意味をあたえる

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一人称のかいほう

今朝ブログを読んでいたら、
「一人称は奴隷の鎖自慢」
という趣旨のことが書かれていて、私はなるほどと思った。読んだ時はまだ仕事が始まる直前で、少しお腹が痛くてトイレに行った。毎朝朝礼があるから、そこで居なかったら欠勤かと思われるかもしれないが、しかしH・Kくんには小声で挨拶したから、H・Kくんは、
「あれー、さっき居ましたけど」
と言ってくれるだろうが、そしたらトイレにいるのがバレるから恥ずかしい。私の職場、というか部署は始業前は部屋が暗くなっていて、寝ている人もいるから、大声でおしゃべりなんかできない。先ほどH・Kくんに小声で挨拶したというのは、そういう背景があったことだ。

そういう状況のときには、「一人称は奴隷の鎖」論にはあまり同調できなかったが、だんだんとそうかもしれないと思えてきた。今日の昼は人数が多かったので、H・Kくんに声をかけて事務所ではなく会議室のとなりの休憩場で昼を食べたのだが、そうしたら事務の女の人が鞄を下げてやってきて、お昼時間だから一緒に食べるのかなーと思っていたら、行ってしまった。事務は3人いるのだが、電話番などの関係で、ひとりずつバラバラに食事する。あとでH・Kくんと、
「俺らがいたせいで、遠慮して、便所飯とかしてないよね?」
と言って笑った。

それで一人称だが、ところで私はこのブログでは頻繁に「私は」と切り出すが、これは意識して行っている部分もあり、最近ではあまり使わなくなった気がするが、それが本当に「私」の頻度が減ったのか、それとも慣れちゃって意識せずに使いまくっているのかはわからない。私は書いたものは極力読み返さないようにしているから。

ところで、この「私」とは一体なにを指しているのか、と帰りの車で考えていたが、これはどうやら書き手の私ではなさそうだ。じゃあ何かと言えば、実は読み手なのである。日本の小説のジャンルに私小説というのがあるが、私小説とは作者の私生活を書いていくが、これは基本的に三人称で書かれる。私は長い間それが謎だったが、一人称を使ってしまうと、書き手以外を指してしまうことに気づいた。つまり、私はこのブログで熱心に「私」「私」と言うのは、フィクションを立ち上げるためだったのである。もちろんこれは今まで書いたことは全部嘘でした、という宣言ではなく、フィクションというフィルターを浸かって、自分自身との距離を調整していたのだ。

ところで、このことを考えながら余談のように考えていたこともあったからついでに書くが、よく日本語では、
「自分でやれよ」
という言い回しがあるが、動詞はなんでも良く、「自分でバッターボックスには入れよ」「自分でご飯をよそえよ」でもなんでもいい。だが、これらを英訳するとき、私は英語はてんで駄目だから、主語はアイなのかユーなのか、迷ってしまう。おそらくユーが正しい気がする。