意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

大江千里

ドラえもんを見ていたら今度の映画の予告が流れてドラえもんらの線が細くて私が子供時分に見ていたドラえもんに近かった ここのところのドラえもんは線が太いなあと思っていたところだった その新しいドラえもんの映画の主題歌は星野源星野源のうたをバックにドラえもんらが喋ったりするのだが星野源の歌声もしゃべり声っぽくてあと関係ないけど星野源の歌って大江千里っぽいなと思った


大江千里は今はジャズピアニストであるとたまに耳にするが大江千里ほどジャズという言葉が似合う人もいないと思う 大江千里はミスタージャズだと言ってもいい それは何故かというと大江千里はジャズピアニストになりましたという声は耳にするのにその演奏や音楽をまったく耳にしないからである 耳にしなくなった音楽は普通歌手の名前もセットに消えていくのに大江千里は忘れた頃に「今はジャズピアニスト」という情報がもたらされる


私はジャズという言葉の浅はかなかんじが嫌だ 「小説」という言葉も浅はかだが「文学」よりかはましな気がする 逆かも とにかくそれは外からの言葉であり 外というのは外野であり決して内野にはならないという決意の現れであり外野は徒党を組んで内野を拒絶する 外からしか見ないくせに「わからない」なんて恥ずかしげもなく口にする


内野外野と言ったので野球に例えるが野球中継中に実況や解説や監督や選手が「野球選手」なんて言うだろうか ジャズミュージシャンは何故「ミュージシャン」と呼ばれないのか