意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

電車が止まった

乗っていた電車が駅を出るときに妙に加速が悪いなと思っていたらやがて止まってしまい人身事故が起きたそう しかし止まったのはせいぜい10分程度ですぐにまた動き出した放送を聞く限り今しがた発車した駅での人身事故だがこんなにも早く片づいてしまうのか不思議であった その後実はその一本か二本後の電車には私の子供が乗っていてまだ電車は動いていないらしい 気の毒なことである 妻が私が先に帰って麦ふぁーを食べている画像を送ると大変憤慨しているスタンプが返ってきた

オタサーの姫

妙に馴れ馴れしい女が乗ってきた バスである 6時半に会社を出れて私は機嫌がよかった 女はトイレットペーパーを手に持ちながらバスを持っていてバスが到着する直前にそれを落とした そのせいでバスの発車が遅れ女は乗客にしきりに「すみません」と頭を下げた 過剰に謝る人は地雷である 女の他に三人くらいの男が乗ってきた みんなバラバラに座った 他にもいたらしくバスの窓から手を振っていた 私は最初彼らの格好を見て「登山でも行ってきたのかしら」と思った 蛍光色のウィンドブレーカーを肩に羽織っていたからである 


女の前には男が座っていて女が妙に馴れ馴れしいのが目についた 恋人同士なのかと思ったがだとしたら狭くても隣同士に座るのではないか 男も女も2人掛けの席にひとりで座っていた 私もそうだった 比較的空いていた車内なのである 女は最初前の席に乗り出すように喋っていたが次第に男に対するボディタッチが増えてきてやたらと顎をさするようになった 顎が好きなのか酔っているのである 身なりは普通で白いフリルのついたシャツに髪は茶髪で後ろでまとめている 髪の乱れ具合から1日がかりの行軍であったことが伺える 一度だけ目が合うと彼女がかなりぱっちりした二重であることが認められた


だんだんと私はこれがいわゆるオタサーの姫なのかと思えてきた だとしたら貴重なものを目にした 男はみんな楽しそうで何より 


あとそのすぐ後ろにめちゃくちゃフリックの早い女が高速でラインをやってて驚いた 片手で文字を打ちまくるので親指の筋肉がすごそうと思った

私の小説

兎と亀(1) - 意味をあたえる

昨日まで7日間に渡って自分の小説を掲載した 書いたのは6年か7年前で他にも書いた小説はあったがこれがいちばん面白いとかんじた 寓話の「兎と亀」に自分の大学時代の思い出を重ねたのである 亀にはモデルがいる もう忘れてしまった記憶がたくさんあった 奇しくも昨日妻が家の整理をしていたら20代のころのアルバムが出てきて写真を見たらもう名前を思い出せない人が何人かいた 思い出せない日が来るとは思いもしなかった 大学時代も同じで話を読んでいても実際の記憶なのか創作なのか区別がつかなくなった 忘れてしまった衝撃よりもつい7年前は結構おぼえていたことがショックだった 過去のことを忘れても生きていけるのである 忘れるとは忘れたことすら自覚できない状態を指す


私は若い頃には性的に倒錯した女に興味を抱いていた 倒錯の度合いは今はもっとディープなのだろうが私としては誰とでも見境なく性行為に及ぶというのでじゅうぶんだった 性行為と愛情は別物ととらえている節があった 兎も亀も何をそんなにこだわるのかと今になってみると思う それでも相手が自分に好意を抱いているのか推し量り一喜一憂する行為は好きである 最近は僕の心のヤバイヤツという漫画がとても面白い

兎と亀(7)

結局それ程眠れなかった。気がつくと、窓から朝日が差し込んできていたが、起きている者はまだ誰もいない。そこかしこから寝息といびきが聞こえ、煙草と酒と、何かのつまみの脂っこい匂いが鼻をついた。だが、それでも朝は爽やかだった。横に転がった白ワインの瓶が、テーブルの上に縦長で、半透明の影を映し出している。

歯も磨かなかったため、口の中がぬるぬるして気持ち悪かった。喉も乾いている。そういえば頭も痛い気がする。こめかみの辺りを締め付けられているような窮屈さを感じる。痛みの原因を探る。酒だけではない。何か頭の隅にとっかかりがある。それをいじくり回しているうちに、徐々に兎の頭が動き出した。寝る前までの思考のセーブデータが復活し、脳細胞のひとつひとつが役割を与えられ、動き始める。稲子の事を考えていた。稲子は成藤と出ていった。時間を測っていた。時間の経過における、セックスの可能性を検証していた。セックスの一回の時間を20分と仮定する。一回の定義は、キスから稲子がブラジャーのホックを止めるところまでだ。そこまで持っていくトークの時間は15分と見ればいいだろう。短いような気もするが、成藤の目的ははっきりしているし、稲子もサセコなんだから、それ程喋らなくても同意に至るはずだ。後は車を運転する時間とその他もろもろを合わせて40分くらいだろうか。つまり、1時間15分経っても戻って来なかったら2人は事に及んだということだ。

2人は午前0時過ぎに出て行き、帰ったときは3時近かった。つまり、兎の定義によれば、2回はしたことになる。いや、2回目以降は移動時間や、服を脱がす時間を考慮しなくていいから、3回くらいしててもおかしくない。馬鹿馬鹿しい。1回やったら、2回でも3回でも同じことことだ。

そんなわけで、最初の1時間くらいまではハラハラしつつも、希望を抱き、アイスおごってもらっちゃった、と得意顔で戻ってくる稲子の姿を待ち望んだ。気がつくと隣に部長が来ていて、盛んに話しかけてきていた。手に持ったプラスチック製のコップには焼酎の水割りが注がれており、気がつくと兎にも同じものを作ってくれた。居酒屋でバイトしていたことがあると言いながら、焼酎と水の割合について熱心に説明してくれた。コップの下三分の一を指差し、ここまで焼酎を入れるのがベスト、と言っていたが、いざ自分のを作る時は、そこをゆうに超えている。それを見た途端に自分の水割りも異常に酒が濃いように感じ、それ以上飲もうという気がなくなった。

