意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

音楽室(1)

10月の体育祭では、競技の他に男子は組体操、女子は日本舞踊をやることになっている。全生徒で、だ。そのため夏休みが明けると、体育の時間はこれの練習になる。準備体操の後、教師の動きを見ながら、手を広げたりしゃがみこんだりする。いくらか出来るようになると、音楽に合わせて踊るようになる。本番では扇子をもって、ブルマの上にスカートを履く。さらに裸足にもならなければならない。足の裏にびっしりつくだろう砂利を想像すると、愛華は憂鬱な気持ちになった。早く過ぎ去って欲しい。教室にいる時は暑くも寒くもなかったのに、校庭に出ると日差しが強すぎて、伸ばした腕の表面が、じりじり言っている。頬や鼻の頭にも熱を感じるから、家に帰る頃は、顔も赤くなってしまうだろう。のらりくらりとした動作は、こういうジャンルなのだから仕方ないが、これでは日射病の患者みたいだ。手を頭上に掲げた時に、さり気なくおでこを拭ってみるが、思った程汗はかいていない。4時間目はあと何分くらい残っているのだろう。

校舎にかけられた時計に目をやると、視界に男子たちが折り重なって作るピラミッドが入った。全部で4段。付随動作で芳賀くんを探すと、下から2段目、一番左にいた。こちらにお尻を向ける格好だから、100パーセント確実ではないが、間違いないだろう。芳賀くんは背は高いけど細いから、きっと下から2番目なのだ。念のため周りに立つ男子たちの顔を確認し、その中に芳賀くんがいないのを確認した。どれも違う。ピラミッドに参加していない生徒は、周りを取り囲んで突っ立っている。背の低いもじゃもじゃ頭の先生だけが、あちこち動き回りながら、大声を出している。一体何を言っているのか。と思っていたら、突然山がぺっしゃんこになった。土埃が舞って何人かの生徒が大きな声を上げる。愛華も踊りそっちのけで見ていると、1番最初に立ち上がったのが芳賀くんだった。芳賀くんは大きな笑い声を上げながら、他の生徒を助け起こしている。体操着が土まみれになっている。

他に今の光景を見た女子はいなかったのだろうか。踊りはそのまま続いている。不意に風が吹いて、さっきの土埃が顔に当たった気がして、愛華は思わず目を細めた。



「ああ、それはね、わざとぺっちゃんこにすんの。多分崩れたんじゃないと思うよ」

放課後いつものようにタヤマ先生の元を訪れて、昼間の話をすると、なんでもなさそうにそう言った。

「なんで?怪我とかしないの?」

「知らない」

と素っ気なく答えて、タヤマ先生は楽譜をセットする。グランドピアノには黒い布がかけられ、その皺のより具合が砂漠を連想させる。

「去年東中が体育祭でそういうのやったんだって。一気に崩せば次の演目にすぐ移れるんだとか言ってた。いちいちピーピー笛吹いて降りていくんじゃ、小学生と変わらないんじゃないか、とか」

タヤマ先生は股の間に手を突っ込んで椅子の位置を合わせ、ひと息ついて、鍵盤を叩き始める。何の曲か認識しようとすると、いくらも弾かないうちにストップする。指がうまくかみ合わないのか、和音が3回くらい鳴っては止まる、を繰り返す。

「これ、今度3年生でやる曲」

愛華の疑問に答えるようにつぶやく。視線は前に固定されたまま、楽譜に顔を近づけて、音符を網膜に焼き付けているようだ。朱色のフレーム眼鏡の奥にある目が大きく開き、太いまつ毛が上を向いている。真剣なのだろうが、目尻が下がっているのと、頬がふっくらしているせいで、気だるそうに見える。背後のカーテンの隙間から西日が入ってきて、光があたった部分だけ、髪の毛が茶色く際立っていた。いや、この人は元から茶色い髪をしている。染めているのだ。

しばらく同じ部分をリピートして、ようやく4小節ほど弾けるようになってきたところで猛スピードで弾いて、それから手の動きが止まった。「おしまい」と膝を叩き、鍵盤の蓋を閉めてしまった。「あとは明日早く来てやろう」

一瞬自分がここにいるせいで、集中できないんじゃないかと愛華は緊張した。タヤマ先生の表情から心理状態を読み取ろうとする。もし本当に集中できないなら、今すぐこの場を立ち去るのが賢明だろう。しかし、この音楽室でこうして過ごすのは、何も今日が初めてではない。タヤマ先生は、気分が乗っていれば愛華そっちのけで何十分も弾き続けるし、1人で練習したければそのことをはっきりと言う。愛華も終わるまで聞いている時もあれば、飽きて帰ってしまうこともある。お互いに気兼ねしない仲なのに、それでも相手に迷惑をかけているんじゃないかと心配するのが愛華の性格だ。



「それで、愛華ちゃんは崩れたピラミッドの中に芳賀くんがいて、気が気じゃなかったってわけね」

愛華の強張った表情にまるで注意を払うことなく、タヤマ先生はからかってくる。

「そんなわけない」

「あるね」

そう言って先生は、グランドピアノに載せた愛華の左手を、鍵盤みたいに叩く。叩くと言うよりボディタッチに近い。先生の指はやわらかい。

「体育は藤部先生だっけ?愛華が真面目にダンスやってないって告げ口しとくから」

「やめてよ。私ただでさえよく注意されるんだから」

今日もピラミッド崩壊の後、角度が悪いと腕を引っ張られた。乱暴な動作で、愛華は体育教師全般が苦手だ。タヤマ先生は上目遣いで、にやにやこちらを見てくる。心の内を覗かれている気分になる。

「嘘だよ。あたし藤部先生となんて一度も喋ったことないし」



それから体育祭のダンスの悪口で盛り上がった。タヤマ先生はあんなのセンスゼロだし、見てる方もちっとも楽しくない、と散々こき下ろした。先生は日本舞踊とは呼ばずにダンスとしか言わない。正式な名称を知らないのかもしれない。校長頭おかしいでしょ、とまで言うので、愛華は無意識のうちに日本舞踊擁護派に回り

「でも教育の一環なんだから、楽しくなきゃいけないわけじゃないでしょ?」

なんて言ってみる。

「教育?」

タヤマ先生は苦いものを口に入れたような顔をする。教育者のくせに教育という言葉を知らないのだろうか。愛華は済まし顔で「そう、教育」と返す。

愛華さんは真面目なんですね」

「別に真面目とかじゃないよ」

愛華は反論するが、口がもごもごしてしまって、それ以上会話は続かない。先生が不真面目すぎるんだよ、とでも言えばもっと盛り上がっただろうか。だけどそこまで言う勇気はない。

それから先生が荷物をまとめ始めたので何かと思ったら、今日はこれから学年会議、とのことだった。会議なんて退屈で意味ないのに、いきがってしゃべりまくる奴がいてうざい。理科の長尾とか。散々文句を垂れながら、タヤマ先生は音楽室の鍵をかけ「ばいばい」と言って去っていった。音楽室の前で別れる時、タヤマ先生は「さようなら」とは言わない。

十字路(21)

店を出ると人通りはあまりなく、少し歩くと前にいるのは、しわくちゃのワイシャツの中年サラリーマンだけになった。車を停めたのは不動産屋の先の信用金庫の駐車場で、駅から離れているそこは、夜でも施錠されることはなかった。私は不動産屋に貼られた物件情報を順番にけちをつけ、お買い得土地情報の1番端まで終わると、彼女に口づけをした。何の前触れもなかったので、うまく唇が重ならなかったが、ひたすら体を押し付けて彼女が逃げられないようにした。化粧の匂いがする。すぐに顔を逸らされると思っていたら、彼女は力を抜いて、気の済むまでそのままにさせた。予想よりも長い時間、唇をつけていた。
彼女とセックスがしたいと激しく思っていたが、今日に限っては、必要以上に求めないようにと前持って心に決めていた。彼女の性欲について考えを巡らすよりは、すっきりした気持ちでベッドに入り込みたかった。私は改めて、彼女との距離を縮めたかったのだ。

