意味をあたえる

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怒れる者は久しからず

理不尽とは少し違うが小学校6年のときに私は漢字の出来がすこぶる悪く、それは1年生のときからずっとで、居残り勉強をよくさせられた。私は実のところ苦手なのは漢字だけで算数はクラスで1、2番を争うくらいで争っていたのは小堀というモヤシのような外見のいつも白い丸襟のブラウスを着た女子で見るからに才女といった感じだった。しかし小学校高学年になるとみんなは名前も聞いたことのないような塾に通うようになり、頭がいい、と思いこんでいたのは私だけだったのかもしれない。私は中途半端に勉強ができたから、そういうところで出遅れてしまった。親もたぶん私は放っておいても勉強は大丈夫だろうと安心していた。私には「わからない」ということはほとんどなかったが、「おぼえられない」は山ほどあった。だから漢字の書き取りを、みんなが帰った後にやらされる羽目になった。

書き取りを放課後に行っているのは私以外にも数人いて、彼らはだいたいどの教科でも居残りさせられる落ちこぼれ組で、身なりも悪く、グラスのメインストリームにも決して出てこれないような連中だった。万年体育着とか、あとJR好きもいた。クラスのメインに出るためには当時はPCエンジンが必須だった。私はお年玉などを投資してハードやソフトを購入した。だから私のような人間が彼らと行動を共にするなんて考えられなかった。しかしたとえ短い時間でも孤立することは耐えられないので表面上だけでも仲良くすることにしました。

あるとき私は落ちこぼれたちに脱走を提案した。いい加減単調な作業にも飽きたからである。居残りは教室で行われたが、いつもそこに担任がいるとは限らなかった。会議とか資料作成とか、教師にも仕事があったから、ずっと私たちにかかりきりというわけにはいかなかった。そこが狙い目だった。実は私は小学四年のときにも脱走を企てたこともあり、それは早い段階で見つかり、私たちは大急ぎで階段を駆け下りたが、後ろから男の担任が
「コラー!」
と追いかけてきてスリル満タンだった。しかし捕まることがなく、私たちはあっさり帰ることができた。そもそも時間外の活動であるから、教師も真面目に捕まえようという気はなく、「コラー!」にもどこか芝居じみた響きがあった。

そういった経験もあったから、私たちの脱走計画は途中で見つかってしまうのだが、そのときはもう校門の外にいたからそれ以上追いかけてくることはないだろうと安心していた。ところが私たちが校門から50メートルくらいのどぶ川の脇に来たところで、当時の担任の寺川先生(女)に見つかるわけだが、寺川は突然
「おーい」
と両手をメガホンにして私たちのことを呼んだ。語意の調子に怒っているところはまるでなく、先月生まれた鴨の雛を自分のところに呼び寄せようとしている風である。私たちはこの担任の予想外の態度に戸惑い、私は冷静に状況を分析するにもしかしたら何か重要な伝達事項があるのではないかと思い、周りのメンバーに戻ることを提案し、戻った。門をくぐると同時に担任の形相は一変し、私たちは居残りを投げ出したことをむちゃくちゃに怒られた。私はこれはだまし討ちだと思った。大人が、しかも教師という職業の人がそんなことをしていいのか疑問だった。一方、内心に怒りを溜めながら、あんなににこやかに「おーい」なんて声がけをしてくるこの女に、恐怖をおぼえた。

私は冒頭の記事を読んだとき、教育には理不尽さが必要なのではないか、と感じ、それは私が常日頃から思っていることだから、記事は私の思考回路を走り出させる装置の役割を果たした。私はいかに教えられる側に「こうはなりたくない」と思わせるかが、教育の肝と思っていて、それは社会とかが結局のところ理不尽だからである。しかし一方で理不尽さとは温かさであり、言ってみれば幻想を子供に見させている。私は書きながらもう一つのことを思い出した。それは中学のときに合唱際という行事があってそれの練習が放課後にあったのだが、私たちは校門のところの掃除担当で、終わってから練習に行こうと思ったらやり直しを命じられた。たぶん早く練習に行きたいから手を抜いたのだ。やり直しを命じた教師は他のクラスの体育教師で、他の掃除メンバーは班長の私に、
「合唱際の練習があるから、情状酌量を頼んでこい」
と言ってきた。私は全く気乗りがしなかったが、一応職員室に言って頼むと、
「そんなの関係ないだろ」
と一蹴された。体育教師のくせに、極めて冷静に、冷たい口調で言い放ったのが憎らしかったが、しかしそりゃそうだろうな、と納得はできた。これこそ、理不尽の対極なのではないか。

社会は理不尽、と私は書いたがこの後の話を書いてみると、むしろ社会は原則規則を守る集団であり、理不尽なのはそれに楯突く私たちだということに気づいた。私たちは社会的弱者や不幸な人を見ると社会の理不尽さを感じるが、それはどちらかと言えば理不尽さを解消するが故に生じた歪みであり、それを理不尽という風に言うのは、メディアのつくる理不尽のイメージに乗せられているだけなのではないか。

冒頭の引用記事では、遅刻ではないのに後出しジャンケンで五分前行動が追加され、遅刻を捏造され、主人公は理不尽さを感じるわけだが、そういえば私が大人になってこのような理不尽さを感じる場面は、少なくとも社会に対してはあまりなかった。それよりも「だまされた」というほうがずっと多い。あるいは「理不尽さ」と「だまし討ち」はあくまでも順番の問題なのか。