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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

simを解約せねば

今月中にSIMを解約せねばならぬ。二年前に携帯の機種変更を行った際に、「もう1回線契約すれば安くします」と言われそれに従った。安くなる、と言っても二千、三千円の世界だったと思う。過ぎてしまえば宇宙の塵屑みたいな金額だ。条件として二年契約であり、指定された期間に解約しないとその翌月から料金が発生する、というものだった。そんな面倒臭いことを、と今なら思う。今、たったひとりで文字を並べていればそんな風に思える。しかしあのときは妻と私がいて、向かいには店員がいた。なかなか好感触な人で、たぶん好感触のお礼に契約しようみたいな気持ちになったのかもしれない。妻がiPhone6を選ぶと、
「自分なんかiPhone6プラスで、ぶっちゃけデカすぎますよ!」
と傷だらけの自iPhoneを披露してくれた。過酷な業界だということを示唆していた。Appleストアに発売日に並んだという。銀座である。私は渋谷には行ったことがあるが、通に言わせると渋谷は田舎らしい。ただ、田舎なりの良さもあり例えば予約なしで修理依頼に行っても運が良ければ対応してくれるそうだ。三年くらい前の話だから今はわからない。私は二年前の妻がiPhone6を買うとき、すでにAndroidに移っていた。秋頃に会社の集まりがあって、そこに新品の端末を持って行った。猫がいた。しかし私は猫を写真には撮らなかった。連れの同僚は「にゃんこだ」と言いながらシャッターを切った。その人は今でもiPhoneを使っている。昔はiPhoneがなんとか、Androidがなんとか、と職場でもよく話になったが、また私がスマホデビュー一番乗りで、当時はそんなでかいの誰が使うの、みたいな空気で私は当時はまだ下っ端だから
「今日からお前はiPhone刑事だ」
などと言われたが、そのあと続々とデビューし出して私が設定もろもろをサポートした。そういう時期を過ぎて今はもう誰がなにを持っているのか見当もつかない。

ものまねとプロレス

ものまねの日本一を決めるテレビ番組が放送されていて、私はものまね番組を見るとストレスがたまることがわかった。

ストレスについて、

1、どこがものまねなのかわからない、芸人がただ持ちネタを披露しているようにしか見えない場合がある。

2、1の人が真面目に真似をしている人と同じ土俵に立って、優劣を決めるのは無理がある。どういう基準ですぐれているのか、根拠の明示はない。

3、にも関わらず、出演者は「リベンジです」とか「踏み潰す」などと真剣勝負であることをアピールするため嘘臭くかんじる。決勝戦では点数が棒グラフとなって互いの棒がリードしたり遅れたりする演出がされ、それに対し司会者が「どっちだ?! どっちだ?!」と切迫感を訴えるが、頭の中ではぜんぜん別のことを考えているように思える。あるいは最初から答えを知っている風である。

4、旬のお笑い芸人がものまねにアレンジした持ちネタを披露するが、すでに他番組で何度も見せられたパターンで新鮮味がない。ものまね番組はお笑い番組ではないからと、手を抜いているんじゃないかと疑いたくなる。あるいは番組の雰囲気がそう感じさせるのか。

それとこれは私の性格だから仕方ないが、面白くなくても悪いからと無理に笑って顔面の筋肉がひきつったり、あと家族が「つまんねー」と言うとつい面白いぶぶんを探したりしてしまうので、常に私が心の底からおもしろいと思うものを提供してもらいたい。

私がものまね番組で好きだったのは清水アキラが歌の最中に下品なフレーズを散りばめたりして、すると審査員の淡谷のり子が毎回激怒して清水が平謝りする、というものだった。一通り説教した後に採点となり他の審査員(針すなお、など)が10点9点つけるなか、淡谷のみ4点をつけ、そこで清水は敗退してガクーっとなるのである。そういうのが漫画とかプロレスっぽくて楽しかった。

昨日一緒に飲んだ人がずけずけと物を言う人でうっとうしかった。

私は一方的に言われて「はい、はい」と聞き流すほどまだ彼のことは嫌いではなかったから、というか好きとも嫌いとも態度を決めるほどの付き合いはなかったから、真面目に対応した。それは私にとっては辛口な文言も含まれていたが私はとくに感情的になることもなく、そういう私を「年をとったなあ」とか「丸くなったなあ」と思った。昔やっぱりずけずけとものを言う女がいたが、そのときはイライラしてしまい、カウンターを手で叩いたりした。私は弁は立つほうだと自分では思っているが、上には上がいて、上というかそういう人たちは自分にフィードバックしたりしない。私はどこかでやっぱり「そこまで言う資格が自分にあるのか」と思ったりして、相手をへし折ることに熱中できない。ああいうのは自問自答してはダメなのだ。相手の言うことに神経を集中し、どこかで理屈のほころびを見つけなければならない。