だから、駐車場を出て少し車を走らせたところで彼女に「少し遠回りしない?」と提案された時も、その言葉に含まれるだろう彼女の意図その他については、とりあえず保留にして、少しでも彼女といられる事実を、無邪気に喜んだ。
遠回り以上の指示はないので国道n号線へ出て、南方面へ車を走らせる。かつて彼女とお台場へ行った時に走った道だ。あの時は火星にでも来た気分だったが、今となると、どう見ても寂れた日本の風景にしか見えなかった。一瞬、その火星エピソードを彼女に披露しようと思ったが、笑える話でもなかったのでやめた。このままぐんぐん進み、彼女の了解を得ることなく、夜の海まで行くことも考えたが、後悔することは目に見えていた。私は速度検知器のゲートをくぐった次の信号で左へ折れ、役所方面へ走らせた。片道一車線の道路へ入ると、一気に暗くなる。確か道の左側に運動公園があるはずだったが、入り口の場所すらはっきりしない。ずっと先に見えるコンビニの明かりが、灯台のように見えた。
彼女は私のコース選択について、特に何も言わなかった。というか、車に乗ってからほとんど喋っていない。ハンドルを握ってから、私は彼女をホテルへ連れ込むべきかについてと、検問にぶつからないためにはどのルートを取ればいいのかに頭を取られ、あまり彼女の状態について注意を払っていなかった。世間話くらいはしたかもしれないが、あまり覚えていない。ひょっとしたら、眠くて帰りたくなってるかもしれない。あるいは車酔いの可能性もある。私は「帰る?」と「酔った?」をテンポ良く繰り出したが、いずれも首を横に振られただけだった。最低限の言葉と動きで済ませてしまおうという、狙いが感じられ、というか狙いとは何だろう。完全に酔いが覚めました、というアピールか。逆に酔っ払って、無口になってるのかもしれない。
私は試しに助手席側の窓を数センチ開けてみたが、入ってくる風に対して、良いとも悪いとも言わなかった。風が私の前髪も揺らしたので、気づいていないとは思えない。私は冷房を切り、運転手側の窓も開けた。虫の鳴き声とタイヤの音が、冷たい風と共にはいりこんでくる。

特に脈略もなく走っていたが、いつのまにかn号線に通じる道へ出てきてしまう。時計を見ると、1時間以上走っていることになる。そろそろ潮時だ。そう思うと眠くなってくる。n号線の信号まで来ると、私は自宅の方角へハンドルを切った。再び片側2車線へ来ると、他に走っている車はいなかった。道路は緩やかに右へカーブし、田んぼばかりで遠くまで見渡せるが、ほとんど闇に塗りつぶされてしまっている。なんとなくアクセルを踏み込み、無意味にエンジンをふかす。回転数の上がったエンジン音が、耳に届く。
ようやく24時間営業のファミレスの明かりが見え、風景が街らしくなってきたところで、彼女は「もう少し。帰らないで」と訴えてきた。私はあくびをしたのを悟られないようにしながら、行きたいところでもあるのかと尋ねるが「別に」という返事しかない。声に表情はない。私は何かを察しなければいけないのだろうか。何度か彼女の顔を盗み見るが、道路灯の光くらいでは、表情は読み取れない。彼女は自分の腕を抱えるように座り、あごを引いて、じっと前を見ている。たまに下唇を人差し指でなぞる。黒いブラウスはゆったり目のシルエットで、余った布が胸の辺りに寄せ集められ、シートベルトを谷間にして、複雑なシワを作っている。どうして黒い布に色の濃淡がつくのか、不思議に思う。

私は鈍感な男でいようと心に決め、彼女の気が済むまで、ひたすらn号線を行ったり来たりした。いちいち右折したり左折したりするのも面倒なので、手頃な交差点でUターンをした。他に車もいないので、右折車線とか、そんなものにはこだわる必要はなかった。悪ふざけで、二車線の真ん中を走ったり、ついでに信号も無視ししてみた。
いい加減彼女も根を上げないので、川向こうまで行動を範囲を伸ばそうと考えたところで、突然「止めて」と声を出した。久しぶりに聞いた彼女の肉声は、なんの前触れもなく発せられ、聞き間違いを許さないような雰囲気だった。少し先の交差点を、左に折れて停車し、サイドブレーキをかける。彼女はすぐにシートベルトを外したが、しばらくそのまま動かなかった。体調でも悪くなったのかと聞いても、返事はない。気まずくなった私はエンジンを止め、座席を少し倒した。周囲が虫の音だけになると、ここまでの運転の疲労感が肩や腰に出てくる。
やがて彼女は意を決したように「ちょっと待ってて」とだけ言って外へ出た。さっきとは違う曖昧な声で、"待ってて"の部分はほとんど聞きとれなかった。やはり車に酔ったんだと思い、ダッシュボードからビニール袋を取り出し、後を追う。だが、彼女はドアに手をかけたまま、交差点の真ん中を見つめていた。私は彼女の目線の先と、表情を交互に見る。
他と比べれば小さな十字路だった。n号線と交差している道路は細く、数メートル先は闇に消えてしまっている。通ったことのない道で、どこへ通じるのかはわからない。歩道は白いラインで区分けされてるだけで、しかも道端からは雑草がはみ出し、歩行者がまともに歩けないのは明らかだ。アスファルト全体がひび割れ、へこみ、もう何年も補修されてないようだった。私は子供の頃に見たn号線のことを思い出した。

不意にドアを閉める音がして、見ると彼女は道路へ向かって歩いている。声をかけようとしたが、迷いのない足取りを見て、タイミングを失ってしまった。
交差点の中央には、それを示す十字の表示が描かれていて、彼女はその上で立ち止まった。十字は綺麗な90度ではなく、少し角度がずれている。暗闇の中、そこだけは明るく、スポットライトでも浴びているかのようだった。光の加減でこちらに向けた彼女の背中は黒く、シルエットからはみ出た髪の毛は、金色に輝いている。彼女は見えない客席に向かって、何かの演技をしているように見える。
劇場の裏方のような気分になって彼女を見守っていると、今度はひざまずいて四つん這いの格好になった。白いスカートがこちらに向けて突き出され、ふくらはぎの地肌が露わになる。と思った瞬間、彼女の体中の力が抜け、その場に倒れこんだ。うつ伏せの状態で、顔を右に向けている。黒くて長い髪が、彼女の顔を半分くらい覆っている。ちょうど十字の表示に沿うように、彼女は横たわっていた。地面には小石が散らばり、その中には車のヘッドライトのかけらも混ざっているのか、彼女の周りでは細かい光が放たれている。無意識のうちに、私は自分の左頬をさすった。
私は自分の取るべき行動について考えていた。例えば彼女が突然狂ってしまったということは、十分考えられる。だとしたら、今すぐ駆け寄って抱き起こし、どこまで正気を保っているのかを確かめ、夜間でも開いている病院を探さねばならない。だが、ここまでの彼女の様子を振り返ってみると、どこか確信に満ちた行為であるような気がした。今、彼女が十字路の真ん中で横たわる行為は、何かしらの儀式なのだ。そう思うと、安堵と共に、どこか侮蔑的な気持ちを覚える。
どちらにせよ、私の目の届く範囲にいる限り、急いで何か行動を起こす必要はない。気をつけるのは、他の車が来た場合だが、この見通しの良い道路なら、手遅れになることはないだろう。

考えがひと段落すると、煙草が吸いたくなってきた。生まれてからまともに吸ったこともないくせに、肺を煙で満たしたくなった。あるいは狂った女を煙草でもふかしながら、優雅に眺めたいのかもしれない。
車の中を見ると、助手席に彼女のバッグがあった。運転席側から手を伸ばして持っきて、ためらうことなく止め具を外す。革製の表面は熱くも冷たくもなかったが、中に手を突っ込むと冷んやりとした。
暗くてよく見えないから、手探りで目的のものをつかみとろうとする。居酒屋で彼女は、煙草を吸っていただろうか。間違いなく吸っていた。銘柄はわからないが、細長い箱に入っていた。ライターと共にポーチに入れていたような気もするが、そこまではわからない。どちらにしてもそう手間はかからずに見つかるはずだ。
財布や化粧ポーチやキーホルダーの感触に紛れて、硬いものが指先に当たった。間違いない。強引に引っ張り出すと、長細い箱が手の中にあった。だが、何か様子がおかしい。見慣れないデザインだし、煙草の箱よりも一回り大きい。目の前に持ってきて確認してみると、それは妊娠検査薬だった。妊娠検査薬は上半分のビニールが剥がされ、上蓋は外側にめくれていた。開けてみると、中にはスティック状の袋が何本か入っている。元々何本あったのかはわからない。私はそれをバッグの底の方へ押し込み、止め具を戻した。が、再び開けて箱を取り出し、用法等の書かれた細かい字を目で追った。さっき無理に押し込んだせいなのか、箱の側面が少しつぶれている。ひと通りのやり方を把握すると元に戻し、バッグを助手席に向かって投げつけた。
その間も彼女は横たわったままだった。

