意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

オブラディ・オブラダ

今朝夢を見た。ラソウマートという店に「謎」の貼り紙がしてあると父が私に言い私は興味を抱いたたまたま私はラソウマートの上の階に泊まっていたので下に降りるとそこはこぢんまりとした昔のデイリーストアみたいな雰囲気で早速「謎」の貼り紙を探そうとしたがオシッコがしたくなったのでいったん部屋に戻りトイレに行くのももどかしかったので浴槽で素っ裸になった私はそのまま放尿を始めたするとオシッコの勢いはいつまでも弱まらずオシッコよりも先に夢が終わってしまった父も夢の中では「謎」好きであった


夢の終わった私は昼から美容院の予約をしていたので車に乗って向かった 幹線道路で猫の死体があってそれを横切る瞬間にタイミング良くビートルズの「オブラディ・オブラダ」がかかった その前は別のビートルズがかかっていた 私はビートルズの青盤を聴いていた 「オブラディ・オブラダ」は「人生はブラジャーの上を流れる」という歌詞だがビートルズは「人生は猫の死体の上を流れる」とでも言いたいのだろうか 車に乗っていたら何でも流れるのである 


美容院に予定より早めに到着したら奥さんが出てきて前のお客さんがまだ終わってなくてそれが親子連れで待合いのスペースも終わっているそうなので私は散歩をすることにした 天気が良かったのでラッキーだと思った 学校の校庭とか眺めていようと思った 学校なんて学生時代は嫌いだったが嫌いというのも仲間外れにならないために無理やり作った感情かもしれない 何にせよもう部外者だから無理に嫌がる必要もなかった 中学の校庭は殺風景でよかった 奥さんは「何もない場所ですが」と申し訳無さそうにしたが静かで良かった 住宅街の中に集合住宅があってそこから幼児の泣き声が聞こえた 冬の昼下がりは幼児の泣き声くらいしか聞こえなかった 古池や蛙飛び込む水の音みたいだと思った 道に迷った

正しいことを主張する気になれない

小学校のクラブ活動で「5万円の備品」を購入するために保護者50人を1週間前から何度も動員してバザーをし、豚汁とぜんざいをふるまって…非効率?交流目的? - Togetterまとめ

確かに「お金を割り勘したほうがずっと効率が良い」という意見には非の打ち所はない。また当事者でない外野が自由に批判するというのも何らおかしくはない。しかし私はこういうのを見る度にモヤモヤしてしまう。理由について考えたが結論として私は正しさそのものはともかくそれを振りかざしたり見せびらかしたりするのが好きになれないということに至った。正しさはその足場がぐらぐらしているときには主張しなければならないがみんなと共有できたら今度は妙にお節介になって鬱陶しくなる。距離をおきたくなる。上記のバザーに参加する当事者だって「面倒くさい」と思う人が大半だろう。それでも変わらないのは集団には必ず自分の思いもよらないような考え方の人がいてこちらの理屈が通用しないからである。あとは行動力とか決断力とか。正しいことをすれば孤立するのでそれの心構えも要する。そういうリスクを考慮すると必ずしも前例を覆すことが効率的とはならない。たとえば子供が卒業してしまうなら変えたところで本当に美味しいのは翌年以降の人たちである。最後のバザーならおとなしく不用品を集めて売りさばくほうがずっと楽である。どの分野でも同じことを繰り返すのは本当に楽である。

アダプター

夏から何度か書いたが会社のパソコンの調子が悪くWindowsディフェンダーだのテンプファイルだのWindowsアップデートだの試したらいい感じになったときもあったが今週は悪い。CPUが振り切れるのである。振り切れてしまったらマウスがかくかくしだして仕事にならない。むやみやたらに八つ当たりしたくなる。昔車のエンジンが調子悪いことがあって原因がしばらくわからなかったら中古車屋の叔父に
「車に下に見られてるんだ。もっと堂々としろ」
言われたことを思い出し胸を張ってエンターを叩いても特に改善はしなかった。このままではパソコン博士になってしまうなあと思いながら途中にテレビ会議があったので仕方なく予備のパソコンもセッティングして臨んだ。ちょっとしたデイトレーダーのようであった。早速予備のパソコンで入ったら私から向こうは見えるが向こうからは「真っ暗だ」と言われそれはそれで良かったがどうやらマイクもダメなようなので他の人がしゃべっている間にパソコンを入れ替えた。今度は私の顔が復活したもののしばらくすると「リソース不足」みたいなことが書かれた小窓が出現し上司の顔が崩れだした。これはアカンと思ってやっぱ予備のパソコンののっぺらぼうに戻ろうと電源を抜いたら憑き物が落ちるように急に快適に動き出した。原因はアダプターであった。


一番最初の職場で私はノートパソコンを支給されたがテンキーがなくて先輩が買ってきたのをつないだら全く動かなくなり先輩のほうがいつも使っているのをつないだら元気になって代わりに新しいのを先輩につないでも特に前と変わらないみたいなことがあって以来ハードの相性みたいなことを考えてきたので今回もケーブルとの相性かと思い予備のアダプターと取り替えたりしたが単なるアダプターの劣化っぽい。調べたらそういうこともあるそうだ。

