意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

好きという感情の乱暴さ

少し前に保坂和志に会ったある若い女性が本人に
「猫が大好きなんですね」
と言ったら、それは認識不足だ、と返されたという旨のツイートがなされていて「認識不足」というワードだったか忘れたがとにかく「お前なに言っちゃってんの?」みたいな反応だった。保坂和志は小説にしろ随筆にしろ猫がよく登場し私は猫は全く飼ったことがないが、けっこう猫に詳しくなってしまった。渋谷のほうでは猫が商品のように扱われているとか(なにも渋谷に限った話ではない)。とにかくその若い女性のバカ丸出しなコメントに加えて小説家はみんなひねくれ者であるという一般論を掛け合わせれば、
「好きというのはミスリードだ」
という発言につながってもなんら不思議ではない。それでは実は保坂和志は猫大好きなのか。

一方私は長い間無趣味の状態が続いていて、瞬間的にはフットサルをやってみたりと、趣味らしい行為もするが長続きしない。下の子供が小学校中学年になるといよいよ私が何から何まで付き添う必要はなくなると、私は時間を持て余すようになった。(しかし思い出すとお店ごっことか地獄だった。私は膝の下に隠したスマホでブログを書いたりした。お店ごっこはとにかくレジがちゃちいから大人には張り合いがなさすぎるのである)それでレンタルショップに行って漫画などを借りて読むようになったが、瞬間瞬間は面白くてもずっと読みたい、続きがすぐに読みたいと思う作品になかなか出合えない。しかしそれが普通なのだと思う。近いうちにゲームでもやろうと思う。

とにかく時間を持て余し気味の私に向かって、
「でも君には本(活字)があるじゃないか」
と言う人がいるが、私にしてみるとあれはそういうんじゃないよ、という気持ちになる。そういう人からすると私が
「無趣味だ」
と表明すると驚く。私は春からけっこう仕事が忙しくなって夜も10時とかに寝るから本を読む時間がなかなか確保できない。休みの日などに小説を読もうと思ってもあまり頭に入らず、最近では、実は自分は読書が苦手なのではないか、と思うようになった。だいいち私は本を読むのは遅く、ひどいときはページを一度もめくらずに起きてられなくなったり、とおよそ読書家とは呼べない体質(?)なのだ。体質は別にどうでも良いが、好き、と言い切れてしまうものこそ浅い関係の気がする。そういうのが保坂は猫好きではない、というのに似ている。

私たちは人生においてどうして好きなものがなければいけないのか、と考えると「好き」がアイデンティティの根幹であると、多くの人が認識しているからではないか。というか私のほうの認識がずれていて、そもそもアイデンティティとは、即ち好きなものコレクションを指すのかもしれない。だから人は好きな事物に執着するし、好きなものがないと不安になる。好きでいるためにお金や労力をたくさん消費する。好きなことを仕事にするか否か論争が起きるのは、好きだという感情を少しでも維持したいと思うからだ。

しかしまあ、それもほどほどでいいじゃないですか、と思う。最近になってよく思う。好きじゃない行為をやっている自分を「自分じゃない」と評する表現を見かけるが、間違いなく人は24時間自分であり、だとしたら「自分じゃない」と突き放さずに、ただ「ああ嫌だ、早く時間よ過ぎ去ってくれ」と思うくらいにとどめておくのが良いのではないか。同じか。しかし例えば「今日こんな嫌な出来事がありました」と延々とブログに書く人がいるが、その人は文を書くのが好きなのではなく、その嫌な出来事に引っ張られており、やはりある種の関心を抱いているということになる。生きるとは、好き、嫌いに二分割できるわけないし、また、嫌いなものに蓋をしての過ごすというわけにもいかない。

冒頭の記事のタイトルで「好きなことについて書けない」とあるが、それは一見自分の好きという感情を言い表す語彙が見つからない、という風に受け取れるが、実は好きと言えてしまう程度のものにはそれなりの単語しかくっつかないということな木がする。にょきにょき。