部長はもしかしたら、目の前で稲子を連れ去られた自分を慰めようとしてるのかもしれない。だが、それでも隣で喋られるのはうっとおしかった。誰にも邪魔されず、稲子と成藤のセックスの可能性について、集中して考えたい。ただでさえ、酒が回っているのだから、そもそも人の話なんて頭に入らない。適当に相槌を打って、たまに、え、本当ですか?と意外そうな顔をして見せた。話がひと区切りしたと判断すると、なるほどー、とか難しいですねぇを連発し、腕組みをして話を咀嚼してるふりをした。もちろんそんなわざとらしい態度が相手にバレないはずがない。しかし相手も酔っ払いなんだから、いちいち気にするわけがない。赤い顔をした部長は、茶髪を手で撫でながら、日焼けサロンの一回の料金を教えてくれた。どうでもいい。

そのうちに問題の1時間15分が過ぎた。5分くらい前に携帯の画面を見て、これは過ぎちまうだろうな、と考えていたら本当に過ぎた。稲子と成藤はセックスをした。ただ、これはあくまで兎が定義した時間である。この時間を過ぎたからといって、必ずしも行為に及んだとは限らない。というわけで、自分が定めた1時間15分再検討してみた。妥当である。というか自分で考え抜いて割り出した時間なのだから、妥当も何もない。その後今度は、これだけの時間で逆にセックスに及ばないストーリーを考えてみた。例えば、成藤はどうにか稲子の服を脱がせようとするものの、稲子はそれをかたくなに拒否し、ついには成藤を殴り倒す、みたいな。なぜ稲子が拒否するのかと言うと、それは兎がいるせいだ。亀によれば稲子は兎に告白をしたがっている。つまり好きな男がいるのに、みすみす別の男とするのかという問題である。そう考えると、気持ちが少し楽になった。が、すぐに亀の言うことを素直に信じていいのだろうかという疑問が頭をもたげる。

午前2時を回ると、周りに飲んでる者はほとんどいなくなった。女の子は皆2階に引き上げ、部屋の明かりも奥の半分だけとなり、兎の手元が一気に暗くなった。消される時に、許可を求める声が聞こえたが、泥酔してるふりをして無視した。いよいよ、成藤の前で足を広げる稲子の姿が頭から離れなくなった。暗くなった分、思考がずんずん深くなる。部長も部屋の端へ行って、自分のカバンを枕にして寝てしまった。いなくなると、ひどく心細く感じる。中華料理屋のバイト勢力図についてもっと話を聞きたかった。

ひとりになった兎はとりあえず水割りをつくった。部長の忠告を無視して、焼酎をほとんど入れなかったら、水道水のような味がした。二口飲んで嫌になり、テーブルを離れて壁にもたれかかった。眠気は全くない。もはや成藤と稲子はすでに事を済ませたと考える方が自然だった。酒と時間と密閉空間、と条件が揃ってるんだから、むしろ何もなかった方が異常事態である。交通事故とか熊に襲われたとか暴走族に絡まれたとか、そんな災難に見舞われるくらいだったら、セックスで済んで良かったと思うべきだ。そんな風に兎の思考はショックを和らげる為の自己防衛に流れた。それに飽きてくると、なぜ稲子はサセコになったのかという考えを巡らせ始めた。今まで何度も考えたことだ。稲子がセックスに溺れるのは男性不信のためなんだろうか。過去に酷い振られ方をしたのかもしれない。男は所詮女の体が目当てで、やらせさえすればあとはどうでもいいと思ってるのかもしれない。恋とか愛とか、そんな曖昧なものよりも、体が感じる快感の方がはるかにリアルと感じるのかもしれない。

だとしたら、稲子が兎に好意を持つというのは、どういうことなのか。それは即ち兎とセックスがしたいという事なんだろうか。人間との姦淫には飽きてきたので、獣姦にステップアップしようという腹づもりなのだろうか。ここまで考えたところで、兎はテーブルから水割りを取ってきて、ごくりと音を立てて飲んだ。 プラスチックのコップはやわで、少しでも力をいれるとその部分がへこみ、中身があふれてしまう。いつのまにか起きている者は誰もいなくなり、明かりも全て消されていた。兎は慎重にコップを床に置いた。暗いせいか、コップが傾いているのかどうかが、なかなかわからない。兎はひとつひとつの動作に集中した。思考を寸断させたかったからだ。

コップを無事に置くと、気を取り直して、今度は稲子とバイトしている時のことを思い出した。稲子は兎と同い年だが、バイトに関しては先輩のため、今でも兎に対して姉のように振る舞う。それは仕事に限らず、飲みに行くのも、同じ授業でどこの席に座るのかも、帰りの電車の何両目に乗るのかでもそうだった。近頃は電話をしてくる回数も増えた。兎の方がもっと積極的になっても良かったが、一方でそんな関係が心地よかった。
兎が好きなのは、バイトで仕事がひと段落した後の休憩だった。わずか数時間のバイトなので、正式な休憩時間があるわけではない。客が来ない隙を狙って、2人でバックヤードに引っ込んで勝手に休んでいるのだ。そこにはロッカーや店頭に並べきれない商品やシフト表やタイムカードがごちゃごちゃと並べられ、ただでさえ狭い室内が、さらに窮屈に感じられた。そんな雰囲気のせいなのか、そこでおしゃべりをしていると、いつも以上に親近感が湧く。モニターに映し出された防犯カメラの映像を眺めながら、廃棄のパンやおにぎりをかじる。稲子は太るから、と言って大抵ひと口かじると兎に残りを押し付ける。兎はこれは好みじゃないとか文句を言いながらも、結局は引き受ける羽目になる。稲子は間接キスとかそういうことは一切気にしない。悪乗りして、食べかけのコッペパンを口に押し込んできたこともあった。稲子の手が近づき、香水の匂いがした。稲子は制服がまるで似合わない。濃い色のジーンズを履いて、バランスを取ろうとしているが、顔が地味なせいなのか、上着の赤が完全に浮いてしまっている。そのうちいつのまにか客が来ていて、カウンターの奥を覗きながら声をかけてくる。稲子は決まって「私が行くから」と言って兎を残し、レジへかけて行った。