‥‥

光が迫ってきた時、それが何を意味しているのかについて、なかなか気づかなかった。すべての風景が黄色がかり、まるで強い風でも吹いたみたいに、周りの草木が後ろへのけぞっているように見えた。私は映画の主人公になったような気持ちになっていた。
彼女を見る。相変わらず横たわったままで、久しぶりに色彩を帯びた彼女の服や髪が、無性に懐かしく見えた。だが、ようやく状況を飲み込んだ私は、精一杯の力で地面を蹴り、彼女の元へ近づく。

圧倒的な光に照らされた彼女の顔には、一切の影がなかった。



<了>

十字路(20)

これは国道n号線についての散文である。

意を決して彼女をメールで誘ってみると、特にためらう様子もなくOKの返事がきた。すでに9月も半ばになっている。あの一件以来、電話をしても大した盛り上がりもなく終わってしまう。それなりに楽しく話したつもりでも、電話を切ると疲労感だけが残り、無意識のうちに彼女を気遣っていることを実感させられる。海へ旅行する計画も、いつのまにかなくなった。なんのアクセントもなく8月が過ぎ、暑かったのかそうでもなかったのかもよくわからなくなっていた。
最終週の月曜日に、塾からの給料が振り込まれ、ようやくひと息つけたような気持ちになれた。こちらから特に連絡もしなかったが、二度と関わることはないだろう。塾の人間には、通夜の日以来会っていない。

選んだ店は、私が彼女に気持ちを伝えた居酒屋だった。ちゃんと付き合うようになってからは、一度も来ていない。それでも店はちゃんと潰れずに残っていたし、内装も店員も何も変わっていなかった。なぜかそれが奇妙なことに思えて、無理して変化を探してみた。メニューが一部と、トイレの貼り紙が変わったような気がする。
彼女と会うのは、ほぼ2ヶ月振りだったが、久し振りと挨拶するのが嫌で、つい3日前に会ったばかりのように振舞った。彼女も私のそんな気持ちを察したのか、第一声で「お腹すいた」と言って、あとは他愛のないことを話した。彼女は夏休みも大学へ通っていたらしい。
知らないうちに、彼女は髪を黒くしていた。この前までは、ほとんど金に近い茶色だったので、会った瞬間は別人のように見えた。長さも肩にかかるロングで、毛先もみんなまっすぐ下を向いている。その上、黒いブラウスなんか着ているから、いよいよ大人しくて清楚な女に見えてしまう。首元は大きく開かれ、白い鎖骨が強調されている。私は思わず「似合わねーよ」とからかいたくなったが、それを言ったら、やはり久しぶりの再会というシチュエーションとなると思い、口をつぐんだ。
健全な恋人同士なら、ここまで変わった髪型に触れないのは死活問題になるだろう。私は彼女の新しい髪型に対する正直な気持ちを伝え、彼女を喜ばせたかった。そして、信号待ちの時なんかに、さらさらした毛先に触れてみたかった。
でも、やはり言えない。黒く染めるに至った理由とか背景とか、話題がそこに行くに決まっているからだ。もちろん彼女は大きな決意を持って、髪型を変えたのではないことはわかっている。だが、私は彼女の黒い髪を見た瞬間、やはり喪に服すという言葉を連想した。そしてそれは、おそらく彼女にも伝わっている。
葛藤は駐車場に車をおさめるまで続き、白線内にまっすぐ停めるのに、何度も切り返す羽目となった。私は車を降りるとすぐに助手席の方へ行き、彼女の右手を握った。すぐに握り返され、私は髪型に触れない罪から逃れられたような気になった。

酒を飲んでいる間はずっと、先週起きた同時多発テロの話をした。アメリカでテロが起きた時、私はベッドで本を読んでいて、ニュースが大騒ぎしていることに、全く気づかなかった。彼女の方は風呂上がりで、髪を乾かしながら22時のニュースを眺めていたところに速報が入り、その後二機目がビルに突っ込む瞬間を生で見た。ちょうど一機目が衝突した状況を、キャスターが興奮気味に説明している時だった。背後のモニターには、灰色の煙を吐き出すタワーの姿を映し出されていたが、音声はなかった。事故なのか事件なのかもはっきりしない中、別の旅客機が画面の右側から現れ、滑り込むようにビルの横腹をえぐった。飛行機は手品のように影も形もなくなり、一瞬ただそれだけのことかと思ったが、やがてタワーは、二本とも崩壊した。
彼女はすぐに私に電話をかけてテレビをつけさせ「映画みたいだ」と言った。私がテレビをつけると、瓦礫と大量の埃が映し出されているだけだった。彼女の語彙が少ないのか、気が動転しているのか"映画みたい"という言葉は何度も繰り返された。確かにその後、連日流れた二機目突入のシーンは、あまりに鮮明に映り過ぎていて、合成映像のように見えた。だが、それは彼女の言葉のせいのような気がした。私のオリジナルのショックは、すっかり上書きされてしまい、本当は別の感情を抱いていたような錯覚を覚える。
大統領は演説の中で、犯人グループに対する報復を宣言した。日本のテレビ局は、軍事評論家を連れて来て、アメリカの所持する空母とか機関銃とか、そういうことを事細かに説明させた。戦争が始まるらしかった。

私は、やはり自分たちの近況その他の話に及ぶのが嫌だったので、この世界的大事件の話ができるだけ続くように、イスラム教徒が迫害を受けている事を嘆いたり、彼女のホームステイの期間中じゃなくて良かったと喜んだりと、積極的に話題を提供した。聞き手に回った彼女は、ファジーネーブルを立て続けに3杯飲んだ。頬に赤みがさし、アイスを食べたいと言い出した頃には、私の手元のビールが、すっかりぬるくなっていた。
メニュー表を新聞ように掲げ、なかなかデザートを決められない彼女の様子を見ながら、私たちの関係は、様々な犠牲の上に成り立っているような気がした。

十字路(19)

