意味をあたえる

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コクリコ坂から 感想

さあ書くぞ。

昨日私は先週の金曜ロードショーで放送された「コクリコ坂から」をビデオに録画していたので、二回見た。録画したのは私の子供であった。再生するとまず大写しになったチキンが円陣を組んでいる映像が流れた。CMであった。私はだいたいどの映画を見ても最近では飽きてしまうから、途中で見るのをやめるか、そうじゃなきゃ途中をすっ飛ばして最後だけ見るとかそういう見方ばかりをする。それじゃあストーリーが把握できないじゃないですか、と言われそうだが、ストーリーくらいなら把握できる。だからとにかく子供と妻はそばにいて、夏休みの自由研究とか感想文の話をしているから最初のうちは知らない女の人がどんどん出てきて勝手なことをしゃべるから話についていけなくて、とにかくお父さんは死んでいるようだ、それにしたって私は適当なところで切り上げて自室にこもるつもりだった。すぐに切り上げないのは子供に
「見なさい」
と言われるからだ。当人はすでに二度見ているらしく、しかし二度とも途中までしか見ていない、と嘘をつく。でも途中までが面白いという映画もあるのだった。私が昨日観た映画についても前半分と後ろ半分のどちらが面白いですか? と聞かれたらやはり前半分と評価する。なぜかというと後半に入ると前半の複線が回収されるからで、私はそういう仕掛けじみたことが好きではないのである。例えば子供向けアニメとか、芸人のコントとかだとまるで自分が誰かに見られていることを意識するような説明口調のセリフを突然言い出したりする。私はそういうのに遭遇すると、「説明が支配する世界モード」に脳を切り替えなければ混乱するから、切り替えねばならず、しかしそれは疲れる。例えば複線の回収にも、似た現象が起きる。どうして登場する人たちは見ている人が都合の良いような行動をとるときがあるのか、不思議である。一方で始まりのところで、お互いの人間関係とか社会的地位をまったく説明せずに言いたいことばかり言う主人公たちに腹が立つこともある。私が映画が苦手なのは、彼らにそういうサービス精神がないところにあるのかもしれない。

私は子供の頃からお話を作るのがわりと好きで、漫画も小説もやったことがあるが、ある程度のレベルを求めると、いかに説明しないか、に腐心する。お話づくりに関しては、例えば優秀なホテルマンのようにかゆいところに手が届くようなサービスをしてはいけない。しかし届かなければ客は読んでくれない。下手くそなやつはこのさじ加減が絶望的に下手だ。そして最後には「楽しんでやれたから良し」みたいなわけのわからない理屈で満足する。

しかし、もうそういう時代も終わりなのかもしれない。私は説明されないことに飽きてきた。もっと読み手を馬鹿にするような書き手がこの先は求められるのかもしれない。

「コクリコ坂」にかんしては、とちゅうから観るのがやめられなくなり、どうしてやめられなかったのか理由が知りたくて再び見た。日が暮れていた。上の子がいないから、比較的テレビは自由に使うことができた。そうしたら主人公のメルちゃんが冒頭から手際よく家事をこなしていて、私はそれに惹かれたのだった。あと、ラストで男主人公のお父さんが、それまで結構無骨な人だったのに男女が良い雰囲気になると、不意に思い切りウィンクをし、それがチャーミングだから、ある程度まで見ると、そのウィンクを見てから終わりにしたいという思いが働くので、最後まで見れるのだ。あとはミゼットがたくさん出てきて、父が若い頃ミゼットを乗り回していたらあれはハンドルを切りすぎるとすぐに横転してしまい、ひとりで立たせるのは大変だ、と言っていた。