの世間話だったのかもしれないし、からかい半分で生徒会なんて言い出した可能性もある。だとしたら本気で出馬を考えるのは馬鹿らしい。

後ろから「なにやってんだよ。早く入れよ」という苛立った声が聞こえてくる。両手で持った食缶が、大げさな音を立てた。



その後、芳賀くんは立候補用紙に、勝手に愛華の名前を書いて提出してしまった。やはりトイレ帰りの1人の時を狙われ「出しといたから」と声をかけられた。生徒会のことを言っているのはわかり切っていたが、わざと「何を?」なんて聞いてみる。まさか「気が利くね!」なんてリアクションをするわけにもいかないので、一応腹を立てている風を装ってみる。が、それほど怒りはこみ上げてこない。むしろ話が本当だったことが嬉しかった。芳賀くんに声をかける勇気もないくせに、この数日、芳賀くんと並んで演説する想像ばかりしていた。ひと通り芳賀くんのポストプレーをなじった後「まあしょうがないか」と愛華がため息をつくと、芳賀くんは子どもみたいにはしゃいでいた。

担任が、2人が生徒会に立候補したことを伝えたのは合唱コンクールの直前で、どう見ても興味を持って聞いている生徒はいなかった。ちょうど朝練習で、散々歌ってきたところでテンションは高く、落ち着いて話なんか聞いていられない。12月の最初の週に選挙運動を行い、最後の金曜の午後に全校生徒の前で演説、投票という流れになる。2人とも当選できるように、クラス全員で協力しようと担任が呼びかけるが、今の雰囲気だとむしろ厄介者扱いされそうで不安だ。もし愛華が立候補しない側なら、いかに気配を消して、余計な仕事を背負いこまないようにするかを考えるだろう。だが、そんな現実逃避は、担任の「松永が......」と自分の名前を言うたびに霧散していく。普段から、教師に名前を呼ばれるだけでも無駄に緊張してしまうから尚更だ。自分の話をしてもらっているのに、下を向いているわけにもいかず、担任の顔をなるべく正面にとらえるようにする。そうすると今度は目があった時に何か挨拶でも、と話を振られそうで、やっぱり怖い。たかが数分で終わるホームルームなのに、1時間目が始まる頃には、一日分の体力を消耗したみたいに体がずっしりと重くなった。

そんな風だったので、愛華の中で合唱コンクールは吹っ飛び、前田くんのことも一方的な罪の意識は残りつつも、正直どうでも良くなっていた。合唱コンクールが終わって、久しぶりのタヤマ先生と会ったら、真っ先に生徒会のことを話したかった。が、前述の通り、先生の前田くんに対する鬱積した気持ちに押し流されてしまう。それでも愛華の中には、自分の罪の意識を肩代わりしてほしいという下心があったから、それはそれで良かった。結局はキスをされて終わりという、よりややこしさが増しただけだったが、翌日になると、何故か晴れ晴れとした気持ちになった。朝一番に鏡を見て、唇を点検しながらこれがあの人に触れていたのは何時間前かと、頭で数えてみる。正直嫌ではなかった。先生は自分に好意を抱いている。その実感が、心地良くて、朝目が覚めると真っ先に布団を飛び出した。どういうわけか愛華の中で、タヤマ先生とのキスから、性的なイメージに発展していかない。自分が好きだと思う人なら、男女構わずキスをするのが人類の本来あるべき姿なんだとか考えている。そうすればこの人とは表面上だけの関係なのか、そうでないのか、悩みに翻弄されることなく、もっとシンプルに清々しく毎日が送れる気がする。

だが、一日おいて再び先生と対面すると、その気分は急降下していくことになる。



「生徒会なんてやめときなよ。愛華ちゃんには合ってないって」

愛華のシミュレーションでは、芳賀くんとの距離が詰まったとか、いよいよ告白の季節がやってきたとか、そんな風にからかわれるはずだった。おそらく舞い上がって早口になるタヤマ先生とバランスをとるために、わざとテンション低く誘われたくだりを話したのだ。ところが「生徒会」という単語が飛び出すとぷっと吹き出し、話し終わると体をのけぞらせて、ケラケラと笑い出した。手で机を叩いて、クッキーの包みがいくつか下に落ちる。

自分が生徒会に相応しくないないことは、愛華にもわかっている。本来なら、部活で活躍しているとか頭のいいとか、とにかく目立つ人がやるのが普通だ。そうでなければ票は集まらない。あとは性格。明るくて前向きでなければいけない。自分では性格が悪いかはわからないが、ものをはっきり言えないタイプだから、やはり他人を引っ張るのには向かない。

愛華は別に生徒会の話がしたかったわけではない。芳賀くんと自分の関係について、客観的な意見が欲しかっただけだ。芳賀くんも愛華のこと好きなんじゃない? とか言われて気分良くなりたかっただけだ。

そんな愛華の欲求を踏みにじるように、先生は生徒会の悪口を並べ立てる。あんなものに入りたがるのは、内申点稼ぎか、そうじゃなければただ調子こいてるだけの頭が空っぽの馬鹿だ。学校のことは教師が決めるのだから、そもそも生徒会自体意味ない。いつものことだが、タヤマ先生は何かの悪口を言う時が1番生き生きとしている。こういうのを性格が悪いと言うのだろう。

もちろん先生が生徒会を毛嫌いする気持ちはわかる。でも、だからと言って「愛華ちゃんが立候補したって絶対落選するよ」とまで言うことはないと思う。どうしてそうやって決めつけるのだろうか。

先生おかしいよ。わたしがやるって言っているんだから応援してくれたっていいじゃん。

そう言えたなら、謝罪の言葉と共に、先生も真顔で頑張ってくらいは言うのかもしれない。それとも「わたしが立候補取り下げてきてあげるから」とか言って、やはりまともに相手にしてくれないのだろうか。そこまでされたら不愉快だが、でもそっちの方がタヤマ先生らしい。

どうしてタヤマ先生のキャラにまで気を遣わなきゃならないのかはわからないが、結局反論もせず、曖昧な笑みを浮かべてやり過ごしてしまう。こうなったら今すぐ担任のところまでダッシュして、何もかもなかったことにしてしまいたい。

この前キスをして、全てを分かり合えたと思ったのはただの勘違いだった。先生は焼き菓子のビニールをちぎって、中身を取り出す。それは2つセットになっていて、ひとつは愛華の口に入れ込んでくる。この動作だって、お菓子を分け合っている微笑ましい光景なもしれないが、単に2つも同じものを食べるのが嫌だから、押し付けただけの話だ。結局は、他人の気持ちなんてわからない。お腹痛いとか嘘をついて、立ち去りたくなる。時計を見ると、この時期の部活終了時間まで、まだ30分以上もある。

愛華の口数が少なくなると、タヤマ先生は隣で漫画を読み始めた。