昔音楽をやっていたとき、私はプロになろうと思ってライブハウスに出演したりしたが、その当時は今のように情報が潤沢にあるわけではなかったから、プロになるための道筋とか、自分たちには何が足りないのか、とかそういうのはみんなスタジオのスタッフが知っていると思っていた。初めて都内でライブをやったときのスタッフはXだかのPAをやっていたという人で、終わった後のミーティングでこれでもかとけちょんけちょんに言われた。髪も金髪で人相も悪かったから、私たちは震え上がった。ミーティングは階段の下の物置のような場所で行われ、ようやく解放されて
「ありがとうございました!」
と頭を下げたら上げたときにコンクリートに思いっきりぶつかった。低い天井だったからである。とにかく「ダメだ」と言われたぶぶんを頑張ったが、結局芽は出なかった。本当はぜんぶ無視して、両手手放しのような、寄る辺のない不安な状態じゃなければいけなかったのである。私たちは「不安だ」と思うからすがるべき、という誤ったロジックにハマってしまった。それは学校で先生の言うことをよく聞きすぎてしまったのも関係している。私たちは、いや、私は30過ぎるまでそのことに気づかなかった。

それで大宮のライブハウスのスタッフはとにかくふんぞり返った男で、そのころは私たちも少しはたかがライブハウスの一スタッフが、業界とつながっているわけはないと気づきかけていたが、甘んじて男の音楽論を拝聴していた。いつも私たちの演奏を見た感想を、糞味噌に語るのだが、あるときついに「見てないんだけどさ」と断りを入れた上で、精神論を説きだした。要するに彼はただの喋りたがりだった。私はいよいよ決別のときが来たと悟った。しかしどうやって帰るタイミングをつかむか。いきなりキレて出て行く勇気はなかった。私が逡巡さていると、男はいきなり童謡の「チューリップ」の話を始めた。「チューリップ」の三拍子のグルーブが、とか言っていた。私は直感で「おかしい」と思い、よくよく考えると「チューリップ」は四拍子で、「さ・い・た」の後に一拍休符が入るから四拍子なのであった。すかさず
「四拍子ですよね?」
と突っ込むと男は間抜けに指を折り数えながら、
「あ、そうだね」
と認め、そのまま話を続けようとしたが、流れは完全にこちらに傾いており、
「じゃあ、帰ります」
とあっさり帰ることができた。

使いたくない言葉

使いたくない言葉について考えると、まず次のものが挙げられる

・「もちろん」

これは前置詞だがこのあとに続く文章は読者の認識違いや早とちりを牽制する働きを持つ。その前には誤解を招きかねない表現がくることがある。私は「誤解されたらやだなあ」と思う姿勢が嫌であり、どうしてかというと、私の書くものはできるかぎり読者の感情に訴えかけたいと思っているからである。「こいつはとてつもなくアホだ」と思われたらそれで良いということである。そういう風に言われて自分のアホでない箇所を列挙するよりも、どの辺りがアホなのか点検するようになりたい。そうしてどこがアホなのか見つかったらそこを改善しようとするのではなく、そこを愛でるようにしたいのである。もちろんあくまで理想だから、条件反射でカチンときてしまうことはよくある。私は気が短いところがある。客観的にどうかは知らないが、よく他人に「気が短い」アピールをする。そうして私があるときハチャメチャになったとき、周りに「気が短いとはこういうことか」と合点させるのである。私はすぐ「優しい」とか「おっとりしている」と言われるから、少し過激な言動をして喧嘩っ早いくらいがちょうどいいのである。

さらに理想を言えば、例えば私が「煙草のポイ捨てをする人は朝は遅く起きるような自堕落な人」みたいなことを書いたときに、全体を読めば「本心じゃないんだな」と思われるように書きたいのである。いや書いている。だからそこに「もちろん病気などで起きられない人もいる」みたいな補足を加えても野暮なのである。野暮で済めばいいが、補足ばかりなのは最終的に書き手と読み手の信頼関係の喪失というか、読者を下について見ていることにつながりかねない。じゃあ最初から誤解を招く書き方を避けるべき、という意見もあるが、本心でないと言いつつ別の視点で見れば本心なのである。別の視点というか全体というか、流れというか。とにかく私は誰かの反論を想定した書き方が苦手でそういうのは本当に疲れる。