再び眠ることを試みたがうまくいかなかったため、兎は外へ出てみることにした。思った通り森の朝はみずみずしく、全体的に白がかり、何かをリセットするには都合がいいように思われた。スニーカーの底に触れる砂利の感触が心地よかった。2日前のバーベキューの時、火を起こすのに使用したうちわが落ちていた。ビールの写真が載っていて、何かの販促物のようだったが、紙の部分がふやけて文字は全く読めなかった。兎はわざとそのうちわを踏みつけた。心地いい。調子に乗ってそれを地面に擦り付け、そこから発せられる音、みるみる汚れていく表面を楽しんだ。まあいいじゃないか、と思った。稲子がサセコでもなんでも、亀との決闘がどうなっても、俺は俺なんだし。無理して笑顔をつくろうと口角に力を入れると、そこに稲子がいた。
稲子はコテージの庭と森の境界線くらいにある、一本の木によりかかっていた。ひょろりと細い木で、高いところいついた葉のあいだを抜けてきた光が、表面を斑にしていた。稲子も頭頂部と腹の辺りが金色になっていた。風景に溶け込んでいるように見えたが、グレーのTシャツに白いロングスカート姿だったのでそんなわけはない。起きているのが自分だけと思い込み、稲子の存在を見過ごしたのだ。稲子は顔をこちらに向け、様子を伺っている。かなり早い段階で兎の存在に気づき、ずっと見ていたに違いない。兎と目が合うと、平然と「おはよう」と挨拶してきた。うちわを楽しそうに踏んづけている姿を見られた兎は、わざと寝起きっぽい声で挨拶を返した。稲子は格好こそ昨日と違っていたが、化粧はしていなかった。そのため、いつもよりも幼い顔つきになっていた。稲子は寝ていないのだろうか。外見からは判断できない。いつも通りに見えるが、いつもと違っても見える。

稲子は、バイト先にお土産買わなきゃね、なんて話し始めた。兎は適当に相槌を打った。何故このシチュエーションでそんな話をしなければならないのか理解できない。大して仲の良くない他のバイトに、土産を買う義理はないし、オーナーは酒以外は喜ばないだろう。話すことが無いので、無理に話題を作っている。稲子も話に身が入っていないのが明らかだった。眩しそうに兎の事を見ている。とは言うものの稲子は話をするのを止めず、今回の旅行はどうだったかなんて聞いてくるので、兎は稲子にキスをした。兎の顔が10センチくらいのところまでくると、稲子はようやく話を止め、目をつぶった。稲子の唇は少しだけ開いていた。兎も目をつぶり、このまま抱き寄せようか迷ったが、そのままにしておいた。唇を離すと稲子はゆっくりと目を開け、しばらく目を伏せ余韻に浸っていた。左の頬を人差し指でかいたり、木の根っこに靴をこすりつけたりした。やがて照れくさそうに笑い「こんな女でもいいの?」と聞いてきた。稲子の言う「こんな」はもちろん誰とでも寝る事を指すとともに、昨晩の成藤との行為を肯定していた。心臓が握りしめられるような感覚を覚えながらも、兎は、うん、と返事をした。それから「付き合って欲しい」と言った。

稲子は黙って兎の手を取り「じゃあ亀君との勝負に絶対に勝ってね」と言った。ここまで来て勝負も何もあったもんじゃないと思い、そんなの関係ないだろ、と言った。「でもこれは亀君との約束でもあるし、一種の儀式のようなものだと思って欲しいんだ」そう言うと、稲子は兎を残して部屋へ戻っていった。


旅行から帰ると、稲子はあまりバイトに入らなくなった。お盆で親戚が集まるからと言って一度休むと、そのままずるずる何日か休んだ。兎もあえて連絡しようとは思わなかった。そのまま夏休みは誰とも会わずに過ごした。当然亀からも何の連絡もなかった。


亀との決闘は予定通り、夏休みの明けた10月の最初の土曜日に行われた。昼食の後に、陸上部のグラウンドまでだらだらと歩き、トラックの隅に線を引いてスタートの位置を決めた。すぐそばで陸上部は練習していて、明らかに迷惑そうな視線を兎たちに向けた。集まったのは20人くらいで根田や日野の姿もあった。当然稲子もいる。部長が場を取り仕切り、簡単なルールの説明をした。

スタートの直前になり、亀は兎に近づくと「ところで兎さん、この勝負は結局どうするんですか?」と聞いてきた。兎が無視をしていると、亀はかさかさの唇を緩めながらしゃべり続けた。

「兎さん、このまま行ったら当然兎さんが勝ちますけど、本当に稲子さんと付き合うんですか?稲子さんから見たら、僕もあなたも世の中全ての男も、みんな同じですよ。当然稲子さんと付き合ったらエッチするんですよね?そうしたら、あなたという存在は、あなたと他の男を区別する手がかりは、稲子さんの中で全部消滅してしまうんですよ。あの女は僕らのような獣と付き合えば変われると信じているようですが、それは違いますよ。それは勘違いです。あの女は逃げているだけです。あの女は愚かなんです。さあ兎さん、どうします?僕に勝ちをくれますか?僕としてはどっちでもいいんですよ。あなたが勝っても、いつかあなたは稲子さんを捨てるでしょう。僕はひたすら待つだけですから、、、」

亀がここまで言い終えたところで、スタートの笛が鳴った。部長がドンキホーテで買ったと昼に自慢していた笛だ。スタートした途端、亀は顔を苦痛に顔を歪め、重い足取りでゆっくりと前に踏み出した。早速誰かが、亀がんばれー、と声援を送った。

兎は亀の言葉についてじっくり考えたかった。稲子が逃げている対象を見つけてやりたい。見つけて、それを教えて、二人で乗り越えたい。校外に出て、500メートル位行けば、スタバがある。とりあえずそこまで行ってコーヒーでも飲みながら、この勝負について考えよう。亀は勝っても負けても同じだと言った。それは亀の心理作戦に決まってる。今まで散々惑わせてきた、亀の得意の戦法だ。最後までコケにされてたまるか。どうにか亀にひと泡吹かせたい。でも結局亀は、何がしたいのだろう。ここまでくると稲子の考えも理解できない。亀と稲子がグルという可能性もある。稲子は逃げている。兎も亀から逃げている。亀の視界の中で、兎はどんどん小さくなっていく。<了>

兎と亀(6)

高速を降りるとスーパーマーケットで買い出しを行い、一行は山道へ入っていった。30分ほど車を走らせ、最後は車一台がやっと通り抜けられる道を通り、目的地へついた。 キャンプと聞いて、勝手にテントを張るものと思い込んでいたが、一軒のコテージが建っているだけであった。辺りは森に囲まれ、他に建物は見えない。幹事の1人がドアの鍵を開け、中に入るとすぐに大広間があり、20人程の男女はそこへ荷物を置き、腰を下ろした。時刻は16時を過ぎていて、早速夕飯の準備に取りかかる事になった。 準備は庭で火を起こすのと、室内の台所で野菜などを切ったりするグループに別れた。何もせずに広間のテーブルで酒を飲みだす者もいた。兎はどのグループからもあぶれるような形になってしまい、仕方なくテーブルに買ってきた紙皿や飲み物を並べたり、分別用のゴミ袋を広げたりした。そのうち稲子の指示を受けて、用意の出来た野菜や肉を外へ運び出す役になった。