それから4日後の授業の時、ミキちゃんに髪留めを渡した。こちらから何かをいう前に「行ったんだ、デート?」とはしゃぎ声を上げた。私は家族旅行と嘘をつこうと思っていたが、ばればれだし現にこうして見破られてしまったので、素直に認めることにした。「どこに行ったの?」から始まり食事や買い物や天気に至るまでこと細かく訊かれたが、私はできるだけ素っ気なく答えた。予想通りミキちゃんは羨ましがって「私も連れてってもらいたい」と言った。そんな時にどうやって答えればいいのか、予想していたくせに、うまく返すことができない。そのうちいい人できるよ、なんて古臭くて無責任すぎるし、面倒なのでいっそ「じゃあ連れてってやるよ、来週」とか言いたくなるが、そんなの問題だらけだし、それで何が解決するわけでもない。よって現実味ゼロだ。
でもまあなにしろ遠いよ海は。そういう空白を埋めるためだけの言葉を吐いて、そろそろ授業再開と思ったところで、ミキちゃんが急に改まって「遠いよね。海」とつぶやいた。机に肘をついて、前髪をいじっている。何か言いたいことでもあるのかと思って、黙って次の言葉を待っていると「うちの妹、見たことないんだよね、海」と大人びた顔をして続けた。
「家族旅行とか行かないの?」とか聞こうと思ったが、それはしてもいい質問なのか迷ったのでやめておいた。ていうか、一般の自閉症の子どもは、旅行へも連れてってもらえないのだろうか。私が何も言わないので、ミキちゃんは一瞬口許を緩めた。
「いつもそうなんだ。去年の旅行の時も、キョウちゃんだけ、おばあちゃんに預けて。キョウちゃんは病気だから、なんて言うけどそんなの嘘だ。本当は他の人にキョウちゃん見られるのが恥ずかしいんだ。うちのお父さんとお母さん、本当最低なんだ」
最低、の部分に力をこめてミキちゃんは言い切った。そして椅子の背もたれに寄りかかり、顎を引いてじっとしていたが、そのうちにバッグからもこもことしたハンカチを取り出し、それを目に当てた。嗚咽は全く聞こえない。ただ、傷口をふさぐみたいに、目頭を押さえているだけだ。
どんな言葉をかけていいのか、それとも何も言わないでおくべきなのか、こんな場面を兼山や他の講師や笠奈に見られたら厄介だなという下衆な考えが頭の中で渦巻き、仕方なくミキちゃんのいつもの黄色いシャーペンを眺めていた。シャーペンは角ばったデザインで、持ち手の部分は少し黒ずんでいる。クリップの銀色も薄汚れて見えるが、これは元々のデザインなのかもしれない。ミキちゃんはいつもこのシャーペンを使っていて、この物語でも幾度となく登場した。ひょっとしたら、このシャーペンこそがミキちゃんそのもので、もしかしたら何かしらのメッセージを含んでいるのかもしれない。

やがてミキちゃんは、小さな声で謝った。涙声ではなかった。ハンカチをどけると、目は赤いが、泣いていたようには見えない。私は参考書を閉じて、ミキちゃんと同じように椅子にもたれかかり、目を閉じた。
「いつかさ、ミキちゃんが連れてってあげるといいよ。海でもどこでも。きっと喜ぶと思うよ」
「そうだね。わたしもそう思うよ。そうしてあげたら素敵だと思う。でも、わたしはあの人たちの子どもだから。いつか同じような人間になってしまう気がするんだ。それがいやだ。怖い」
そんなことないから、と即答しながら、どうしてこんな風にマイナス方向に考えるのか、私には理解できなかった。思春期だからなのか。ミキちゃんは再びハンカチで目頭を押さえて、全く声を上げずに泣いている。ひょっとしたら、家でもこんな風に泣いているのかもしれない。何か良くないことが、立て続けにこの子に起きているんじゃないだろうか。
結局その後はまともな授業にならなかった。ミキちゃんは「すっきりした」と言って、元通りになったことをアピールしたが、xの代入を何度も間違えた。私はそれに容赦なくバツをつけ類似問題を宿題に追加し、極力いつものように振舞った。
別れ際、途中まで一緒に歩くことを提案したが、見たいテレビがあると断られてしまった。私はさっきの事について、改めて何かアドバイス的文句を考えたが、何を言っても的外れな気がして「じゃあ、来週ね」といつもと変わらない挨拶をした。
ミキちゃんはカゴに荷物を放りながら、返事をし、自転車にまたがった。
雨は降っていなかったが、歩道には所々に水たまりがあり、ミキちゃんはそれをうまく避けながら進み、やがて闇に消えた。来週には梅雨が明けると、天気予報が言っていた。

ミキちゃんが死んだのは夏休みに入ってすぐで、夏期講習のカリキュラムが組まれた直後だった。講習は理科と社会がなかったので、私は担当を外され、笠奈が3教科を見ることになった。笠奈が前期試験に追われていたため、引き継ぎは電話で簡単に済ませた。結局お台場以来、まともに会ってもいなかったので、講習が終わったら海へ行こうと約束をした。笠奈が新しい水着が欲しがったので、選んであげると言うと「君はセンスゼロだから遠慮しとく」と笑われた。
ミキちゃんとの最後の授業は、そんな浮き足立った気持ちを悟られないよう、極力感情を抑えて行った。その2日後に笠奈の授業があって、その週の土曜日の早朝に、ミキちゃんは自室で首を吊った。特に遺書などはなかった。その事を兼山から電話で聞いた時、すぐに自閉症の妹の事を思い出し、それから授業中に声を出さずに泣いた場面を思い出した。妹のことが、少なくとも原因のひとつであるのは間違いないだろう。自分でもわかるくらい血の気が引いてるくせに、冷静に原因を探ろうとするのが奇妙だった。そして「受験のストレスなんだろうな」とわざとらしく暗い声を出す兼山を心の中で嘲笑った。所詮お前程度の人間は、そのくらいにしか考えられないのだろう。私は優越感すら覚えていた。だが、もし私の方が彼女の本心を知っていたのだとしたら、手を差し伸べるべき人間は私で、結局のところ自分がそれを怠ったから彼女は死んだのだ、とまるで私がミキちゃんを殺したような気がしてきた。兼山の電話を切った後、私は胃の中のものを全て吐き出した。
通夜は葬儀場の都合と、友引を挟む関係で3日後に行われるとの事だった。塾からは、兼山と笠奈と私が参列する。気分が落ち着いてから笠奈に電話をして、とりあえず当日は4時半に迎えに行くと言った。笠奈は思ったよりも冷静で、実感がない、とコメントした。
笠奈はミキちゃんの妹の件は知っていたのだろうか。付き合い出してからミキちゃんの話はしなくなったので、かつてそんな話をしたことがあったのか思い出せない。本当は「俺が殺したのかもしれない」と弱音を吐きたかったが「受験ノイローゼだったのかな」と適当な事を言って誤魔化した。笠奈は「ていうか、意味わかんないんだけど」と私を責めるような口調で言った。私に問いかけているのではないのはわかっていたが、私はなんとか笠奈の納得する意味を作り出そうとしたが、無駄な行為だった。

