意味をあたえる

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机上の空論的将来

平日朝7時15分からEテレで、「はなかっぱ」というアニメが放送されている。EテレのEはエデュケーションのEだヨ、と私は周りに得意げに話すが、実はちゃんと調べたことはないが、言い返す人はいないから間違ってはいないのだろう。

はなかっぱ」ははなかっぱという男と彼が住む村の日常を描いたコメディであるが、はなかっぱは学生であるから、学校や友達が登場する。その感じが私にはたまらなく懐かしく、話自体は他愛のない、オチも展開もどこかの二番煎じのような目新しさの欠片もないものだが、私はその微笑ましい友達とのやり取りから目が離せない。はなかっぱは男であり、彼の構成するグループは男ばかりだが、たまに女子が混ざることもあり、それがたまらない。私の小学5、6年はそういう日常だった。

少し前に高校時代の友達と飲んでいるとき、
「今までの人生でいちばん楽しかった時期はいつ?」
みたいなことが話題にあがり、私はきっぱりと、
「小学5、6年」
と答え、場の空気がおかしくなった。話題をあげた人は、自分の中では高校3年であり、私も当然そう答えると期待したのだった。確かにつまらなくはなかったから、
「高校3年は、二位だネ」
と場を取り持ったら友達は安心したようだった。

高校時代の楽しさと小学時代の楽しさを比較すると、高校時代の楽しさは今でも再現できる楽しさである。というか、今でも続いている楽しさである。私は高校時代に表現の楽しさを知った。表現の楽しさとは、自分の内側から湧き上がる声に耳を傾ける楽しさである。私はその頃から「自分らしさマニア」になって、他人を低く見るようになった。当然周りからは、
「変わっている」
「変態」
ガリ勉」
と評されたが、私はそういうのを、プラスの評価ととらえた。当然そういうスタンスではクラスで孤立していくのだが、私はもっと昔から人を笑わせるのも好きだったから、「面白さ>人柄」という考え方のできる、柔軟な発想の人は、私を手放さなかった。そうして卒業から20年とか経って、まだ付き合いが続いている人が2人いて、その2人も相当の自分らしさマニアであると私は気づいた。

私はもはや学生ではないから、学校に前日に書いた作品を持って、それを休み時間に披露するということはできないが、ありがたいことにインターネットが発達したおかげで、難なく自分の書いたものを人目に触れさすことができた。そうしていくらかの人と交流をしたら、その中には柔軟な発想の持ち主もいて、前向きな評価をする人もいた。だから高校時代に感じた楽しさは、私の中ではありふれた楽しさでもあった。

対して小学56年の楽しさは、永久に戻らない。戻れない、と思う度に美化される。そういえば当時の私は、まだ表現の楽しさに気づいていない私で、自意識は強かったが、まだまだ他人に対する奉仕の気持ちの方がずっと強かった。

話は全然変わるが私は将来のことを全く考えない子供だった。幼稚園や、小学入りたての頃は、「大工になる」「医者になる」といった夢もあったが、それは他人とのコミュニケーションを円滑にするための、ひとつのステータスであった。だから、小学3年以降は、成人後の生き方について、真面目に考える気が起きなかった。私は働くことに夢を抱けなかったのである。

つい昨日か一昨日に「将来のために、今すべきこと」みたいな記事を読んだが、私はその発想の古さに驚いた。なんの目新しさもない。私はそうやって、
「勝て、勝て」
と鼓舞されて、上ばかり見上げさせられ、足許をすくわれないか、不安だ。詐欺に遭うのは極度の不安とか、欲望で周りが見えなくなった人間である。

もちろん勝ち負けを至上とする考えは間違ってはいない。正しいと思う。しかし私の生き方も、同じくらい正しい。しかも私は限られた勝ち組の椅子を、早々に明け渡したのだから、正しい上に偉い。