薄暗くなってきた頃に肉を鉄板に載せ、飲み物が各自に行き渡ると、部長が挨拶をした。 事故もなくこれて良かった、この旅行を楽しいものしよう、と意外と固い事を言った。しかし、肉の焼ける音とそれによる興奮したムードで、まともに聞いている者はいなかった。

酒が回ってくると各自が勝手な行動をしだした。一部の者が疲れたと言いだし、部屋へ上がっていった。暗いのをいい事に生の肉を食わせようとしたり、木の枝を折って鉄板の上に置いたりした。肉を焼いていた男が、空になったビニールパックを火に放り込み、何人かがそれに習ってゴミを放り込んだ。熱によってビニールはゆっくりと溶け、そこから黒い煙が立ち昇った。兎は足が疲れたので玄関の前の階段に腰掛けていた。すぐそばに同じように腰を下ろしている女子が2人いたが、既に暗くて誰だかわからない。兎は缶ビールを飲みながら、火のまわりではしゃいでいる集団を眺めていた。稲子の姿は確認できない。兎はぼんやりと生の人参を齧った。人参の歯応えが頭の中に響いた。

やがて焼くものがなくなったのか、それとも火遊びに飽きたのか、かまどの火が消され、徐々に建物へ入って行った。兎も後を追いかけ、広間のテーブルについた。入ってすぐそばに笹森がいたため、なんとなくその隣に座った。笹森も今入ってきたばかりのようで、兎の姿を認めると奥のクーラーボックスから、ビールを取ってきてくれた。部屋の中は外より数段明るく、目が慣れるまでに時間がかかった。笹森と乾杯をして、ビールを一口飲んでから部屋を見渡すと、稲子は一番奥の台所の前にいた。いつのまにか昼間まとめていた髪を下ろし、隣の女の先輩の話を熱心に聞いていた。何か真面目な話をしているようで、女は紙コップを握りしめてうつむき、稲子はそれを覗き込むような体勢だった。黒い横髪が下に垂れ、顔の半分が隠れている。
笹森とは昼間の話で盛り上がった。会話がひと段落するごとに、でもまあちゃんと着けて良かったね、とお互いを労った。笹森は兎が缶ビールを飲み干すと、奥から新しいのを持って来てくれた。兎の方も笹森のお代わりを持ってこようと思い声をかけたが、まだいいよ、と断られてしまった。

いつから始まったかも不明瞭な宴会は、未だに終わる気配がなかった。コテージの2階は女子の部屋という事になっており、何人かが上がって行く姿を見かけたが、男には部屋などなく、遅かれ早かれこの場で酔いつぶれる運命にあった。笹森と冗談を言い合うのも楽しかったが、徐々に話す事もなくなった。兎は尿意をもよおし、気分転換もかねて席を立とうと思ったが、笹森をひとり残して行くのは気が引けた。誰かが笹森に声をかけてくれれば良かったが、その日はなぜか割り込んでくる者はいなかった。稲子の方を見ると、誰と話すわけでもなく虚空を見つめ、缶チューハイに口をつけていた。隣の女は突っ伏していた。話しかけに行くのなら今だった。幹事お疲れ様、と声をかけてそこから会話を広げていけばいい。稲子はきっと、本当だよ、超疲れた、と言うに違いない。

とりあえずトイレに行き、それから考えよう。そう思って席を立ちかけた途端、笹森が「ていうか亀さんてなんなんだろうね」とつぶやいた。 兎が見てるだけでも焼酎を4、5杯飲んだ笹森は、ところどころ呂律が回らなくなりながらも、今回の兎と亀の勝負に対する自身の見解を述べた。それによると、やはり亀のやろうとしてることはよくわからないし、それに巻き込まれた兎は同情に値するとのことだった。大体亀は普段から何を考えているかわからないし、時々見下されてるような気にもなる。勉強もできるし、親切ではあるから嫌われてはいないだろうけど、深く付き合っていこうと思う奴はそんなにいないと思う。亀がその場にいないこともあるのか、笹森ははっきりと亀を非難した。その後で、兎さん、稲子さんのことが好きなら付き合っちゃいなよ、と言った。兎はそうするよ、と返事をし、今度の勝負は勝つべきか負けるべきかを相談しようと思ったら笹森はトイレに行くと立ち上がり、そのまま戻ってこなかった。稲子も隣の女もいつのまにか姿を消していた。兎は壁にもたれ、そのまま眠ることにした。


翌日は美術館へ行き、その後は湖でボートに乗りたい者はそちらへ行き、残された者は、ボート乗り場の駐車場で何をするわけでもなくじゃれ合い、疲れてくると少し先にあるマクドナルドへ入った。兎も一緒に入り、奥の長テーブルに座ったが、その光景は大学のラウンジの様子と変わらなかった。兎はいつものように誰かの話に適当に相槌を打っていた。たまたま根田がそばにいて、兎に声をかけてくれたが、それほど会話は続かなかった。

1時間ほど時間を潰したところで、稲子から電話があり、どこにいるのかと聞かれた。マクドナルドと答えると、お昼はどうするのかと聞かれた。電話を押さえて、お昼ってどうします?と大声で聞くと、案の定ここで食べればいいんじゃない?探すの面倒だし、との答えが返ってきた。 その事を稲子に伝えると、私せっかくここまで来たんだからほうとうとか食べたいんだけど、と低い声で言った。

結局兎だけが店から抜け出し、稲子達に合流した。逆にボートのグループからマクドナルドへ行った者もいて、結局5人でほうとうを食べた。稲子はこんなところまで来てなんでマックなんだよ、と文句を言っていたが、ほうとうが来ると、汗をかきながらそれを平らげた。

2日目の夕飯はカレーを作る予定だったが、やはり誰かが面倒臭いと言いだし、適当に何かを食べるという事になった。結局は酒が飲めればなんでもいいわけで、前日と同じスーパーに買い出しに来ると、カップラーメンやおにぎりやチョコレートを好き勝手にカゴに放り込んだ。一方で日野や根田は、前日の余った野菜がもったいないと言い、焼きそばの麺を買っていた。