駐車場係の誘導に従って車を停め、そこから斎場まで5分くらい歩いたが、着く頃にはかなりの汗をかいていた。入り口の脇に喫煙コーナーがあり、そこで兼山を見つけた。上着とセカンドバックを左に抱え、黒いネクタイで首を締め上げられながら、一生懸命煙草を吸っていた。遠目でも汗だくになっているのがわかる。私は「中で待ってます」と声をかけようと、一歩踏み出したが、隣で笠奈が「私も吸いたい」と兼山の方へ行ってしまった。私はその場で待つ以外にできなくなり、仕方なく上着を脱いだ。なんとなく脱ぎたくなかったが、汗の量が尋常ではなかったので諦めた。
建物に入るとかなりの人数がいて、そのせいか冷房が思ったよりも効いていなかった。私たちは終始隅の方で固まり、周りの様子を眺めていた。やはり同級生の姿が目立つ。泣き崩れている女の子のそばには、親が寄り添っている。
天井にくくりつけられたスピーカーからお経が流れ始めると、係員の誘導で参列者は2列に並んでいった。焼香するために、長い廊下を少しずつ進んでいく。列の進み方は左右で全く異なり、私はいつのまにか笠奈や兼山とはぐれ、1人で歩いていた。廊下の片側はガラス張りの窓となっていて、庭木がいくつか植えられている。さらにその向こうにの向こうにロータリーがあって、カーブにそって幾つもの花環が並んでいた。私はふと、祖父が死んだ時のことを思い出していた。死んだ年齢が違いすぎるせいなのか、祖父の時はこんなに大勢の人などいなくて、全体的にもっとこじんまりしていた。やはり真夏の夜中に息を引き取り、死体が腐ると、大急ぎで葬儀の日程が決められた。私がまだ小学生の頃の話だ。ミキちゃんはもう3日経っている。もちろんあの頃とは違うからきちんとドライアイスなんかで徹底的に冷やされ、傷みは最小限に抑えられているのだろう。それでも誰にも気付かれない細かい部分で、ミキちゃんの体は朽ち、そこから腐臭を放っているのだろう。私は、なるべく現実的で実際的なことを考えて、思い出とかそんなところに思考が及ばないように注意している。
列がどんどん枝分かれして、8列になったところでようやく焼香の番がきた。対面式にずらりとミキちゃんの両親や祖父母が並んでいる。兄とおぼしき人物は確認できたが、妹の姿は見えなかった。私はその向こうの、親戚たちの固まりの中に妹の姿を探したが、見つけることはできなかった。自閉症はお別れにも参加させてもらえないのかと勝手なことを思ったが、後ろが押し迫ってる中、ほとんど焼香する一瞬のタイミングで奥の人物を見分けるのなんて、不可能に決まっていた。
出口で笠奈と兼山に合流して外に出ると、2人は真っ先に灰皿の元へ行き、煙草に火をつけた。私はそれがとても不謹慎に思えた。とは言っても怒って先に帰るわけにもいかず、仕方なく立ち尽くして蝉の鳴き声をに耳を澄ます私は、下手をしたら暑さに頭をやられたおかしい人のようだった。とにかくすぐにでも帰りたい。兼山から離れたい。ミキちゃんがいないのなら、私の生徒は0で、もう塾とは何の関わりもなくなる。もう2度と塾講師なんてやりたくない。笠奈は兼山と何かを喋っているが、声はここまで届かない。喫煙コーナーは植木で囲まれていて、葉が風にそよぐ様子を見ていると、こちらよりも涼しそうな錯覚すら覚える。兼山が煙草を挟んだ右手をどこかに指し示し、何かを説明している。笠奈は背中をこちらに向け、表情が見えない。煙草なら私の車で吸えばいいのに。笠奈は遠慮して車の中で吸ったことはない。遠慮の方向が間違っている。つくづく馬鹿な女だと思う。
ようやく笠奈と兼山の一服が終わり、兼山に適当に挨拶して帰ろうとすると、笠奈が「ちょっと兼山さんとご飯食べて帰るから、悪いけど1人で帰ってくれる?」と言われた。私が兼山の顔を真正面から見ると「今後の授業のこともあるし、今回のことも、ちょっと整理したいんだよ。他の生徒の影響もあるし」と言い訳がましく並べた。それなら私も同席すべきだと提案しようと思ったが、どうせなんだかんだ理由をつけられて拒否されるのはわかっていた。私は、ただ兼山のことを睨みつけた。顔のパーツを1つずつゆっくりと眺める。不自然なくらいそのままの態勢でいたので、兼山は途中で気まずそうに何度も目を逸らしたが、私は構わず見続けた。これで兼山は確実に私と笠奈の関係を悟っただろう。笠奈はずっと下を向いていた。
家に帰ってからすぐに服を着替え、そのまま笠奈からの連絡を待っていたが、結局その日に電話が鳴ることはなかった。

結局連絡してきたのは、翌日の夜遅くになってからだった。まず一番に謝られた。それだけでも嫌だったのに、笠奈は電話口でも十分わかるくらいに、激しく泣いていた。私は別れ話を切り出されることを覚悟したが、ただひたすら謝るだけで、話は全く進まない。今から会えないかと聞くと「できるだけ早くきて」と途切れ途切れに答え、電話は切れた。
いつもの弁当屋の駐車場につくと、笠奈は道の向こうから走ってきて、私の車に飛び込んできた。白いTシャツに黒のジャージを履き、足元もサンダルという格好だった。ドアを勢いよく閉めると「顔見ないで」とだけ言ってすぐに私の胸に顔を埋めた。
気が済むまで泣かせてやろうと思い、笠奈の頭を撫でたり背中をさすったり、弁当屋の看板やTシャツから透ける笠奈のブラジャーのホックを眺めたりした。
やがて笠奈が何かをぶつぶつとつぶやきだし、耳を済ませながら何を言ったのか聞くと「やっぱり君と付き合うんじゃなかった」と私のシャツにしがみつきながら言った。
「なんで?」
「だって、ミキちゃんは君のことが好きだったんだよ。私が取っちゃったから、ミキちゃんは自殺しちゃったんだ。全部、私が悪い」
「そんなわけないだろ」
「ある」
ある、ないの問答を5回くらい繰り返して私たちは黙った。私は一瞬、笠奈の背中に置いた右手の爪を思い切り立てて、Tシャツごと引き裂いてやろうかと思った。かけっぱなしのエンジンのエアコンは出てくる風が何か不快な匂いを放っている。背中にかいた汗が、そのままシートに吸い込まれていくような錯覚を覚えた。
私はささやかな抗議の意を込めて、笠奈の体をきつく抱きしめた。笠奈は息をふっと漏らし、それから「こんな女で、ごめん」と謝った。

十字路(18)

最初から薄々わかっていたが、笠奈は熱心にメールや電話をする女ではなかった。兼山に気づかれないようにと、塾でも声を交わすことはない。だが、これまではミキちゃんのことなどを普通に会話していたのに、これではかえって訳ありっぽくて怪しくないだろうか。そう思い声をかけてみると、きつく睨まれてしまった。
というわけで、私と笠奈は付き合う前よりも疎遠になり、私はかつての気軽に声をかけあって居酒屋へ行っていた頃が、懐かしくてたまらなくなっている。飲みに誘うのなんて、別に難しい事ではないし、一応正式には付き合ってる関係なんだから、そのハードルは本来ならもっと下がるのが当然だ。なのにどういうわけか、笠奈の都合とか感情とか、そういうことを考えてしまって二の足を踏んでしまう。距離が縮まると相手のことが見え過ぎて、かえって気を遣い過ぎてしまうのかもしれない。笠奈は教職を取っていて、毎日レポートや宿題に追われている。電話で話すと、今週締め切りの提出物が3つあるなんて言ってる時もある。私が大学へ行ってた頃とはまるで違う。私の頃はもっとのんびりしていて、1日に必ずどこかの授業料はサボったし、1年で登録した単位の7割も取れれば上出来だった。
「疲れた」と受話器越しにため息をつく笠奈に、適当な冗談を言ったり、まああんまり無理しないでマイペースに行こうぜ的な、何の助けにもならないアドバイスをかけたりする。笠奈はその度に笑ったり、礼を言うが、私にはそれが本心から発せられてる言葉に感じられなかった。
ようやく2人で出掛けようという話になったのは、付き合い始めて1ヶ月が経った頃だった。いつのまにか梅雨に入り、デート日和には程遠い天気の日が続いていた。それでも笠奈からどこに行く?と聞かれると「お台場がいい」と即答した。笠奈の反応は微妙だったが、「観覧車乗ったら楽しいかもね」と徐々にテンションが上がってきた。笠奈は以前夜中にドライブした時に、昼のお台場に行こうと言ったことなんかとっくに忘れているのだ。もちろんそのことを指摘すればすぐに思い出すのはわかっていたが、私は特に触れなかった。

昼の首都高は混んでいるだろうということで、車は駅前に停め、電車で現地へ行った。なんとか天気ももって割と無難なデートとなった。お望みどおり観覧車に乗り、ショッピングをしたりゲームセンターへ行ったりした。人混みが極端に嫌いな私は、他人の体とぶつかる度にどんどん気分が悪くなり、昼食をとった後で、海岸を散歩することを提案した。建物の外へ出ると、予想より強い日差しが出ていて、私は羽織っていた長袖を脱いでバッグにくくりつけた。邪魔で仕方ない。寒がりの私は、この時期に半袖オンリーで来る勇気がなかったのだ。笠奈は最初から白い半袖ブラウス1枚だ。ボタンに沿った縦のフリルがひらひらしている。私よりも笠奈の方が余程思い切りがいいように思う。
ふいに笠奈がバッグの中をまさぐり「ちょっと待って」と声をかけてくる。中から取り出したのは、紫色で手の平におさまるくらいの容器だ。
「塗ってきてないでしょ?君肌白いから。日焼けしちゃうよ」
そう言って右手をひねってキャップを取り、私に日焼けどめを渡す。そういえば、この日差しの中を歩いたら、帰る頃には顔と腕が真っ赤になって、下手をしたら皮も剥けるだろう。でも私はそんなことに頓着したことはなく、鼻の頭がずる剥けて、ようやく少し後悔するくらいだった。
だからと言って突き返すわけもなく、大人しくそれを腕と顔に塗る。笠奈が私のことをじっと見ているので、私はおどけた調子でほっぺたに塗りたくるが、笠奈は特に反応しない。仕方がないので容器を返しながら「笠奈は?塗ってあげようか?」なんて言ってみる。予想通り「家出る時に塗ってきたよ」と小馬鹿にしたような口調で返してくる。
「ていうか適当に塗りすぎでしょ(笑)ちょっと後ろ向いて」
そう言って笠奈は私の首筋と、腕の内側を丹念に塗ってくれた。前かがみになっている頭を眺めながら、意外と几帳面な女だと思った。知り合った頃に、ミキちゃんの授業についてあれこれ聞かれたことを思い出す。
最後に「おまけ」と言って、手に余った分を私の唇に塗った。乱暴に手を押し付けられ、薬品の匂いが鼻をつく。後ろにのけぞりながら、私がやめろと言うと、笠奈は大声で笑った。笠奈の笑い声は、高層ビルを反射しながら青空へ吸い込まれた。

