意味をあたえる

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保坂和志「未明の闘争」3

昨日は1日ごろごろして過ごしました。家族が全員ひと揃いして、そんなときになにか事を始めようと思っても、どうせ周りに妨害されるに決まっていて、私はどうせ休みに家にいるのなら、まずは部屋を掃除したい、せめて自分の部屋と寝室に掃除機をかけたい、と思うが下の女の子が
「私にもやらせて」
と私からノズルをひったくると、がーがーと畳の目のへったくれもないような、無規則な動きをさせ、そこにやがて長女もやってきて、いつのまにか姉妹喧嘩に発展する。上の子は中学生で、掃除なんてめんどくさがって何もしないのに、何かに引き寄せられて掃除機に近づいてくる。不思議だ。喧嘩の結末は見えているので、だから、私は何もしない。

私が「人をダメにするソファー」に身を預けながら保坂和志「未明の闘争」を読んでいると、「未明の闘争」はハードカバーでページも分厚く、重いから、年中読む体勢を変え、疲労を分散させる必要があった。こういうのを「読書の楽しみ」と言うのでしょうか。窓際では、妻が洗濯物を干している。朝からぐすぐずしていて、今になってようやく取りかかった。もう日が暮れかかっている。私が全く手も貸さずに、ふんぞり返っているのは、それが夫婦の掟だからだ。別に私の一方的な「掟」でないことは、ここで強調しておく。

しかし私が「未明の闘争」を、まるで少年ジャンプでも読むみたいにくすくす笑いながら読むものだから、妻も洗濯物に集中できない。小説を笑いながら読むなんて、妻には奇妙に見えるのだ。私だって、少しは「不自然だな」と思う。とは言うものの、私はけっこう小説を読みながら声を出して笑う。泣くことはほとんどない。一昨日の運動会の六年生の組体操では少しうるっときた。私は、ダンスとか出し物とか、集団でやるものにけっこう弱い。気持ちをごまかすために母に、
「昔は組体操で、けっこう事故があって、亡くなった生徒もいたよね」
と皮肉っぽいことを言った。母は父との田植えを途中で抜け出して、見に来ていた。父はまだ田植機の上である。

「何がおかしいの?」
と妻がついに言った。そこには、「ひょっとしたらわたしのことを笑ってるんじゃないか」というニュアンスもあった。「できればわたしのことを笑ってほしい」という欲望だろうか。私はそれらを全て無視し、
「この本が面白い」
と正直に答えた。しかしここで会話を終わらせるのはマズいと感じた私は、具体的にどう面白いのかについて語ってみることにした。
石川五右衛門ているじゃん?」
「うん」
「五右衛門は五じゃない?」
「うん」
「だけど、三右衛門とか六右衛門とか間違えないじゃない?」
「まあ」
「だから、五右衛門の「五」は数字の五じゃないわけよ」
「意味わかんない」
「だから、六右衛門とか言わないじゃん? だから、五は数字じゃない」
「はあ」

私は悪意を持って、わざとわかりづらく説明した面もあるが、丁寧に説明したところでやはり理解はできないだろう。私が説明した箇所を以下に引用する。


 ゴリャートキンは食堂からパーティの広間に入ったが、完全な場違いでみんなの責めるような視線でぼこぼこに打ちのめされて屋敷を逃げ出した。時刻は夜中の十二時ちかく。十一月のペテルブルグの街に逃げだした。
「ここが大事なんだ。」とアキちゃんは炬燵板をひっくり返すような勢いで両手に力を入れた。私は慌てて炬燵板を押さえた。「ペテルブルグっていうのは北緯六十度なんだよ。」
「札幌はどれくらいなんだ。」
「あんなもん四十二、三度だよ。」「そうか。」
「もっと驚けよ。俺たちが北海道行ったとき真夏なのに、みんな震えて、石ころだらけの海岸で豚汁食ってただろ? 海パンで豚汁だぞ。」「食ってたなあ。」
樺太の北の端でも北緯五十五度しかないんだぞ。」「それホントかよ。」
「本当だよ。」
 私はウソか本当かの意味で「ホントかよ」と言ったのではない。アキちゃんが数字がすらすら出てくるのが信じられなくて「ホントかよ」と言ったのだった。アキちゃんは電話番号なんかひとつも憶えられないくせに札幌や樺太の緯度を知っている。緯度はアキちゃんには数じゃないのか。自分の誕生日は他の数字と入れ替わったりしないから数じゃない別のものだ。平安遷都七九四年とか王貞治のホームラン八六八本とかも、記憶している人は他の数字と絶対に入れ替わらないから数じゃない別のものだ。石川五右衛門の五を四や三や六と間違わないのと同じことだ。
「ペテルブルグの十一月って言ったら、おまえ、平均気温零度以下だぞ。ゴリャートキンが逃げ出してきたのはもうすぐ夜中の十二時っていう時間だぞ。っていうか、ずたぼろになったゴリャートキンが街に出て歩き出したところで、ペテルブルグじゅうの時計塔が十二時の鐘を打つんだよ。」


(講談社 p136)

書き写しながら、私は樺太の緯度ではなく石川五右衛門のほうを出したから、やはり妻を愛しているのではないかと思った。それと、ペテルブルグのことを、ずっとペテルブルクだと思っていたら、違うようだ。