買い物を済ませてコテージへ戻ると、見知らぬ車が止まっており、その前で3人の男がタバコをふかしていた。誰かが成藤さんだ、と声を上げ、その男達が大学の卒業性で、サークルのOBである事を知った。3人は全員真っ黒の短髪で、服装は周りと大して変わらないのに雰囲気はまるで違っていた。すぐに取り囲まれ、ちゃんと働いてますか?などとからかわれていた。

OBの3人をコテージに招き入れるとすぐに宴会が始まった。部長が再び挨拶し、料理をすると言った日野達を除いた全員が酒を飲みだした。2日目とあって低くなっていた旅行のテンションも、成藤達の合流によって再び高くなった。久しぶりの交流にはしゃぎ、様々な質問が浴びせられた。酒が回ってくると1人が、勤め先の社歌を歌い出して周りを笑わせた。兎は蚊帳の外だった。運動部のようにうるさい上下関係はないため、わざわざ挨拶しに行く必要はなかったが、その為に接点が持てなかった。成藤が知らない人を紹介してくれと部長に頼み、その時に何言か言葉を交わしただけであった。成藤は兎の姿を確認すると「これぞ本当のウサギ小屋だな」と部屋を見回しながら言った。

そのうちに場の雰囲気が落ち着いてくると、前日と同じように、数人のグループで固まり、何かを語り合うようになった。今度は笹森も兎からは遠い席だった。稲子も旅行の幹事同士で固まっている。表情から判断すると、昼間に大多数がマクドナルドに流れた事を嘆いているように思われた。仕方がないので1年生のグループの方に顔を向け、適当に話を聞いていた。誰も兎に話しかけようとはしなかったし、笹森のように気を利かせて酒を持ってきてくれる者もいなかった。仕方がないので自分でクーラーボックスまで取りに行かなければならなかったが、それ程飲もうという気にはなれなかった。

1年生の話題は、ひとりの女子の恋愛についてだった。同じゼミで好きな男ができ、その男には果たして気があるのかどうかを議論していた。出会いのきっかけから始まり、2人でディスカッションの座長を務めたことや、同じ授業の時は隣同士の席に座り、試験勉強も一緒にしたことなどを披露し、周りで脈があるのかどうかを判断した。結局は告白しなければどうにもならない気がしたが、皆真剣に意見をぶつけ合っていた。兎も意見を言いたかったが、自分の事を聞かれそうで何も言えなかった。そのうち結論を急いだひとりの男が悲観的な事を言い、女の子はついに泣き出してしまった。男は周りから袋叩きに合い、オーバーなアクションで女の子に詫びていた。

なんとなく喋りづらい雰囲気になり、周りの女子達が慰めだすと、ふと背中に稲子の名前が聞こえた。振り返ってみると、少し離れた一角に成藤達がいて、稲子の噂をしていた。成藤達の他にも何人か男がいて、その中には部長もいた。耳を傾けていると、どうやら稲子がサセコかどうかについて話しているらしかった。兎と亀が勝負することになって以来、久しく耳にすることのない話題だった。当人がいない場ではともかく、少なくともいる場所ではそれを口にするのは禁句となっているのだろう。兎が集団に目をやった時、一瞬部長と目が合った。部長は紙コップに氷を入れ、誰かに水割りを作っているところだった。すぐに兎は目を逸らし、相変わらず泣いている女の子を見守っているふりをした。

そのうちに、今頼めばやらせてもらえるのかな、という声が聞こえた。じゃあちょっとみんなで頼んでみようか、と誰かが返し、笑いが起こった。別の誰かが、こんなに酒飲んでるのに勃つのかよ、とからかった。ふざけんなよ、と怒鳴り声がした。成藤の声だ。そこから聞き覚えのある声が、でも飲んで勃たなくなったことって実際あります?と質問した。俺あるよ、と答えた者が、その状況を説明しだした。動きも詳細に再現しているのか、ひと区切りするごとに笑いが起きた。兎の頭の中にもその様子が映し出された。視界の中心にいる女の子は、ようやく泣きやんだ。脳の内部で情報がミックスされ、頭の中でその子がベッドに押し倒された。女の子は涙目で覚悟を決めるものの、肝心の男のモノが全く役に立たない。
「ちょっとドライブ行ってくるわ」
話を遮るように突然成藤が立ち上がり、ポケットから車のキーを取り出した。近くの者も不意をつかれたのか、絶句して成藤を見上げていた。成藤は赤い顔をしていたが、それ程酔っているようには見えなかった。OBのひとりがどこ行くんだよ、と聞くとちょっとその辺、と簡単に答えた。そして、稲子ちゃーん、と大声で部屋のほぼ反対側にいた稲子の名を呼んだ。稲子は一緒に飲もうと誘われたのかと思ったのか、どうしたんですか成藤さん、と言いながら紙コップを持ってやってきた。だが、状況がわかるとすぐに「でも飲んでますよね」と真顔で質問した。大丈夫だよ、その辺ぐるっとまわってくるだけだから。成藤は車のキーをぐるぐる回しながら答えた。目は稲子の顔から全く離さなかった。部長が2人の間に割り込み、とりあえずこれ飲んじゃってから行きませんか、と3分の1ほど残った焼酎の瓶を指さした。成藤は一瞬それを見たが、何も言わず稲子に、行こうよ、ていうか煙草も切れちゃったんだ、ちょっと買いに行くだけだから、と言った。

少なくとも成藤の周りと兎のグループはは2人のやり取りを見守っていたが、誰も止めようとするものはいなかった。酔っ払ってわけがわからなかったのもあるし、OBということで無理には逆らえない空気もあった。稲子の話をしているうちに、成藤はその気になったのだ。助手席を倒し、稲子の上に乗る成藤が頭の中に鮮やかに映し出された。止めなければならない。成藤に殴られるかもしれなかったが、それでも間違っているのは向こうだ。あるいは自分もついていくと言い張ってもいい。無理やり我を通せばそのうち興冷めして、出かけること自体なくなるかもしれない。だが、ここで怒り出しても、何ムキになってんの?とからかわれるような気がした。本当にただ気まぐれで稲子を誘い、ドライブに行こうとしているだけなのかもしれない。なんだか訳がわからなかった。酔っているせいか現実感がない。あるいは現実感がないと思い込もうとしている。
ふと、亀ならどうするかと考えた。亀ならやめてください、とはっきり止めるのかもしれない。亀ならそういうのも様になる。周りも、どうせ亀だし、と思うだろう。亀さんて本当に空気読まないよね、と陰口を叩かれればいい。この場に亀がいて欲しかった。亀に犠牲になって稲子を止めて欲しかった。いや、それは駄目だ。それでは亀の株が上がってしまう。