さほどお台場に詳しくない私たちは、足が痛くなるまであてもなく歩いた。きちんと舗装された道や、砂浜、桟橋になっているところもある。かつて夜中に来たところも、雰囲気は全然違ったが、すぐにわかった。二階堂が休んでいたベンチや、笠奈がもたれかかって電話をしていた街灯もそのままだった。あの時は気づかなかったが街灯は、エメラルドグリーンの塗装が所々ひび割れ、剥がれている箇所もあった。笠奈もすぐに気づいて、懐かしいねみたいなことを言った。確かに懐かしい。
おそらくあの時笠奈が電話していたのは、兼山だったのだろう。打ち上げが終わっても、一向に電話を寄越さない笠奈に業を煮やした兼山がかけてきたのだ。
しばらく二階堂のベンチに座って、あの時の様子を思い出しながら、兼山と笠奈がどんな会話をしたのか想像したかったが、笠奈はまたみんなで来ようかと言った切り、すたすたと歩いて行ってしまった。笠奈の方も兼山と電話をしていた事を思い出したに違いない。おそらく。

日が傾き、手すりにもたれて海がオレンジ色に染まる様子を眺めながら、ふとミキちゃんに何かを買って行ってやろうと思った。笠奈に提案すると「いいかもね」と返事をし、再びショッピングモールへと戻った。屋根付きのモールに入ってしまうと昼なのか夜なのかわからなくなるが、確実に足は重くなり、午前中に歩いた時よりも地面が数段硬くなっているように感じる。
はっきり言って、中学生の女の子が何をもらって喜ぶのか見当もつかないので、笠奈の意見を参考にしたかったが、笠奈は「なんでもいいんじゃない?」みたいなスタンスであまり干渉せず、しまいには自分の服を見出した。私はもう少し真面目に選べよと注意したかったが、笠奈としてみたら、私が他の女のことを、あれこれ考えるのは面白くないのかもしれない。かつてはお互い妹のようにかわいがっていたのだから、そんなわけないとも思うが、他に理由もないのでその説で自分を納得させることにした。そうなると、この先ミキちゃんの話題は極力避けなければならない。私は目についた雑貨屋で雑然と並んでいる髪留めのひとつを手にとって買い、それをポケットに突っ込むと急いで笠奈の元へ戻った。そして、どのスカートがいいか悩んでいる笠奈に適当なアドバイスをして「適当なこと言わないでよ」と怒られた。結局笠奈は何も買わなかった。
夕食は地元へ帰ってきてから済ませ、私は当然のようにその後ホテルに行くことを期待した。エンジンをかけながら「いく?」と聞くと「今は生理中だからできない」と断られてしまった。体のことなんだから仕方ないと自分に言い聞かせたが、その日一日の疲れが一気に出て、運転席にそのまま沈み込みそうになってしまった。ヘッドライトをつけ、笠奈の家への最短ルートを模索しながら念のため「じゃあ帰る?」と聞くと「そうだね」と返事が返ってきた。笠奈の声なも疲れが混ざっていて、このまままっすぐ帰ることは、100パーセントの正しさを持った行為に思えた。
駐車場についても笠奈はなかなか降りようとせず、またこのパターンかよと思っていると、目を瞑るように指示された。なんとなくその後の展開を予想しながらそれに従うと、笠奈の唇が私のに触れた。コロンの匂いが鼻をつき、笠奈の体を支えるために、私の太ももには手が置かれている。私はそこに自分の手を重ね、力強く握りしめた。それは割と長い時間続いた。
唇が離れると、笠奈は私の頭を撫で始めた。目を開けると、笠奈の顔はまだすぐそばにあった。私の目を見ながら「ごめんね」と言った。どうして謝るのか尋ねると「だって悲壮感満載なんだもん」と笑った。それを聞いてうっかり泣きそうになってしまった私は「疲れただけだよ」と強がり、再び笠奈を抱き寄せて口づけをした。

十字路(17)

3日後の夜中に笠奈から電話があり、私も君の事好きみたいと言われた。とりあえず布団を蹴飛ばしてベッドから降りた私は、電灯の紐を引っ張って明かりをつけ、その紐にしがみついたままかろうじて返事をした。笠奈はそんな私に構う事なく、とりあえず兼山さんと別れるから、そうしたら付き合ってほしいと言われた。笠奈の声は、完全に落ち着いていて、そのせいで保険の手続きの説明でも受けているようだった。私はかすれた声で「わかった」と答えた。寝起きだったからそんな声になったのだが、完全に覚醒していてもまともな声が出せたかはわからなかった。
そこまできて笠奈はようやく「寝てた?」と聞いてきた。改めて時計を見ると、3時10分前だった。

