意味をあたえる

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書きながら考える

“自分の頭“のおこがましさ - 意味をあたえる

昨日の記事について最初「自分の頭で考えることのナンセンスさ」という主張があったが、例によって私は主張というものには重きを置かない書き方を良しとしているので、いつものように話は昔の職場でのおかしな出来事になった。それでも頭のバックボーンで「どうにか自分の頭に戻らないものか」という意識が働いていて、ちょうど最初の偉い人が「自分で判断するな」と私にアドバイスし、これこそひょっとしたら“自分の頭“ではないか、と思い偉い人の人間性に感心したが、すぐに自分で「自分で判断しないのは不可能」と書きさらに女の先輩が「あなたがそうしたいならそうすればいい」なんて言ってきてどっちつかずになった。私は自分の主張が折り曲げられるのをどこか愉快なこととして捉えていた。こと物を書くことにおいて自分の主張を通すのはかなりの無理が生じる。それだけ自分の内側が混沌としていて、例えば「アンパンが好き」という自分の感覚は同時に「アンパンが嫌い」という思考を内包している。だから世の中の「筋の通った」というのはただの美意識の問題であって、本当は幻想なのである。私は今朝小倉サンドとジャムサンドとピーナッツサンドで迷ってピーナッツサンドにした。


私は自分の過去の出来事を書きながら、ずっと自分の頭で考えるとは何なのかということを自問していた。これは編み物をしながらクロスワードパズルを解くみたいなのに似ていて、日常ではよくあることだったが、読む方はたまったもんじゃなかった。だから最後まで読む人は滅多にいないしいたとしたらその人はかなり私の書くものに心酔しているから過激なことを書いても大目に見てくれるだろうと思い最後は「自分の頭で考えるのは幸せなことです」と結んだ。どうしてこれが過激なのかは元の記事を読んでください。私はたくさん書いたから疲れちゃったのである。休みだったが私は比較的不機嫌だった。


だからとにかく「自分の頭で考えることの幸せ」は昨日のあの流れでしか書けなかったからああいった私の苦労話もまるっきり無駄ではなかった。私は「色んな人に怒られた」みたいなことを書いて苦労自慢をしているようで気が気じゃなかった。バランスをとるために一度はそうやって成長した私だから後輩に対してきつく当たるのが誠意であると書いたがすぐに消した、案外そう思っている人は多いのである。それよりも私が驚いたのは死んだ先輩について「死んだ」とあっさり書くことができたことで私はあれからかなりの時間が流れたことを悟った。あのことは少しも特別なことではなかった。