兎が考えを巡らせているうちに、成藤と稲子は部屋を出ていった。稲子は一度も兎の方を見なかった。エンジン音が鳴り響き、その少し後でタイヤが砂利を踏みしめる音が聞こえた。状況を知らない数名が窓に近づき、去っていく車を見送った。

成藤と稲子がいなくなった事に気付いたのは参加者の一部で、それでも大して話題にもならずにすぐに元の雰囲気に戻った。部長も、あの人去年も夜中に車走らせに行ったよな、と言ったきりで、それ以上話題には出なかった。兎は完全に酔いが覚めてしまった。誰かが自分の事を見ている気がして仕方がなかったので、無理に平常を取り繕った。

結局2人が戻ったのは深夜遅くだった。2日目ということもあり、すでに消灯し酒を飲んでいる者もいなかった。エンジン音が再び戻ってきて、その後に慎重にドアを開ける音が聞こえた。稲子がゆっくりと2階に上がっていくのが、気配でわかった。成藤は部屋に入ってくると、窓辺に座り、そこで煙草に火をつけた。その煙草の行く末を見終わらないうちに、兎は眠りに落ちた。

兎と亀(5)

夏休みに入ると、サークルで山中湖へキャンプへ行く事になった。休みの直前、前期の試験が大方片付いた頃に、稲子が誘ってきた。稲子の話を聞いて、兎はようやくこの集まりがただの酒飲み集団ではなく、旅行サークルである事を思い出した。メンバーの中には、旅行が好きで入ってきた者もいて、ほとんどの者が毎日、目的もなく馬鹿騒ぎしている裏で、旅行の計画を練っていたのだ。そして、稲子もその中のひとりだった。兎としては、気が進まなかったが、稲子に声をかけられると嫌とは言えなかった。簡単な行程を聞いて、次の日に旅行代金を支払った。稲子はそれを手持ちの封筒に入れ、表に兎の名前を書き込んだ。封筒にはすでに何人かの名前が書き込まれ、兎の名前は比較的下の方の位置だった。さり気なく縦に並んだ名前を見たが、そこに亀の名前はなかった。亀が参加するのか、聞いてみようかと思ったが、やめておいた。どうせ当日になればわかるのだ。

キャンプは8月の最初の週の3日間で、その週はバイトは1日しか入れなかった。大抵一緒に入っている稲子も同様だったため、その週のシフトは、夕方の時間に空欄が目立った。空欄がある場合は、他のアルバイトが早い者勝ちで名前を書きこんでいいことになっている。それでも埋まらなければオーナーが入れる者を探す。当然オーナーからしたら手間になるので、2人揃って休まれるのは迷惑なのである。旅行前の最後のバイトの日、兎はシフト表の前で腕組みをしていオーナーに、2人で旅行でも行くのかとからかわれた。兎は笑いながら否定したが、酒に酔ったオーナーはそれでもしつこく本当は付き合ってんじゃないの?と聞いてきた。兎は何か適当な仕事を見つけてその場を離れたかったが、ふとオーナーの言葉が2人の関係を客観的に語っているような気がして、もっと色々聞いてみたくなった。とうとう「他のバイトの子も2人は付き合ってると思ってんじゃないかなあ」という言葉まで引き出した兎は、満足してレジのところまで戻っていった。


旅行の当日は、近くに住んでいる者同士で車に乗り合って行くことになっていた。当然、同じ市内に住む兎と稲子は、同じ車で行くものと思っていたが、幹事である稲子は、人数合わせのために大学まで赴き、別の車に乗って行くことになった。兎は2つ先の駅で拾ってもらうことになった。急行電車も通過するような小さな駅 で、兎も降りるのは小学生以来だった。迎えの時間は8時で、近くまできたら、電話がくることになっている。指定されたマクドナルドの前まできて、ポケットから携帯電話を取り出すと10分前だった。兎はもう一本遅い電車でもよかったと後悔した。迎えにくるのは電話をすると言った、笹森以外は知らない。笹森は兎よりも一学年下だが、浪人しているために歳は同じだった。いつでもTシャツにハーフパンツといった洒落っ気のない格好で、真っ黒の直毛は針金のようだった。初対面から敬語は使わず、態度も馴れ馴れしかった。その事で兎は良い印象を持たなかったが、サークル内ではそのキャラが受け、上級生にもすぐ名前を覚えられた。笹森が自分の家の近所だとは知らなかったが、向こうはよく知っていて、隣町に住んでる事を教えられた。

日の光はまだ弱かったが、すでに蝉が鳴いており、その日も暑くなるのは明らかだった。特にすることもなく、ただつっ立っている兎の前を、様々な人が通り過ぎて行く。私服の者も、スーツも、制服姿の高校生もいた。いずれも脇目もふらずに駅の階段へ吸い込まれていく。汗にまみれ、口を開き喘いでいる中年サラリーマンもいた。誰も兎の存在には気付かない。立ち止まっているのは兎だけだった。ロータリーには、代わりばんこに車が止まり、そこから降りてきた人々が歩いてきた人々の流れに合流していった。大抵の人はさっきまで乗っていた車の方を見向きもしなかったが、たまにドアを閉める前に声をかける人がいた。いつまでも車の行方を見ているサラリーマンの目線の先には、後部窓から小さな手が出ていた。自動車が周回する中心部は縁石で一段高くなり、そこには木が植えられていた。3メートルはあるだろうかと思われる植木には、午前の光を反射した緑が生い茂り、どこか現実感がなかった。この時間に起きているのは、夏休みに入ってから初めてだった。夏休みでなくても、この時間に家を出るのは月に2,3回である。

その時左ポケットに突っ込んでいた携帯電話が鳴った。マナーモードにしていたため、太ももに振動が伝わってきたが、兎はしばらく事態が飲み込めなかった。ようやく電話だと気付いた兎が、取り出して画面を見ると、笹森の名前が表示されていた。同時に時間を確認すると、8時を10分ほど過ぎていた。電話の指示に従って歩いて行くと、紫色の軽自動車が止まっていた。兎が近づくと、笹森が後部座席から顔を出して合図をした。兎が荷物をどうしようかと考えていると、運転席から女が降りてきて、トランクを開けてくれた。茶髪でソバージュの見たことのない女だった。荷物を積み込むと、助手席に乗って、と指示をしてきた。車の中には笹森の横に、もう一人女がいたが、やはり初対面だった。