とりあえずミキちゃんには報告しておこうと、4月の最初の授業で話をした。予定通り笠奈が文系科目へ復帰し、ミキちゃんは既に笠奈の授業を一度受けている。兼山の部分だけは”今の彼氏”と置き換えて、あとはほぼ起こったことをそのまま伝えた。兼山の脂っこい顔を今の彼氏と形容するのは、いささか再現性に欠けるが、ミキちゃんのイメージを反らす為には丁度いい。兼山と笠奈の関係をミキちゃんに悟らせるのは、兼山だけでなく、笠奈にとっても致命的だ。
ミキちゃんはいつもの黄色いシャーペンを握りしめながら「やったじゃん」と大喜びしてくれた。この、思い切りタメ口な感じが我が事のように感じてくれてるみたいで、私の心も弾む。「まあ彼氏とうまく別れられたらだけどね」と、私は自分まで浮かれそうになるのを制したくて、わざとそんな事を口走るが、すぐに「そんなの関係ないじゃん」とかき消される。確かに私も関係ないと思う。
すぐに休憩が終わり、私は図形問題のレクチャーを始めるが、少しでも言い淀むとすぐに「今笠奈先生のこと考えてたでしょ?」とからかわれる。そんなわけねーだろ、と否定はするが、そんな風にムキに否定するとますます怪しいよな、と私の方が思ってしまう。私は本当に浮かれているのかもしれない。結局ミキちゃんに足を引っ張られまともな授業ができず、私は宿題の量をいつもより増やして仕返しをしてやることにした。当然ミキちゃんは泣き顔を見せるが「だってミキちゃんの成績下がったら笠奈に怒られるし」と言うと渋々納得した。
玄関に出た所で兼山の「さようなら!」が聞こえたが、私は振り向きもせずにすぐにドアを開け、ミキちゃんを外に出した。当分は極力兼山の顔は見たくない。歩道に出ると、隣の薬品工場の桜が満開になっていた。そこを笠奈と歩いたら気分がいいだろうし、それは今なら割と簡単に叶うことだった。と思ったら今すぐにその夢を叶えたくなる。が、笠奈の姿はない。先月は日本にすらいなかったので、1人でミキちゃんを送り出すのが恒例となっていたが、元々は笠奈と2人でやっていたのだ。正直うざいと思う時もあったのに、出てくる気配は全くない。気にはなるが、わざわざ呼びに行こうとは思わない。ミキちゃんも全く気にする様子もなく、しきりに笠奈とのデートはどこへ行くべきかについて私に提案してくる。ディズニーランドとかいいよね、とか。ミキちゃんには桜の存在も目に入っていないようだ。
そろそろ切り上げ時かと思い、それじゃあと言いかけるがミキちゃんに話をやめる素振りはない。先週までとは違い、だいぶ暖かくなってきているせいかもしれない。もうお花見だってできるのだ。時季の移り変わりに疎い私は、今日もここまでコートを羽織ってきた。流石に汗をかいた。
私は気まぐれを起こし、ミキちゃんに「帰り道を途中まで送ろうか」と言ってみた。そう言えば遠慮して1人で帰る可能性もあったし、本当にぶらぶら歩くのも悪くない気がした。
ミキちゃんは「えー。いいの?」と私の提案をあっさり受け入れ、途中まで一緒に歩くことになった。いくらなんでも家まで行ったら、1時間はかかるので、2つ目の交差点のコンビニまでという約束で。
私の予想通り、夜桜の下を歩くのは気分が良かった。ミキちゃんには悪いが、ここを笠奈と冗談を言い合いながら歩けばもっと楽しいだろうと思った。ミキちゃんは桜について待ってく触れない。やはり、まだまだ若いというか幼いと思ってしまう。私だって中学の頃は、桜なんてただの植物の一種でしかなかった。花より団子というより団子よりジャンクフードといった感じだった。
すっかり調子づいた私は、会話が途切れるタイミングを狙って「ていうか、そっちはどうなんだよ?デートとかどこ行くの?」と聞いてみた。私絡みの話はいい加減飽きてきたところだ。
ミキちゃんは私の方を見て、笑顔で「あー、別れちゃった」と答えた。気まずそうな感じはない。私に気を遣っているのか、彼女の中でとるに足らないニュースだからあっけらかんとしているのかはわからない。
え?いつ?とか聞きながら、確かサッカー部であった彼の名前を思い出そうとしたが、出てこない。ていうかそんなの最初から知らない。原因はなんだろうか。浮気か?中学生のくせに生意気な。そもそも中学生の付き合うは、どこまでの関係なのだろう。ままごと程度のものなら、別れるのは時間の問題だったのかもしれない。
ミキちゃんの話に、私はそうなんだ、みたいな相槌しか打てない。沈痛な面持ち満点だったのか、ミキちゃんは途中で笑い出し「ていうか先生テンション下がり過ぎ、ほら笠奈先生の顔思い浮かべて」と励まされてしまった。情けなさすぎる。
そのうちに予定のコンビニに到着し、私はミキちゃんにアイスでも買ってやろうかと思う。でも励ます、て感じでもないし、むしろそういう行為が相手を傷つけてしまうんじゃないかと一瞬戸惑う。うっとおしい。だが、ミキちゃんの方は店に入ろうとせず、駐車場の端にあるポストの前で自転車の向きを変え、私は確かに夜にいつまでも子どもを引き止めるのは良くないよな、と初めてまともな事を思う。
「妹の話したんだ、その人に。そしたら嫌な顔されちゃって。なんか一気に冷めちゃって。その場で別れた」
ミキちゃんは私の左肩の辺りを見ながら、笑いながらそう言った。冗談を言うような感じだったが、目は笑っていない。当たり前のように私の頭は一気に沸騰し、そんな男別れて大正解とか最低すぎるだろそいつとか、そういう男ばかりじゃないから気にしないでとか、そういうセリフが同時進行でポコポコ出てくる。私をもう2~3人増やして一気にまくし立てたい気分になる。
だが、ミキちゃんは私が考えているよりもずっと頭のいい女で、多分私が今のような気分になることはわかっていて、だからぎりぎりになって切り出したのだ。すぐに「それじゃあ先生また来週もお願いします」と頭を下げた。大げさ過ぎる頭の下げ方に、さすがの私もなんとなくミキちゃんの気持ちがわかり、うん、気をつけて、と手を上げた。
「先生と桜の下でお散歩デートしたこと、笠奈先生に言ったら怒られちゃうかな?今日のことは黙っていようね」
去り際にそんな事を言ったミキちゃんはいつもの感じで、私も「何言ってんだよ」とすぐに返したが、既にミキちゃんは自転車を漕ぎ出していて、私の言葉は届かなかった。

笠奈が兼山と別れるのは、かかってもせいぜい1~2週間くらいのものと思っていた。笠奈の気持ちを本人の口から聞いた私は、いわば仮契約の状態であるから大人しく待っているべきと考え、こちらから連絡はしなかった。電話をすれば催促してるように思われるかもしれないし、そういうのはなんか男らしくない気がした。男らしさなんて本当はどうでもいいが、やはり落ち着きがないのはみっともない。
だが、笠奈からの電話は一向に鳴る気配がなく、ついに1ヶ月が過ぎそうになっていた。私の頭は、マイナス方向の妄想で破裂しそうだった。ありがちなパターンは、兼山が別れを渋ってる場合と、笠奈の情が兼山に戻ってしまった場合だ。前者ならまだいいが(とは言うものの、やはりなぜそれを知らせないのかという疑問は残る)後者だとしたら最悪である。この場合、私が連絡しなかった事が裏目に出た事になる。電話をしない私の事を、その程度の気持ちと判断したのかもしれない。一方で、兼山が毎日別れないでくれと泣きながら懇願すれば、やはり笠奈としては、自分を求めてくれる人との方が幸せになれるとか考えるかもしれない。
そうなるともう居ても立ってもいられなくなって、ひと月前の日付の着信履歴から笠奈の番号を呼び出しそうになるが、今のは完全な推測である事に気付き、思いとどまる。そしてもう一度冷静になって考え、現時点で確実に言える事のみを残していくと、結局笠奈の気持ちが私か兼山のどちらに傾くかについては、笠奈の個人的な問題であり、私は一切介在できないという結論にたどり着く。つまり私が電話して「君を愛してる」と言っても言わなくても、笠奈が兼山を愛していれば、もうどうしようもないのだ。例えその時笠奈が「私も愛してる」と言っても、いずれは離れて行く。となれば私がここまで何もせずに指をくわえて待っているのは、間抜けかもしれないが、間違ってはいない。笠奈の「待ってて」という言葉を忠実に守っているだけだ。私は笠奈を信頼している。信頼している、というのは笠奈が信頼に値するかどうかよりも、私自身の気持ちがどこまで純粋になれるの問題なのだ。

何かが少しずつ変わっていた。笠奈はもう私がミキちゃんを見送る場面に、顔を出して来ない。まともな会話どころか、たまに姿を見かけるくらいになった。笠奈は白とピンクの中間の春用のコートを身につけている。ミキちゃんとの会話にも笠奈の名前は出て来なくなった。私は何度も、笠奈に振られてしまった事をミキちゃんに報告する場面を想像した。笠奈が返事をくれない苦悩を、素直に打ち明けようかとも思ったが、なんだか卑怯な気がしてやめた。ミキちゃんが笠奈の名前を出さなくなったのは、笠奈の方がミキちゃんに何かを相談したのかもしれない。だとしたら私が何かを漏らせば、ミキちゃんは板挟みになってしまう。
あと1週間したら電話をしよう、と思っていたら、あっさりとそれは過ぎてしまった。それでも決心がつかずにさらに3日が過ぎ、ようやくその日の夜に笠奈の番号をダイヤルした時は、もはや振られる気満々になっていた。いくらなんでも1ヶ月半も放置されるのは、希望薄と考えるのが自然だし、笠奈の中ではもう私との関係は、終わった事になっているのだろう。それを察しないでわざわざ電話で確認しちゃうのは、野暮丸出しもいい所だが、私としてはいい加減変な希望を断ち切りたいのである。あと半年もしたら全ての希望は枯れ果てるかもしれないが、それは時間の無駄だ。笠奈は私に愛想を尽かすかもしれないが、そこで関係が終わるのだから関係ない。
が、私の予想に反して笠奈はまず私に、謝罪の言葉をかけた。そして「付き合おうよ」と一気に話が進んでしまった。拍子抜けだ。ここまで間が空いたが理由も、私が電話して初めて付き合おうと言い出した事も、兼山も全部すっ飛ばされた。確かに笠奈はそういう女だが、やはり確認すべき所は聞きたい。というわけで手始めに「兼山は?」と聞いてみると「もういいんだ、別に」と返す。答えになっていない。私はそれはつまりどういう事?と問い詰めたいが、笠奈の言葉には、何か反論を許さない雰囲気があった。声が疲れている。笠奈は私が電話をして声を聞かせて、初めて私の存在を思い出したんじゃないかという気がした。
「なんか色々あって、ちょっと混乱してるんだ。だけど、君の事好きなのは嘘じゃないよ。久しぶりに声聞けて、なんかほっとして涙出そうだし。こんな女だけど、よろしくお願いします」
私が黙っていると、笠奈は一気にそう言った。何か言い訳がましかったが、確かに涙声だった。私はもう別に嘘でもなんでもいいやという気になっていた。笠奈が本当は私の事をどう思っているかは、いずれわかる事だ。
電話を切る直前になって笠奈は「これからは塾の中ではあまり会話をしないようにしよう。兼山は私と君が付き合う事は知らないけど、塾の男みんな疑ってるから」と注意した。その言葉が1番リアルで、私はその時になってようやくこの女と付き合うんだという実感が湧いた。

