意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

こちらのブログを読ませてもらって、肌色について書きたくなったので書く。

私は自分の子供が小学校に入学して気づいたのだが今は肌色という色はなく、かつて肌色だった色はペールオレンジと呼んでいる。あるいは、印字されている。見慣れない文字の並びにぎょっとしたが、少し考えるとなぜ肌色という言葉が使われなくなったのかはわかるが、なんとなくもやっとする。上記のブログでは絵の具について書かれているが、私が見たのは色鉛筆だった。ちょっとネットで調べたら、「うすだいだい」とも言うらしい。私としてはそれなら「うすオレンジ」というのが、いかにも日本語っぽくていいと思う。

ちょうど昨日子供と話をしていて、最初は北極と南極のどちらが寒いかみたいな話からエベレストの山頂付近には死体がごろごろ転がっている、とか北極では凍死はするが風邪は引かないなど、話しながら、人類の発祥とか進化論の話みたいなのをした。特に人が他の動物よりも優れているわけでもない的な。それで、白人黒人みたいな話になって、そうしたら私たちは黄色人種じゃないですか? でも相手は同じ黄色人種であってもまだ子供だから「おうしょくじんしゅ」っていっても通じないから、その場しのぎで「きいろ人」と言ったら2人とも「えー」みたいな反応をした。
「でも俺ら白人じゃないじゃん」
と言うと、「まあそうか」みたいな風になった。ところで、白人黒人と言うのに、どうして黄色人種、なんて、急にアジア系になると改まった感じになるのはなぜだろう。

肌色といえば、昔図工の時間の絵の時間で、先生が
「肌色使用禁止」
のお触れを出し、私たちは茶色を薄めたり、赤だのオレンジだのを組み合わせて一生懸命私たちの肌を再現したのだが、あれは一体なんだったのだろう。おそらくそんなことがあったのは一回きりだ。そのときは、先生も俺らも、既存の色にとらわれず見たままの色を使うべし、みたいな狙いがあって、なんとなく納得したものの、今となっては不思議だ。しかし、今書いていたら「肌の色が肌色とは限らない」という教えだったことに気づき、私の中に腑に落ちたので、もうこれ以上書けない。「肌」という単語は、どこか余計なことを考えさせる力があるようだ。

代わりに、何年か前にどこかの軽井沢的な場所へ遊びに行ったときに子供が焼き物をやって、そこに色をつけて店員にお金を払う遊びをしたのだが、下の子供が熊の焼き物を焼いて、あるいは焼く前に、色をつけるのだが熊だから茶色がいいと言って、私は面白味のない子だなあと思ったものだが、私が物になるわけではないから黙っていた。しかし、絵の具の中に茶色はなく、自分たちで混ぜて作らなければならなかった。私たちは黒と白と赤を混ぜたのだが、焦げ茶にしかならなくて、もしかして黄色を入れたらいいのかもと思ったが、やはり黒人のようにしかならずに、仕方なくあきらめた。けっこう不親切な店員だと思った。


※小説「余生」第58話を公開しました。
余生(58) - 意味を喪う