自己肯定なんて言葉は邪魔だ

私がインターネットでおぼえた言葉のひとつに「自己肯定感」というのがあるが、そのワードはだいたいそれが低い人によって使われ、高いから云々、というのは見たことがない。そもそも自己肯定感なんて言葉はあるのだろうか。自己否定はなんか高校時代から使っていた気がする。生い立ちがどうのとか、とにかく自分がダメな理由探しをする時期は誰にでもあると思う。なぜならそれは気持ち良くて手軽だから。何かにつけて「俺はダメだ」と主張する人が私の友達にいるが、結局それはチヤホヤされたいだけのように見えた。私は、だから、人はいかに無個性になるかとか、他人に無関心になるかがとても大事だと思っている。他人に対する興味がなくなれば、なにができるとかできないとか、些末な問題になるのではないか。私は最近ボルダリングを始めて、私はまったくの素人だからなるべく人のいない時間に行ってこそこそ練習しているのだが、そういう自分に自己嫌悪をかんじる。ボルダリング界全体がそうなのか知らないが、私の行っているところは最初にルールみたいな説明が軽くあって、あとは好きにしてよ、と放っておかれる。レッスンもあるから受けたほうがいいですか? と訊いたら
「もっとうまくなってからのほうが良い」
と断られた。ある程度登れるようになって、頭打ちになったときのほうが効果はあるようだ。だからひとりで本を読んだりしてあとは自分の判断で岩にしがみつくのだが、たまに思い出したように、
「そこはこうやるんですよ」
とスタッフが声をかけてくれる。言われたとおりにやってゴールまで行くと、
「ナイスです」
と褒めてくれるが、なにがナイスなもんか、と思ったりする。
「週に二回くると上達しますよ」
と言われ、そんなにしょっちゅうは来れないよ、と思ったら表情に出たのか
「自分のペースで楽しんでください」
とフォローされた。だから、いつまで通えるのか自分でもわからない。ひとりは気楽だが、やはり誰か(できれば当地で知り合った人)と世間話をしながら上り下りしたい。この前は大学生みたいな三人組がきて、きゃっきゃうるさいから帰ってしまった。そのときのスタッフは割と介入するタイプの人で、
「そこで足を載せ替えてー」
と細かいことを言っていたから尚更不愉快であった。私は30分くらいまえに同じところを登ったが、足なんか一度も載せ替えなかったから、きっと垢抜けない登り方だったのであろう。しかしそれでも「どうしてこんなことやってるんだろう」と迷いながら取り組むのは楽しい。お金を払って楽しいのか楽しくないのか態度を決めかねるなんて、馬鹿みたいで愉快だ。私ひとりだから迷うのだ。例えば誰かに誘われたとかなら、その人のせいにすればいいので楽だ。

私がボルダリングを始めました、とはなすと多分そのうちの誰かは、私の行動力などにうらやましいだのすごいだのと評価をする。私が以前フットサルをやっていたときも、そんな風にいう人もいた。そのときはたまたま音楽もやっていたから、とても私生活が充実している人という風にとらえられた。私はそういう風に言われるとつい、「そんなことないよ」と謙遜するが、決して本心では思わないようにしている。そういう人は案外ちゃっかり自分の生活は充実しているのである。むしろ、私に「勝った」と思う感情が、「いいなー」などの言葉を生むのかもしれない。私はそういう人は卑怯だと思う。

教師は聖職ではない

岩牡蠣さんのツイートを見て、ああ、あの先日の福島から避難してきた児童を教師が侮辱した事件を指しているのだな、と思った。私はあのニュースにつけられたコメントを見て、「信じられない」という言葉が並んでいるのを見て「そっちのが信じられないよ」と思った。私が信じられない、というのは教師だって生徒を侮辱することはあるだろう、という意味である。教師は聖職だ、と言われることもあるが、私はそれにしては人数が多すぎると思っている。つまりオリンピックのメダリストだとか、総理大臣経験者等なら、自分の思考とはまるで違うので、そういう人がとんでもないことをやらかしたら「信じられない」という感情も持ちえようが、「なん年なん組の担任」程度の人なら私と大差ない、地続きの人物だと思っている。つまり私が誰かを侮辱したいと思ったり、また実際に侮辱してしまうことがあるのだから、教師がそれをしたって「信じられない」とまではいかない。インターネットの書き込みを真に受けても仕方ないのかもしれないが、「信じられない」という感情を抱いた人は少し冷静になったほうが良い。

