学生時代は教師についてよく考えていたように思う。いちばん身近にいる他人の大人だからそこからまだ見ぬ社会だとか世の中というものを推し量っていたのかもしれない。努力とか希望とかそんなものが胡散臭くかんじるようになったのはいつからだろうか。中3のときいじめられたのかいじめたのかあるいはもっと別の問題があったのか別のクラスの女子が突然となりの中学に転校することになった。話もしたことがない女子だったがふと気になって担任に
「どうして転校したのか?」
とストレートに訊ねるとこの音楽担当の女教師は
「言えるわけないでしょ」
と一喝した。一喝というかそこまで怒ったかんじはなく(察しなさいよ)というたしなめるかんじだった。私のほうもわかっていてあえて頭の悪い風を装って訊いたから教師も乱暴な風ではあったがお互い様だった。私は「そんなことに首を突っ込むな」と怒るのは論外として「色々あるのよ....」と含みを持たせた言い方をされるより「言えない」とストレートに答える担任の反応に好意を持った。私はそんな風に大人の手触りを確かめるのが好きな子供であった。
教師は一般企業に就職したことがないから変わっているみたいな文章をたまに目にするが私は実際に自分も企業で働くようになってそうは思わなくなった。知り合いの教師が「教師は噂が好きですぐ伝わる」みたいなことを話していたが会社員も好きな人は好きだ。この前櫻井くんが校長になるドラマを見ていて現場の教師が「自分は教育者だから経営のことを考える義務はない」みたいなことを意地悪く言って櫻井くんを悩ませるが末端の会社員も経営のことなんて考えない。経営のみならず「こうすればもっと効率が上がる」「もっと楽になる」ということも考えない。考えついてもやらない。言われたことのみをしたり同じことを繰り返すほうがやり方を変えるよりずっと楽だからである。どこで働いていてもいちばん葛藤するのは「余計な行動を起こせば仕事が増える」ということである。上昇志向があるとかなら悩まないのだろうが。
大阪の高校で地毛が茶髪の生徒が黒に染めることを学校に強要されて裁判を起こしたという事件がありそれに対して私はどこの世界の話だというくらい学校の対応はおかしいと思ったが現役の教師のほうはそうは思わないらしく「他の生徒に示しがつかない」みたいな詭弁を述べる書き込みを目にした。そうするとやはり教師というのも人間であり一般企業で働く我々と同じでありそれぞれの倫理観や能力資質にかかっているんだなと思った。確かに地毛が茶色だといっても「あいつが茶だから染髪OKなんだ」と曲解する生徒および保護者はいるだろう。だからと言っても少なくとも一度は「茶の生徒がいても染髪OKではない」と注意すべきである。それでも染髪する生徒が後を立たない学校の風紀が著しく乱れたとなったらそこで初めて黒く染めることをお願いするなり転校してもらうなりすればいいのではないか。あくまで頭を下げてお願いするのである。
「示しがつかない」というのは余計な仕事をふやさないための方便である。生徒の中には聞き分けの良い子も入ればモンスターペアレントを擁するリスキーな子もいる。集団の中には様々な性格やバックグラウンドの人間がいると考えるのが妥当だ。しかし自分が管理する立場になると「全員が危険」と考える方が楽なのである。楽であればそれだけ自分の資本投下に対する報酬が上がるからこの教師は極めて経済的な人間である。同じ人の書き込みで「茶が増えると生徒の管理ができていない教師と評価される」とあったがこれも仕事を増やさないための「仮想マネージャーによる仮想評価」を本人が頑なに信じているだけの気がしてならない。
私は冷静な人間なので「全員が思考能力の欠如したあるいは放棄した教師」とは思わない。一方で教師も我々と一緒と考えると色々理解できるぶぶんがあり管理者はちゃんとした人もいれば駄目な人もいると認識してきちんと対処してもらいたい。
先日私の娘が同じ通学路の六年生がイジメを受けていることを担任に報告するかどうか悩んでいたので「言った方がいいと思う」と私はアドバイスしたがこれが裏目にでてしまう可能性もじゅうぶんある。