意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

行間を伝える技術

今朝、Z氏のブログを読んでいたら、Z氏のブログは改行が少なくて読みづらいと苦情を言われるらしい。だけれど、私が最近よく読むブログはZ氏のに限らず、改行が多くてスカスカなブログはあまり目にしない。これは時代とか流行りで、今はある程度読ませるものが求められているのではないか? 同じようにZ氏のブログでも、コメントで
「長い」
とか
「読みづらい」
というのは見たことがなく、私が見るといつも、
「面白い」
「文才がある」
と書かれていて羨ましい。私も、ごくたまに
「面白い」
とは言われるが、「文才がある」は、言われたことがない。たまには言われたいが、どちらでもよい。

今朝のZ氏の記事に対し、私は、
「私も改行は少ないから、それを指摘されたら、「行間をつたえる高度な技術がない」と答えることにする」
とコメントを残した。程なくしてTwitterで返事があり、読んでみると、
「あなたは普段楽ばかりして書いているのだから、そういう無責任なことは言わずに、ひとつ「行間をつたえる技術」について書いたらどうか」
とあった。「楽ばかり」と決めつけてしまうのが、この人のすごいところだ。私は
「そんなことはない。毎日五キロの鉄アレイを手から下げてフリックしてるぞ」
と言い返そうと思ったが、子供っぽいのでやめた。私の実家には、八キロの鉄アレイが置いてあり、私の実家は築30年をこえたから、そろそろ床が抜けるかもしれない。

ところで、あじさいすきおさんの最近の記事が面白く、そこに写真を当てずっぽうで撮る、みたいなのがあって、興味深かった。それと、夕焼けを撮る気にならない、とあった。それは、誰が撮っても「夕焼け」になってしまうからではないか? と私は勝手に思った。

ここまで書いたら、急に前に進まなくなった。私はこのままあじさいすきおさんの話を続ければ、やがて行間に行き着いて、読んだ人は腑に落ち、Z氏に対する「責任」も少しは果たせるのではないかと期待したが、そういう道ではなかったようだ。私は以前の記事で、「文章は一本道だ」と書いた。書けるのはひとつだけであとは捨てなければならず、無理に抱えれば、たちまち道なき道になってしまうのである。

行間は歩いている私たちの背中、とでも言っておこうか。賢明な読者なら、ここまで読んで、それなりの「行間」を感じてもらえたはずだ。

私は今日も楽をしてしまった。


※小説「余生」第4話を更新しました。
余生(4) - 意味を喪う