叔父の一周忌があってお経をもらった僧から説教を受けるが相変わらず話に焦点がない 代替わりしてからもうずいぶん経つのに顔も童顔だし中身も代わり映えしない 先代の話もなにもおぼえていないがもっとお釈迦様だとかが登場した気がする 今日の話にも出てくるには出てきたが「天国からお母さんが見守っている」みたいな月並みな内容だった 叔父の母にあたる祖母は10年前に死に最後は息子の顔もわからずずいぶん口汚く罵ったらしい 私はその話を父から聞いたが弟である叔父も同じ目にあったに違いない それに対し叔父がどんな感情を抱いたのか私には想像できない 父は割と愉快そうに祖母のことを話していたが腹をくくっていたからなのだろうか 私の子供が生まれたばかりで入院直前の祖母に会わせてやってくれと頼んだのも父だったのだが
昨日の記事にも書いたが会話は定型的な投げかけに定型的な反応を示すだけのものだから多数の前で話す場合でも形だけ整えれば聴衆は何かを聞いた気にはなれる 例えば締めの言葉の語尾を強くすると自然と「終わり」の合図となる そういう気づきのない人は教養を身につけるしかないのである この前校長先生の話のネタ本というのがあるというのを見たが僧侶バージョンというのはないのだろうか 日々の生活に気づきがないのならネタでもなんでも引っ張ってくるしかないのだろうか あるいは死そのものも薄っぺらいものだと我が身を持って主張しているのかもしれないが
そう考えるとセレモニーホールの過剰な演出よりかは幾分マシに見える 昼間西野カナの金儲け丸出しの歌詞制作が紹介されていたがそれはセレモニーホールの死の演出と同じ類いなのである