意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

“自分の頭“のおこがましさ

これを読んで小島信夫の「小説家は誰だって自分ひとりの力で書いてると思っている」という言葉を思い出した。私の好きな言葉である。つまり小説家は誰でも勘違いしていて本当のところ自分ひとりの力で書いていないということだ。しかしだからといって「みんなで書いている」というのもダサい。「みんな」て究極にダサい。だから私としては「ひとり」の対義語が「みんな」であっては絶対にならない。じゃあひとりの力でないならなんの力だろうか。


就職した最初の職場で偉い人に最初に言われた言葉が「自分で判断しないように。必ず周りに訊くこと」だった。そのときは「そうか」と思ったが新人にするアドバイスとしては珍しいものだった。職場が特殊だった。3人しかいなかったから自分で判断しないわけにはいかなかった。しかもそのうちひとりは私が入ってから徐々に頭がおかしくなった。最後は死んでしまった。だからまともな人は私ともうひとりでその人が野球観戦とか行ってしまうと実質ひとりだった。仕方なく本部と呼ばれるところに電話すると「なんで俺に訊くんだ」と怒られた。糞ったれだったなあと思う。毎回怒る嫌な人がいてしかしそういう人は大抵その時点でもうまともでなく間もなく職場に来なくなったりあとどこかに転勤させられたりした。その後に会ったら「あのときはきつく当たってごめんな」とか言われて私はそっちのほうが気持ち悪かった。


もうひとつ先輩の女の人に言われたのがあるとき新人は応接室のテーブルを拭くという業務があったのだが(時代をかんじる)ついでに先輩の机も拭いた方が新人らしくていいんじゃないかと思い、拭いても良いかと訊ねたら
「あなたがそう思うならそうしなさい」
とはいともいいえでもない答え方をされ衝撃を受けた。私はこれが社会人の洗礼かと思った。そのときは思わなかったが実は上記の偉い人の「判断するな」を完全に否定しているのである。いちいちつまらないことを訊くなということである。これはきついが数日前の記事で書いたが私はファッションコミュ障だから実はいちいち人に訊かないスタイルは自分に合っていた。人に訊かないのは確かにきついときもあるがそういうときは「どっちにしたって怒られるのだからまあいいか」と思うようにしている。しかし私は「もっと訊いて」と怒られたことはない。


今の会社に入って一年後くらいに後輩が入ってこの人がこれでもかってくらい自分で判断しないから再び衝撃を受けた。私が思うにこの人は大きな店の販売員を契約社員でやっていたからきっとマニュアルとかシステムが整備されていて判断を仰ぐ経路みたいなのもしっかりしていたから判断する場面がなかったのだろう。一方の現会社はルールみたいなのがほとんどなく結果オーライな場所なので質問自体がナンセンスだがプライドが高い人なので都度私が責任を負うことにした。私はこういうぶぶんでは実に要領が悪いのだ。私はあと無法地帯のような職場のほうが合っていてプロセスややり方にこだわるのは鬱陶しくて仕方がなかった。


自分の頭というのはどこまでを指すのかを考えるのは面白い作業だがプライドの高い人は耐えられないし白黒はっきりさせないと気が済まない人も全部白にしてしまうだろう。しかしソクラテスにしてもブッダにしても最後は「わからなくていいしわからないのが正解」みたいな境地に行くのだから自分の領域を強調するのは少なくとも知の否定だろう。みんな自分の頭で考えてどんどん馬鹿になって搾取されよう。それが幸せというものだ。