意味をあたえる

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伊豆の踊り子

今月号の三田文学保坂和志の特集が組まれていて、私は保坂和志のファンだから購入して少し読んだ。「ある講演原稿」という講演の原稿が掲載されていて、これはひょっとしたら小説かもなあと思って今雑誌の表紙を見たら「小説「ある講演原稿」」と出ていて小説だった。しかし本当はどちらでも良く、私はむしろこれはどこかの公民館だとかジュンク堂で実際に話されたことだと信じて読んだ。そういう信じる演技がどこまで通用するかみたいなウンコをどこまでガマンできるかみたいな快感があった。私は買った、というかアマゾンから送られてきた初日が次の日にその小、説、を何ページか読み、それからしばらく経って今日は休みで朝からどこへ行く予定もなくだらだらしていたから、
「そうだ、この前の続き読もうっと」
と思ってホコリのかぶったノートパソコンの上に置いてあった雑誌を取ったがどこまで読んだかしおりも挟まなくてわからなかったから、そういうときはしつこくやれば、だいたいどこから読めばいいのか見当がつき、過去の私はそういう作業がドラマでいうと前回までのダイジェストみたいなかんじで小説世界に入る助走になって良いと思っていたが、今日はもうそんなのも馬鹿らしくて適当なところから読んだ。そうしたら川端康成の「伊豆の踊り子」が出てきた。その前にこの雑誌はアマゾンから送られてきたと書いたが、私の家族はアマゾンから私宛に荷物が来ても「来たよ」と教えてくれることはまずなく、荷物はだいたい台所のテーブルの上に置かれる。それで私の荷物はだいたい他の人の手紙だとかの下になるのだが、アマゾンの包みは特徴的で、あと注文した私はだいたいいつ頃届くか知っているから、「ああ、あれは俺の荷物だな」と、意識にのぼる前、台所のテーブルが視界に入った瞬間に思う。それは風景なのである。台所のテーブルは義父母のエリアであり、私からしたらアウェーだから、なるたけ近づきたくないのである。相撲の話をされても困るのである。

踊り子は旅芸人の家族の一員だということはこの小説自体を読んだことのない人も知っていると思いますがこの旅芸人は最初の茶屋のおばあさんの言葉でもわかるように差別の対象なんですね、差別という言葉が強すぎるとしたら、見くだされている、おばあさんの茶屋だってろくなところじゃなくて、しかも中に通されると妖怪みたいな気味悪いおじいさんが炉端にすわっている、そういう環境のおばあさんがなお見くだす対象となっているのが旅芸人の一家でそういうことがはっきりわかるように書いてある。

三田文学 2017年冬季号より引用)

私はここのぶぶんを読んで伊豆の踊り子が読みたくてたまらなくなり、見くだされる女というのにエロスをかんじて、幸い文庫が私の家にあったからわざわざ買わずにすばやく読むことができた。引用のシーンはほとんど冒頭に出てきて、私はひょっとしたら保坂和志伊豆の踊り子は最初しか読んでないんじゃないかとすら思った。私はたぶんこの小説を最初に読んだのは六年か七年前で、そのときよりかは面白く読めた。それはネットに親しんだからだと私は分析した。私はそれまでの人生でホワイトカラーとかブルーカラーとかあまり意識したことがなかったが、インターネットにはそういうのがけっこう出てくるからである。例えば伊豆の踊り子で山の中を歩いて喉がからからになって、水が飲みたいなあと思っていたら泉があって、それを最初に見つけたのが女だったが、女たちは男がやってくるまで自分たちは飲まずに待っているのである。そうしてやってくると、自分たちが飲むと汚いから先に飲んでください、みたいなことを言う。そういうシーンが、最初読んだときはおそらくファンタジーに近い感情を私は抱いたが、今日はもっと身近にかんじた。

私が伊豆の踊り子で好きなのは十代後半くらいだと思っていた踊り子が実はまだ中学生くらいであり、そのことにがっかりというか、安心というか、とにかく主人公の人を見る目のなさが露見する場面である。そのくせお金はあるから、芸人のリーダーに二階からお金を投げて寄越したりと、いっちょ前なことをして、一種の裸の王様みたいな滑稽さが描かれている。

短い小説だからすぐ読み終わったが、冒頭の茶屋のもそうだし、ラストのほうでも倅と嫁が流行り病で死んで、残された幼い三人の子供を引き取りに茨城からやってきた老婆が船着き場で途方にくれたりと、とにかく老婆が大活躍する小説だった。茨城の老婆は背中に赤ん坊を、両サイドに三歳か五歳くらいの女の子をくっつけられ、さらには倅の元同僚の銀山の男たちが「ばあさん、ばあさん」と取り囲んで八方塞がりな様子が良かった。

こういう人たちの味が「心の中に清流が流れた」みたいなおえっとなる表現を中和していてただの自己陶酔小説になるのを防いでいる。