十字路(16)

「出ようか」
そう切り出したのは笠奈の方で、その時はお互い無言のまま10分は過ぎていた。途中で笠奈がトイレに立ったので、もっと過ぎたのかもしれない。その間私の頭の中は、言うまでもないが兼山でいっぱいだった。笠奈に「(自分が付き合っているのは)君も、知ってる人だよ」と言われた時、実は最初に兼山の事が思い浮かんでいた。倫理的配慮から頭の隅に追いやっただけだ。というか、私は物語の冒頭からずっと兼山が付き合っているのではないかと疑い、ある時点から確信を抱いていた。と、そこまではっきりと思ってはいなかったが、事実を知ってしまうと、何故か自分の兼山に対する感情は、笠奈との関係に対する嫉妬に端を発しているような気がしてくる。よく考えれば、兼山は今まで出会った中年男の中で、飛びぬけて嫌な奴というわけではない。他のバイトや学校、あるいは自動車教習所で、様々なタイプの嫌な人間に出会ってきたのだ。兼山そのものには罪はない。
過去がどんどん書き換えられる。
だがそうなると、もしかしたら妄想していたかもしれない笠奈と兼山のベッドシーンは輪郭を得て、俄然リアリティを増す。いや、リアリティどころの騒ぎでなくてもう本当にあった話で、私の再現映像は細部は的外れでも、大筋では合致しているのだ。
参考までに私が考えた事を書き留めておくと、舞台はn号線のC市インターそばのLというラブホテルの一室で、そこは山小屋みたいな趣のホテルで、壁紙は木目調、アンティークチックなドレッサーがあったりする。ど真ん中に設置されている広くて丸いベッドの上で、笠奈が抱かれている。おそらく騎乗位。ぶよぶよの兼山の腹の上で笠奈が腰を振っている。
そうして行為のあとに毛布に包まれながら、私の話とかもしているのだろう。「あいつお前に気があるんじゃない?」「まさか。あの人はミキちゃん狙いだと思うよ」「そりゃまずいよ。これだから男を女子生徒につけるのは嫌なんだ」みたいな。

今日は車で来ていたので、帰りは弁当屋の駐車場まで笠奈を送る。ドアを閉めたり鍵を回してエンジンをかける音が、いつもより車内によく響く。とっくに営業を終えた弁当屋は、当然ながら照明は消され、道路の向こう側の街灯が、店の屋根をオレンジ色に染めている。屋根と言っても看板を兼ねた布製のテントのような代物で、春風に吹かれはたはたと揺れている。
本当はこのシチュエーションで告白するつもりだったのに、全ては無駄になってしまった。結果的に同じだとしても、別れ際に言えば気まずい時間はもっと短くて済んだはずだ。昼間、笠奈から電話で誘われた時に、最適のタイミングについて、あれこれ検討していた頃が懐かしい。一気に歳をとってしまったような気分だ。酔いも完全に覚め、胃に入れたつまみの量を検証すると、空腹すら覚える。
て、笠奈はいつになったら車から降りるのか。私はさっきから悲壮感たっぷりに椅子にもたれているのに、ちっとも察する気配がない。ここまで空気を読まない女だっただろうか?アメリカで奥ゆかしさの欠片すら捨ててきてしまったのかもしれない。
確かにむっつり黙っている私も悪いのかもしれない。素直な私は、いささかタイミングは悪いが「そんじゃ、また」と声をかけてみた。これは「また以前の関係に戻って2人で楽しいお酒を飲みたいものだね」と願いを込めたわけではなく、自分を皮肉っているだけだ。
笠奈は「うん」と返事はしたが、微動だにしない。目線はカーステレオのあたりに固定されている。青い液晶には、現在時刻が表示されている。10時25分。
笠奈は何か言いたいのかもしれない。私はこんな状況の中での自分の立場というか、優しさについて考える。何か言葉をかけた方がいいのかもしれない。例えば全く関係ない話題を振るとか。こんな時こそミキちゃん登場させるとか。なんか利用するみたいで後ろめたいが、彼女は協力してくれると言ったので、かえって遠慮する方が悪いんじゃないだろうか。て、私はまだまだ笠奈に色々気を回さなきゃいけないのか。それが大人の対応なのだろうか。意味がわからない。もう笠奈にどう思われたって構わない。早く帰ってほしい。
私が「帰れよ」と切り出すがどうかを延々と悩んでいるうちに、ついに笠奈の方が「私さ」とつぶやいた。
「私さ、最低だよね」
そんなことないよ、とでも答えればいいのだろうか。私は笠奈を混乱させ、傷つけてしまったのだろうか。だからと言って私はやはり笠奈に同情する事はできない。もし、私と笠奈が100パーセントの友達であるなら、不倫なんてする笠奈に怒りをぶつけるだろう。そのまま行けばいずれ深く傷ついてしまうのが目に見えてるからだ。それを周りが見えなくなっている本人にわからせる事は、至難の技というか、ほとんど不可能だが、それでもこちらも衝動にかられて、延々と笠奈を説得するのが友達っぽい。でも私がそれをすれば、単に下心に突き動かされた行動で、どう自分のベッドへ誘導するかの戦略となってしまう。
だからやはり笠奈は最低だ。「最低」と宣言することが最低だ。
「ていうかさ、兼山のことが、好きなの?」
「うーん。好きじゃないと、思う」
「じゃあ、なんで付き合ってんの?」
「なんかさ、ベンツに乗ってみたかったんだよね」
何の冗談かと思ったが、笠奈の表情は笑っていない。兼山のベンツの銀色が頭の中で光を放つ。いつも塾の隣の月極駐車場に停められている。駐車場は地面は砂利で、駐車スペースはロープで区切られている。緑色のフェンスは所々塗装が剥がれ、そこに錆が浮いている。ぴかぴかのベンツとのギャップは滑稽にすら見える。その助手席にはもっと滑稽な女がいて、シートの座り心地や内装の高級感、後部座席に備え付けられた救急箱なんかにため息をついている。やってらんないよ。
「お前馬鹿じゃねーの」
思い切り憎しみを込めたつもりなのに、何故か語尾で笑ってしまった。あまりにくだらな過ぎるのがいけないのだ。
「だって、乗りたかったんだからしかたないじゃん」
「だったらディーラーでもなんでも行けばいいじゃんかよ」
「やだよ。行ったって場違いなだけだもん」
「だからって付き合うって本当意味不明」
言い合いをしてるうちに、私はようやく笠奈の狙いに気付いた。内容はなんであれ、こうした掛け合いがいつだって楽しい。悔しいが。
やがて、会話がわけのわからない方向へ行って、お互いに黙って流石にもう解散だろ、と思ったら笠奈が「喉乾いた。アイス食べたい」と言い出した。私はアイスなんて全く食べたくなかったが、そこから5分くらい車を走らせてセブンイレブンへ行き、笠奈が食べている姿を眺めるのも馬鹿馬鹿しいので購入し、結局笠奈の分まで払ってしまった。笠奈は店員の前なのにはしゃいだ声で私に礼を言い、そういえばさっきまで酒を飲んでいて、この女は酔っているんだと思った。そして、目の前の店員は、私たちの事を恋人同士だと思って見ているに違いなかった。