初対面の女は、いずれも4年生で、就職活動が忙しいためにサークルにも顔を出していないとのことだった。そう言われてみると、確かにいつもラウンジで見る面々よりは落ち着いて見える。「夏休み前にようやく内定出たの、気晴らしに染めちゃったんだよね」運転席の女はそう言った。名前は日野といった。日野は派手な髪と裏腹に目が小さく、全体的に素朴な印象だった。後部座席の笹森の隣は根田と言って、髪は黒いままで、顔は細長く、茄子を連想させた。日野はカーキ色のTシャツを着ていて、根田は白い半袖のブラウスを着ていた。

助手席に座らされた理由はすぐにわかった。シートの上には道路地図が置かれ、要するにそれで日野をナビゲートしなければならないということだった。日野は、ごめんね、道あんましわかんないんだよね、と言った。それは免許すら持っていない兎も同様で、さらに兎は乗り物酔いしやすい性質だった。分厚い地図の重量は手に余り、今現在の自分がいる場所のページを探すのにもずいぶん手間取った。兎は国道を指でなぞりながらようやく今いる駅を発見した。同じページには、いつも稲子とバイトをしているコンビニもあった。もし稲子がいれば、ナビの役を引き受けてくれるだろう。稲子は兎が車酔いする事を知っている。笑いながら兎を馬鹿にして、後ろの席へ追いやるはずだ。日野がサイドブレーキを下ろす音を聞きながら、兎は稲子の事を考えていた。

兎の任務は、車を中央道の八王子インターまで導くことだった。高速に乗ることさえできれば、最初のサービスエリアで、他のメンバーと落ち合うことになっている。兎は地図をなるべく立てて、下を見ないようにした。ページを行ったりきたりし、なんとかインターまでのルートを探した。国道を4回か5回程曲がれば、着くようである。しかし道がわかっていても、実際にその通りに走るのは難しかった。道がいつのまにか分岐して、知らないうちにルートから外れることもあれば、曲がろうとしていた交差点が立体交差で曲がれないこともあった。4人はその度に大騒ぎして、元の道に戻る方法を好き勝手に提案した。兎が、地図を目で追ってるうちに、車が住宅街の細い路地に入り込んでしまうこともあった。

幸い4人の地理感覚はほぼ一緒だったため、兎が一方的に責められることはなかった。笹森は兎同様に、免許を持ってなかったし、根田は方向音痴を自称していた。日野は自分の運転で遠出するのは初めてだと言い、たまに急ハンドルを切った。何度か道を間違っているうちに、笹森がじゃあそこを曲がってみようと思いつきの解決策を提案し、それに盲目的に従おうとする日野を、根田と兎で止めるというやり取りのパターンが出来上がった。道中は笹森が話の中心になることが多く、無遠慮に日野や根田に就職活動の苦労話を聞き出した。根田はお菓子を沢山持ってきていて、皆に飴やチョコレートを配った。日野が赤信号に気づかず、急ブレーキを踏んだ際に、衝撃で兎は持っていた地図のページを引きちぎってしまった。休憩に寄ったコンビニで、日野は肩が凝ったと言い出し、兎に肩を揉むように頼んだ。だが、兎の手つきがあまりにぎこちなかったため、日野は笑い出し、マッサージ師にはなれないね、と言われた。兎はずっと地図を見ていたが、車酔いすることはなかった。インターに乗る少し手前で根田の携帯電話が鳴り、待ち合わせ場所についていないのは、兎達だけだと教えられた。待ちくたびれてると聞いた日野は「じゃあ先に行ってもらって、私達だけでどっかで遊びに行っちゃおうか」と冗談を行った。他の3人がじゃあ富士山、ディズニーランド、と口々に好き勝手な事を言った。兎はこの旅行は自分が思ってたよりも楽しくなるような予感がした。
サービスエリアに着くと、すぐにアイスクリームを食べている集団を発見し、その中に稲子もいた。稲子は黒いTシャツにジーンズを履き、髪は後ろで束ねていた。兎達の姿を見つけると、すぐに日野にねぎらいの言葉をかけた。兎にも声をかけてきたので、助手席でずっと地図を見ていたことを、誇らしげに語った。稲子は大げさに驚き、ていうか早く免許取りなよ、と兎の肩を叩いた。次々と参加者が集まり、遅いと文句を言ったり、心配の声をかけたりしたりした。だが、その中に亀の姿はなかった。そばにいた一年生の女の子に聞いてみたが、用事があってこれないとのことだった。確かに亀がキャンプなんて冗談にも程があるような気がした。確かにあいつじゃ火を起こすのにも1日かかっちゃいそうだよね、とその女の子に言うと、くすくすと笑った。

稲子が日野に、交通費の事などを説明していると、見知らぬ男が近づいてきた。後で聞いたら、それはやはり就職活動中の4年生で、日野の彼氏だった。日野の彼氏は、もうここからはみんなで一緒に行くんだからと言って、日野の車は自分が運転すると言い出した。お陰で兎があぶれる形となり、そこからは3年の運転するバンに乗ることになった。助手席のナビ役から解放され、さらには軽自動車よりもはるかに快適な乗り心地だった。しかしあまり喋れる相手がおらず、兎は聞き役に徹しているふりをしながら、現地までは寝て過ごすことした。

兎と亀(4)

兎と亀の決闘は、初めはサークル内の話でしかなかったが、徐々に噂が広がり、一部の生徒、さらには一部の教授の耳にまで入ることになった。ある日兎はアメリカ経済概論の授業の後に、出席カードを出す際に教授に呼び止められ、君が兎君か、と声をかけられた。某一流大学から最近引き抜かれた老教授は、聞き取りにくい口調で、今時珍しい若者だ、悔いのないようにがんばれ、と兎を励ました。

兎と亀が決闘を行うことを知っている者も、そこに稲子が絡んでいることまでは知らなかった。そのため、様々な憶測が飛び交った。男同士の勝負なので女が絡んでいるのは察しがついたが、負けた方が学校を去るなどの尾ひれがついた。ひどいものでは、兎が負ければ耳をむしられ、亀が負ければ甲羅を割られる、と言い出す者までいた。