これが日記だったら

私は子供のころから日記をつけるのが苦手でしかし文章をつづることはそれほど苦手ではなく「○○について」みたいな書き方で十代の後半からやっている。日記というのは素直にとるならその日の出来事を書くことであり私の場合できごとという出来事がないから書けないのだ。結婚して妻やその親家族は休みとなると出かけなければならない性分の人たちで義父は私たちと出かけるのは嫌がるがだからといって家でじっとしているわけではなく飲み屋に行ったりパチンコ屋に行ったりする。びっくりするくらい本を読まない人たちで出かけるのが好きというか家での過ごし方がわからない人たちにも見える。観光地のお土産を実家に届ける度に母は
「また出かけたのか」
と半ば呆れたような反応をする。家を出てから時が流れ私の母や父の出かけなさも普通じゃないと思うようになった。母は推理小説かパズルの雑誌を買って解いていて意地でも家から出たくない人のように思える。とは言うものの生涯学習みたいなのには積極的に参加していて電話しても家にいないことが多くこの前は隣町まで体操しに行ったと言った。体育館の名前を聞いたが知らないところだった。私がマクドナルドのポテトを買っていくと喜んだ。


私は今では真逆の生活であり結婚して様々なところ(すべては関東とその周囲)へ出かけたがだいたいどこも同じで退屈である。たまには「またここに行きたい」と思うところもあるが果たして何県のどこだったのか色んなところに行き過ぎて見当もつかない。私がいちばん楽しいのは車で移動する最中でそこなら冷暖房もよく効くし座ってられる。高速道路ならわき道に気を払わなくていいから楽だ。この前の休みに軽井沢に行ったが寒くてかなわなかった。妻がモカソフトを食べていて心底恐ろしい女だと思った。美味しそうなカレーパン屋があったが店を切り盛りする夫婦はどちらも愚鈍でパンはいつまでも揚がらないし中のカレーは寝ぼけたような味だった。そういえば十年以上前に行ったときにはお残しを決して許さない蕎麦屋があって味は案の定不味くて二度とくるもんかと思ったがもう潰れただろうか。とにかく軽井沢の飲食店は人を舐めきったようなところがよくある。

根拠なんてそれっぽければいい

Q.船上に26匹の羊と10匹のヤギがいます。この時、船長は何歳でしょう?→大多数の子供が『36歳』と答える - Togetterまとめ

これを読んで何年か前にとある偉い人が出した稟議書をみる機会があって要するに新しい○○を買いたいんですけどみたいなお伺いでまずはいくらいくらかかりますみたいな上編から始まりしかし一方でこれこれは削減できるあるいはできる見込みですみたいな中編があって下編ではお得だから買いましょうみたいなくだりなのだが中編のぶぶんがめちゃくちゃでもちろん数字そのものは正しいがどうしてそれがそこに結びつくのみたいなめちゃくちゃで下編の根拠に一ミリもなってなくて呆れたことを思い出した。同じだと思った。


リンクの例題に合わせるなら船長が36歳である根拠は魚が10匹いてタコが26匹いたからですというかんじか。だから今の子供がどうこうではなく大人も同じだと思った。とても馬鹿な大人なのかもしれないが彼は関東ブロックを取り仕切る立場で決済も部長も社長もしているからみんなバカなのだ。たぶんその稟議で6千万円くらい動いた。それでも根拠なんてそれっぽい数字を並べればOKなのである。

西野カナを見て希望がないとかんじる

西野カナがテレビに出ているのをたまたま見てこんな風に曲を作っていますみたいな話があって歌詞のリアリティを上げるためにたとえば友達に話を聞いたりとかあとはもっと大々的にアンケートをとったりしてますみたいな話をしていてそれが市場調査のようにかんじて完全に商売だというふうに思った。というか市場調査であり商売だろう。だがあんな風に開けっぴろげに言われてしまうと夢も希望もないような気がした。


よく「夢を売る仕事」みたいな表現がされるがそこに出てくる夢とはなんだろう。端的に言ってそれは「世の中お金ではないんだよ」みたいなことだと思う。お金ではないというのは死をおそれないことである。逆に言えば私たちは死なないためにお金を稼ぐのである。お金を稼ぐためには時間と能力を売る必要があり大多数の人は能力がないから時間を売ってそうやって息つく暇もなくなるのである。


西野カナを見ていると西野カナの背後には数多くの人たちが見えそれぞれの人生が見えその人たちが路頭に迷わないように西野カナが奮闘しているように見える。西野カナはアーティストではなく女社長のように見える。それはまったく何もおかしくないがそうなると「共感」という言葉のニュアンスが微妙に異なってくる。私はもう昔ほど「共感」という言葉を気にしなくはなったが考えてみると「共感」という言葉は純粋さを装っても実情はどうにでもあつかうことができ使う本人も気づかないうちに振り回されてしまう。


私はアーティストを自称する人は破天荒で刹那的であることを期待する。たとえその後に曲がばんばか売れてお金まみれになってしまってもどこかに少しでも死をおそれないところが残っていると信じていてそれが希望である。

集中

ここ数年で使わなくなった言葉というか発想に「今日はツイてる(ツイてない)」があったが今日は「集中」という言葉をもうしばらく使っていないことに気づいた。使っていないということはそういう場面がないということである。


まず「ツイてる(ツイてない)」についてはこれは自分が出来事に対してどう評価するか完全に主観の問題なのでいちいち真面目に考えなくなってしまった。死んでもラッキー、は原理的にはあり得る。気持ちが安定を欠くとネガティブになりがちだが悲観もどこかおかしみがある。落ち込んでいるからと言ってオナラが急にラベンダーの香りをするわけでもない。身体は白状なのである。


集中についてはそういえばボルダリングをやったときはしばらく壁に張りつくとそのうち胸や腕の筋肉が張ってへろへろになってしまい気持ちはまだやりたいかんじだが身体のほうが「冗談じゃない」とまともに取り合ってくれずこういうとき「集中が切れた」と思う。昔バンドをやっていたときもどこかから正確なテンポを刻むのがしんどくなってそれも集中が切れたかんじがした。しんどいと言うといかにもシリアスだがもっと不真面目なかんじである。今は仕事も裁量が増え元から高い集中力を求められるものでもなかったからつまみ食いみたいな毎日である。