意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章を書く自分が疑わしい

私は昨日以前やっていたブログを半分以上消し、それはタンブラーというサービスであったが、記事一覧からまとめて消すという機能がなく、一瞬100以上の記事をちまちまとひとつずつゴミ箱に突っ込もうとしたが、さすがに馬鹿らしくてひとつ二つ消したら飽きた。それなら逆転の発想で、残したい記事だけを取り出してブログ丸ごと消すというやり方もあったが、エクスポート機能もあるんだかないんだかよくわからない。Outlook形式、とかWordPressに、とか書いてあるが、そういんじゃなくて、エクスポートであれば、CSVが望ましい。私はエクスポートと言えばCSVという先入観を持っている。

それで調べて行ったらなんかできそうなので、最初はそういうアプリを入れるのかなあと思っていたら、ページを表示するだけで、ざくざくと私の記事は消えて行った。勢い余って残す記事も消しそうになるが、消したら消したでいいやと思った。

それで、私は10代のころからこうして文章をちまちまと書いていて、パソコンを買う前にはノートに書いたりして、友達に読んでもらったりもした。しかし、よくよく考えてみると私は、小学校時代は作文関係がとても苦手で、特に感想文が苦手で、先生は
「思ったことを書きなさい」
と言うのだが、私はそんなに何も思うことはないので、2、3行しか書けないのである。心配した親がある日「作文の書き方」という本を買ってきてくれたが、当然読まなかった。夏休みの宿題等は、親に考えてもらってそれを書き写した。だから、私は読書感想文というものには非常に寛容で、家族で書けない人がいたら、代わりに書いてあげてもいいと思っているが、だれも頼んではこない。

ところがそんな私でも、するすると書けたことが一度あり、それは私の小学校は田舎の農村地帯なので収穫祭という行事があり、それは5年生が田んぼで育てた稲で餅をつき、それを食べるという行事なのだが、私はそのときから、たかが一学年が作った米で、全校生徒の腹、さらには教職員も含めた腹を満たすなんてできるのかと、疑問を抱いていたし、今でも抱いている。もしかしたら、農協からこっそり分けてもらったのかもしれない。しかし、農協からもらうのなら、農協は同じ地区の田んぼの米を集めるだけだから、味には大差ないから同じである。

しかしそう考えるのも早計で、実は同じ地区でも田んぼの味は違うらしく、私の実家も田んぼを所有しているが、私の実家の田んぼは井戸から水を引くらしく、そのため他の田んぼより美味しいとのことだ。どこまで信用できるのかは怪しいが、ここ数年父親は米を農協には出していないのである。

どちらにせよ私は餅が好きであり、家でも年末には餅つきを行い、それは私の死んだおじいちゃんちの古い家で行い、それは一時期蚕も買っていたようなとてもボロい家で、そこの土間に餅つきの機械を持ち込み、奥の台所で米を炊いてから、米を機械に入れていく。すると細い口から
「うにゅにゅにゅにゅ」
と餅は出てくるのであり、それはとても熱い。そしてそれを手でちぎって皿に盛り、醤油と大根おろしをかけて食べるととても美味しく、もう米が農協だろうが市販のものだろうが関係ないのである。

一方学校のほうは11月に収穫祭は行われ、餅つきは臼と杵をついて行われるが、それは主役である5年生が行う。私がやがて5年生になると、私も餅つきの番が回ってくるが、その時の様子をあるカメラマンが写していた。そして私はその翌日くらいに風邪を引いて学校を休み、久しぶりいくと、その写真をもらえた。私はオレンジ色の古臭い父親のお下がりのジャージを羽織りながらも、杵をつき下ろす行為が様になっており、普段私はあまり自分が主役になることもないので、とてもその写真を気に入った。そして私の周りには級友がいて、私の様子を見ているのだが、後から私はそのひとりひとりに矢印をつけて、何かしらの悪口を書いた。しかし、私の字は大変きたなく、また、太いサインペンだったから、後から全く読めなくなった。

家庭用 餅つき道具セット

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一人称のかいほう

今朝ブログを読んでいたら、
「一人称は奴隷の鎖自慢」
という趣旨のことが書かれていて、私はなるほどと思った。読んだ時はまだ仕事が始まる直前で、少しお腹が痛くてトイレに行った。毎朝朝礼があるから、そこで居なかったら欠勤かと思われるかもしれないが、しかしH・Kくんには小声で挨拶したから、H・Kくんは、
「あれー、さっき居ましたけど」
と言ってくれるだろうが、そしたらトイレにいるのがバレるから恥ずかしい。私の職場、というか部署は始業前は部屋が暗くなっていて、寝ている人もいるから、大声でおしゃべりなんかできない。先ほどH・Kくんに小声で挨拶したというのは、そういう背景があったことだ。

そういう状況のときには、「一人称は奴隷の鎖」論にはあまり同調できなかったが、だんだんとそうかもしれないと思えてきた。今日の昼は人数が多かったので、H・Kくんに声をかけて事務所ではなく会議室のとなりの休憩場で昼を食べたのだが、そうしたら事務の女の人が鞄を下げてやってきて、お昼時間だから一緒に食べるのかなーと思っていたら、行ってしまった。事務は3人いるのだが、電話番などの関係で、ひとりずつバラバラに食事する。あとでH・Kくんと、
「俺らがいたせいで、遠慮して、便所飯とかしてないよね?」
と言って笑った。

それで一人称だが、ところで私はこのブログでは頻繁に「私は」と切り出すが、これは意識して行っている部分もあり、最近ではあまり使わなくなった気がするが、それが本当に「私」の頻度が減ったのか、それとも慣れちゃって意識せずに使いまくっているのかはわからない。私は書いたものは極力読み返さないようにしているから。

ところで、この「私」とは一体なにを指しているのか、と帰りの車で考えていたが、これはどうやら書き手の私ではなさそうだ。じゃあ何かと言えば、実は読み手なのである。日本の小説のジャンルに私小説というのがあるが、私小説とは作者の私生活を書いていくが、これは基本的に三人称で書かれる。私は長い間それが謎だったが、一人称を使ってしまうと、書き手以外を指してしまうことに気づいた。つまり、私はこのブログで熱心に「私」「私」と言うのは、フィクションを立ち上げるためだったのである。もちろんこれは今まで書いたことは全部嘘でした、という宣言ではなく、フィクションというフィルターを浸かって、自分自身との距離を調整していたのだ。

ところで、このことを考えながら余談のように考えていたこともあったからついでに書くが、よく日本語では、
「自分でやれよ」
という言い回しがあるが、動詞はなんでも良く、「自分でバッターボックスには入れよ」「自分でご飯をよそえよ」でもなんでもいい。だが、これらを英訳するとき、私は英語はてんで駄目だから、主語はアイなのかユーなのか、迷ってしまう。おそらくユーが正しい気がする。