部長の提案で、決闘は10月の最初の金曜日に行われる事になった。さすがに夏休み直前の今やっても、慌ただしいだけだし、この暑い盛りでは、走る方も応援する方も過酷であった。兎は亀にそれでもいいかと聞かれたが、どうでもいいことだった。決闘なんてしてもしなくてもどうでもよかったし、しても何の小細工もせずに圧倒的な差をつけてゴールするつもりであった。


教授に励まされた次の日、今度は名も知らない女生徒に学食のカウンターで突然「卑怯者!」と罵られた。わけもわからず女生徒の顔を見ていると
「あんな亀さんみたいな社会的弱者をいたぶるような真似をして恥ずかしくないんですか?競争だなんてどう考えてもアンフェアじゃないですか」と女は頬を赤くしてまくし立てた。鼻が低くて茶色の髪が肩まで伸びていた。見開いた目は充血していた。手にはお盆を持っていて、威嚇するようにそれを上下に動かした。列の後方にいたため、お盆の上にはまだ何も載っていなかった。兎のお盆には既にチャーハンが載せられていた。女に何か反論しようかと迷っているうちに、列から押し出され、兎は味噌汁を取り損ねてしまった。結局兎は何も言わずにその場を立ち去ることにした。女がさらに何か言ってくるのではないかと思ったがそれ以上声は聞こえなかった。人が半分ほど埋まったテーブルを縫う様に歩いていると、背中に笑い声が聞こえたが、それが自分に対する嘲笑なのかどうかは判断できなかった。いちばん隅の席に着くと、自分の顔に血液が集中しているのがわかった。カウンターの様子が気になったが、女がこちらの様子を伺っているのではないかと思うと、見ることができなかった。兎は平静を装い、チャーハンをゆっくりと口に運んだ。頭の中では女が発した「アンフェア」と「社会的弱者」という単語が渦巻いていた。チャーハンには味がなかった。

三分の二を食べ終えたところで、兎の思考は落ち着き、徐々に女に対する怒りがわいた。女の主張は完全なお門違いである。「兎と亀の決闘」という記号化された情報をインプットされた女の脳は、「社会から守られるべき亀に理不尽な勝負を無理やり受けさせる、身勝手で利己主義な兎」というバカ丸出しのストーリーを作り上げたに違いない。”社会的弱者”という言葉を選んでしまう時点で低脳さが窺い知れる。傲慢さと言ってもいい。亀の境遇に同情している風を装うが、その正体は、結局何不自由ない自分の人生を再確認するためのツールとして亀を利用しているのである。仮に亀が摂食障害になって、本当の弱者となったとしても、この女は最後まで食事を亀の口にまで運んでやったりしないだろう。亀の乾燥しきった唇を見て水を欲していることがわかっても、嫌悪以外覚えない。兎は余程女のところに亀を連れて行って、事情を順序立てて説明しようかと思ったが、すぐに無駄だと悟った。女の猿並みの脳みそは事実は認識できても、そこから導く結論は「意味不明」に決まっている。亀も兎と同じサイドに配置しなおし、同情から非難の対象に変わるだけだ。

おそらく兎と亀の決闘を知っている大多数の者はこの女と同じだ。だとしたら勝負なんて初めからする意味がない。兎はスタートと同時にその場に寝転び、亀を勝たせてしまおうと思った。わざわざ見物に足を運ぶ者たちの目的は、弱者に鞭を打った兎に非難を浴びせることだ。愚かな見物人たちは思惑を裏切られ、当惑するだろう。隣の者と小声でささやき合いながら、兎の長い耳や赤い目を盗み見る。そして、こんなくだらない勝負を見に来てしまったことを後悔する。わずかな時間に過ぎないが、見物人の人生のいくらかを無駄にできたと思うと、痛快だった。

チャーハンを食べ終えて、水を一口飲むと、兎は椅子の背にもたれかかった。ひと息つきながら周りのを見渡したが、女の姿は見えない。今の兎に怖いものはなかった。食堂は兎が入ってきたときよりも人が多くなっていた。食券を持って並ぶ列も入り口の外まで続いていた。学生たちの流れは緩慢で、対象的に厨房は慌ただしかった。一番端の中年女の給仕が、乱暴な手つきでカウンターに味噌汁を並べていた。テーブルはほとんど埋まっていたが、兎の周りは空いていた。ひとつ挟んだ右側には4人組の男が座り、昨日のテレビ番組の話に興じていた。ひとりが芸人のセリフを真似て、残りの3人が大げさに笑った。その際に兎の斜め前にいた男の口から、唾が飛んだ。唾はその前の男のサラダの中に落ちたが、誰も気づいていなかった。兎はサラダが男の口におさまるのを見届けようと思ったが、なかなか箸をつけようとしなかった。兎はコップに残ったわずかな水をすすりながら男を観察したが、男は箸を置いて手振りで何かを説明し始めた。兎はいつのまにかその動きに亀を重ねていた。亀の動作はいつも、何かに疲れたようにかったるそうだった。誰かが衝撃的なニュースを仕入れてきても、大きな反応をする事はなかった。1対1で会話をしていても、話ているこちらが消化不良でも起こしているような気分になった。亀の顔を見ても表情は乏しく、どんな心理状態なのかを読み取るのは難しかった。爬虫類の目には瞳がなく、全ての光を吸収しているようだった。分厚いまぶたの間に埋め込まれた黒い目玉は、時折悪意の塊のように見えた。

その時兎の頭に、ある考えが浮かんだ。亀は兎がこう考えるのを予め予想しているのではないだろうか。兎は亀との勝負を放棄し、亀を勝たせようとしている。それこそが亀の狙いなのだ。だいたい亀のような男が、このような周りの感情を予想できないはずはない。むしろ誘導したと言っていい。こんな勝負の内容なら、人々の心は必ず亀の方につく。兎は周りのプレッシャーに押しつぶされ、勝負を放棄する。実際は押しつぶされたわけではないが、放棄しようとしたのは同じだ。こうして亀はまんまと勝利を手にし、稲子に対して想いを伝えるのである。そう考えるとさっきの女も亀に頼まれて兎を非難したのかもしれない。よく考えると公衆の面前であんな大声を出すだろうか。よく見ると大人しそうな女だった。お盆をバタバタする仕草もわざとらしかった。「社会的弱者」なんて言葉もいかにも亀が好きそうである。

兎はようやく理解した。亀には初めから勝算があったのである