私は今、駅前のロータリーで車に乗り、妻が帰ってくるのを待ちながらこの文章を書いているのだが、西口なのだが、私が不在の西口とは、ちょっと想像がつかない。なんて書くとまるで私が西口とともに育ってきたかのようなイメージを与えるが、西口は数年前に改修工事が行われ、随分と見た目も変わってしまった。以前はロータリーもなかった。
「私が不在」とはもちろん死んでいることを指すのだが、もちろん私以外の人が行き来する駅の様子は簡単に想像ができる。というか、今出口の目の前に車を停めているので、想像するまでもない。だから、不在の自分をイメージする、というのは生きている自分の行為なのだから、死ぬことを想像したことには全くならない。
霊魂のある、なしを信じるかどうかは別として、もし死んだ後に魂が残るのだとしたら、やはりそれは限定的かもしれないが、生きていることにはならないか。魂が死んだときにはどうなるのか? 魂は死なないのか? それなら、死なないとは一体どういうことなのか。
なんて文章にしてみると、びっくりするくらい薄っぺらくなる。私の思考などこの程度だ。
そんなことを考えながら、今日は妻が1日いないので、子供の相手をしなければならず、私の子供の頃であればどこへでも勝手に遊びに行ってくれればいいのだが、今はそうではなく、友達と遊ぶのにもいちいち親同士でアポを取らなければならないので、いつだって子供は家にいる。家にいたって子供は勝手に遊ぶが、私も相手になることもあるが、子供の遊びに付き合うのは苦痛である。よく、子供の視点が、とか美化する人もいるが、むしろ私には大人の視点が足りないくらいなのだ。しかし、1日中放置するのもやはり親の役目を果たしていないような気がして、イライラしてしまうので、私は子供に昆虫博物館に行かないかと提案してみたら、乗ってきて、しかしなんだかんだでムーミン公園へ行くことになった。
ムーミン公園を知らない人のために説明すると、ムーミン谷をイメージした公園で、建物に段差が多く、天井も所々低いので、油断をすると頭をぶつける。建物は3階だてか4階だてて、今日は上の方に行くほど気温が高く、蒸していた。実にたくさんの父親と母親がいた。親でない人の男女もいて、「すごいねー」とか言っていた。子供はだいたいが汗をかいていた。建物の入り口は二つあり、私たちは今日は裏の方から入ったが、裏には小川が流れていて、そのすぐそばだったので周辺はぬかるんでいた。建物自体は靴を脱いで上がるようになっていて、帰るときには誰かに踏まれたのか、私の靴には泥がついていた。
私は建物の中にいながら、ふと養老天命反転地も、こんな建物ではないかと想像した。あれも死なないための建物であると聞く。