意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

夢を買う

宝くじの販売に際しての「夢を買う」という宣伝文句、あるいは消費者側の合い言葉的な使い方が気にくわない。宝くじは確率で言うとかなり低くてギャンブルとして考えるとかなりのぼったくりである、というのはよく聞く話で買う人は愚かである、みたいな話をよく聞くが、例えば私の近所で最近強盗事件があって、それを聞いて私はもう子供にやるのがイヤになったり(途中でおそわれるかもしるない)、あと、この前ネットで飛行機事故ばかりを集めたページを熟読したら飛行機が怖くなって、乗りたくないと思いつつ日々の通勤やレジャーには車に当然のように乗り、つまり私たちは感情と想像力の奴隷であるから、宝くじを買う人を迂闊には責められない。宝くじを買っている人にも、どこか騙されているような感覚もあるが、それを打ち消すために、
「夢を買っていると思えば」
と自らに言い聞かせているように思える。

私の職場にも宝くじを購入している人がいて、そういう人たちはよく冗談で
「明日から仕事に来なくなったら、当たったと思ってくれ」
なんて言う。つまり今夜だとか明日が当選者の発表なのである。私自身は宝くじを買わないから、発表が昼なのか夜なのかは実は知らないのだが、当たった人はとにかくもう仕事なんかその場で辞めてやる、と思っている。

しかし辞めたところでどうするのか。私は宝くじを買わないが、どうして買わないのかと言うと、当たると困るからである。10万くらいならおそらく困らないが、たしか宝くじは当選金額をコントロールできなかった気がする。コントロールできるのもありますが、コントロールできるのとできないのを見分けるのはかなり難しい。だから突然七億当たったりして、それを遊んでつかうにしても今度はお金のかかる遊びを考えるのがしんどい。七億入ったら、七億用の自分に変わらなければならいのだ。友達にけん玉が趣味の人がいて、その人は駅でもどこでも暇さえあればけん玉をやっているが、七億手に入ったら、もう二度とけん玉なんてできない。あまりにお金を消費しないからである。もちろん純金製のけん玉とか、けん玉学校を設立するとか、お金を使う手段は考えればいくらでもあるけれど、そういうのはすべて行動力がなければできない。行動力はお金で買えるだろうか。だから、引っ込み思案の人は七億を目の前にして、ひたすら自己嫌悪に陥らなければならない。

私の父は私が子供の頃に、もし一億当たったら、ということを家族に聞かせたことがあったが、そのときはおそらく一等当選金が一億だった。わが家は五人家族であったから、まずひとり1000万ずつ分けて、残りの5000万円は当時勤めていた障害者自立支援施設に寄付すると表明した。もちろん当てるのは父だから、私は黙って聞いたが、とんでもない偽善者がいるもんだ、とそのとき思った。私は後日やっぱり黙っているのをやめて、
「いくらなんでもそれはないんじゃないか、と思う」
と父に言った。私が「それはない」と言ったのを正確に記すと、当選金の半分を寄付するという発想ではなく、そのことを表明してしまうことに対してだった。しかし父は私を強欲だと思ったかもしれない。私も当時は強欲だったのかもしれないが、私はたぶんそのときは思春期で今よりもっと純粋で愚かだった。私は大金を手にしたことはないが、大金は人を変えてしまうことは、当時から知っていた。だから、当たる前から「寄付をする」と言った父がずいぶんと馬鹿に見えた。たとえそういう立派な思想があるにせよ、ものを語るときはその立派さがいつでも手の内の、自分のコントロール下にあるとは思わずにしたほうがいいと思う。人はあるときにはその「立派さ」に振り回されて醜態をさらすのである。あるいは「夢を買う」とは、自分は大金を手にしても、決して人間性を損なうことはない、と表明できるチャンスを指すのかもしれない。