死は生の対極にあるわけでなく……
しかしそういう風に思っても割り切れない場合があり、今がそうだ。私は今、私自身のことを書いている。その証拠に、ここまで「私」という一人称が出てこなかった。やはり私は「私」を登場させて、自分と距離をとっている。それで、今はもう、私、と言っているからフィクションだ。一気に書きやすくなってきた。
朝考えたことに話を移すが、私が村上春樹の「ノルウェイの森」を読んだのは20歳くらいのときであり、そこの冒頭のところで、例によって正確な引用ではないが、
「死とは生の対極にあるのではなく、生に内包されている」
というのが、わかった、というのがあるのだが、当然ながら話の中に明確な答えがあるわけではないから、私はそれがどういう意味なのかわからず、最近までずっと考えてきた。ずっと、というと1本の糸のように途切れず継続しているようなイメージだが、そんなことはなくことはなく、断続的だった。
それが最近になってわかった、というか、私のこのブログの、ほんとうに最初の方の記事のタイトルで「考えない、というのは考えるに含まれる」みたいなのがあって、そこに「生」をおきかえれば成立することに気づいたのである。例えば冷蔵庫にしてもそうで、冷蔵庫が壊れる、というのはひとつの状態であり冷蔵庫の対義語、または否定形は、冷蔵庫が存在しない、である。存在しない、というのは家にないとか、盗まれた、とかそういう狭い意味ではなく、冷蔵庫という概念が登場する前の状態だから、もうこの世界には、冷蔵庫の否定形はありえない。もしかしたら、未開のジャングルなどなら、発見できるかもしれないが。
関係ないが、未開のジャングル、と聞いて思い出したが、会社の人がアフリカ人はみんなマサイ族みたいな格好をしている、と話していて、そんなわけないですよ、と私はやんわりと否定をしたが、私がさっき喧嘩したのは、その先輩だった。