どうして冷静になったほうが良いのかというと、過度の期待をしてしまうと、子供のリスクが高まるからである。いくら子供想いの人物がそれが高じて教師になったといっても注意力が散漫になることはあり、そうするとイジメを見過ごすことになり、また子供想いが目隠しになって、私の子供が無実の罪を着せられることになるかもしれない。だから私は過去に子供が「学校に行きたくない」と発言したときはとにかく理由も聞かずに「まあいいんじゃない」と了承し、そこを起点にしてだいたいどの程度の「行きたくない」かを測ることにした。行くことが前提になると、とちゅうの論理が雑になる気がしたからである。結局子供は行かないことになって、するとその日のうちに担任と学年主任がやってきて、私が仕事から帰ってきたときにはすでにニコやかなムードになって、メガネのおばあさんみたいな学年主任が、
「まあ入学したてにはよくあることですよ」
と語り、その後子供は卒業までほとんど休まずに学校へ通った。学年主任の「よくあること」は私を揶揄しての発言だったのかもしれない。しかし私が「過保護な親」と笑い物になって済むのなら、それで良かったと思い、私の子供には妹がいるからそのときにも同じ対応をしたいと思っている。しかし私のやり方は私だけのやり方であり、なぜかというと私には妻がいて、妻はとにかく学校へは何が何でも行かなければならないという人で、それは世間の目とかそういうのもおそらくあって、そういう妻に対しての牽制も含めて「学校なんて行かなくてよい」と主張できるのであった。担任は黒のRV車を我が家の庭に停め、それは戦車のようであり、おかげで私は道端に車を停めなければならなかった。実際担任の女教師は髪を短く刈り上げ、教師というよりも教官のようであった。これは私の記憶の中で好きなエピソードであり、以前書いた小説でも使った。休日はその戦車を駆って、渓流釣りなんかに出かけるのだろう。それは気晴らしであり、生徒のことなんか完全に忘れ、いやむしろ「あいつが気にくわない」などの文句を言っているかもしれない。私はそういう人物のほうが好きだし信用できる。クラス全員を等しく好きにならなければならない、と気負うような人は危なっかしくて見てられない。私の小学生のほうの子供は今年三年生で三年間みんな若い教師であり、二年目と三年目は新卒の教師だった。私は若い教師は嫌だったが、子供のほうは喜んでいる。しかしふと、その上の現在高校生の子供が小学のときの教師たちはどこへ行ってしまったんだろうと思った。あとから子供に聞かされるまで知らなかったが、上の子の担任の中には円形脱毛症になったり、授業中でも毛布をかぶってガタガタ震えていた教師もいたそうだ。円形脱毛症については知っていた。

大田区のマンションを

大田区で絶賛売り出し中のマンションを買いませんかという電話を数日前に受けたが、とちゅうで切ってしまいごめんなさい。私としては自分が購入するつもりがないことを、多少不機嫌そうな態度をとったものの相手にも納得してもらおうと思っていたが、妻がきてしまい、妻は私がこの手の営業電話で話していると不機嫌気なって
「切ってよ」
と言うから切らざるをえない。もちろん私としても正直に
「妻が来ました。もうお話を続けることができません」
と話したいところだが、相手はそういう私の発言をネガティブワードとしてとり、一切耳を傾けず、「買いましょう」としか言わない。私は買わない理由として、

1、節税するほどそもそも税金を納めていない(収入がない)し、私はいくら国会議員や官僚が身勝手で馬鹿ばかりだといっても、自分でどこかに募金するよりもきちんと納税するほうがよほどみんなのためになるから、むしろ節税なんかしたくないのである。

2、老後の不安の解消というが、老後までまだ20年30年あるが、そんなときまで資産価値が維持できているのか疑問だ。空き室のリスクについて質問するといつも「問題ない」と返ってくるが、家賃の補償はしてくれるのだろうが、古くなってきたり壊されたりした場合の補修費用、リフォーム費用まで面倒を見てくれるのか。私はこうしたことが不安であり、結局は老後の不安が投資の不安に移行しただけで、というよりこれでは不安の積み増しではないか。

というのがあって、以前はそれを対話方式で説明すると、「よくお勉強されてますね」とむしろ褒められて向こうから引き下がってくれたが、最近はあまり通じない。そういう私の回答がサンプルとして出回り、そう言われたらこう、みたいな対策が練られてしまったのかもしれない。「老後、老後」とあまりにうるさいから、「死ぬまで働きますよ。働けなくなったら死にます」と言ったが取り合ってもらえない。この言葉を私自身、どこまで本気で言っているのか計りかねるが、しかし自分で稼いで食って、稼げなくなったら食えない(死ぬ)は基本中の基本であり、昨今流行っている「お金にお金を稼がせる」みたいなのは例外なのである。例外なのだから好き嫌い・得手不得手があって当然なのだから「乗り遅れるな」みたいな論調はおかしい。

大田区の営業は「自己投資してますか?」と質問し、私は「してます」と答えると満足している風だった。しかし私のしている「投資」とは主には運動のことであり、私は健康、とくに足腰については年をとっても維持させようと努めており、むしろ老後の備えとはこういうのを言うのではないか。