意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

深沢七郎「みちのくの人形たち」

仕事の休憩中に携帯で保坂和志を読んでいたら小津安二郎の映画の話が出てきて岩下志麻が2階の自室で振り返るシーンが不自然でとても生きている人間のものに思えずホラーだとあってホラーだとは書いていなかったが死のなんとかみたいなことを書いてた。そこが良かったというわけではないが小津安二郎を見たいと思った。私は学生時代に一度「東京物語」を見たきりでそれもほとんどおぼえていない。おばあさん以外の女の人がみんな同じに見えた。白黒のせいもあるんだろう。とにかく私は最近考えることが多くで気持ちが沈みがちなのですが東京物語みたいな作品を眺めるように見たらもしかしたら少しはいいのかもしれない。保坂和志はサラリーマン時代に朝支度をしながらいつも小津安二郎を再生して眺めていたみたいに書いていてそれはいいことだと思った。しかし私の家はいつも「仰天ニュース」だとか「行ってQ」ばかりで小津を再生する余裕がない。たまに空き時間に私の見たいのを再生すると
「これはどこが面白いの?」
みたいな質問をされて大変鬱陶しい。本人は「面白くないよね?」と言いたいわけではなく純粋な疑問をぶつけているつもりなのである。あとこれは家族の話ではないがやたらと「自分の視野を広げる」みたいな言い回しをする人がいてあるいは「世界を広げる」みたいな言い方だがちょっと何言ってんですかみたいな気持ちになる。私はそんな自己弁護みたいな言い回しでなく素直に「つまらなくてもOK」みたいなのでいいと思う。まあいいんじゃない? みたいなゆるい感じ。もしかしたらこれを読む人は私のことをすごいゆるい人かと思うかもしれないが私は字面ほどゆるくはなく割と神経質な面もある。


とにかく小津はそんなかんじだから見るのは難しいし無理に見たらみんな退屈で死にそうになって私が気が気じゃなくなってしまう。スマホだので見ればいいのか。動画サイトにあるだろうか。知らん。調べるのめんどくさい。諦めてたらその後深沢七郎の話になって深沢七郎でもいいかという気になってKindleで検索したらあったからダウンロードした。しかし電子書籍と書籍は別物だと最近思って電子書籍の紙質にも飽きてきた。

山下澄人「ほしのこ」

山下澄人「ほしのこ」を買った。本屋で初めて買った。この前芥川賞をとったから本屋でも買えるかなあと思ったら一冊あった。それまではインターネットで買っていた。インターネットで買うことが悪いとは言わないが手元にくるまでタイムラグがあるのが不便だ。本屋だってなければ注文するのだから同じではと思うかもしれないがなければあきらめればいいのである。買うことが約束されて手元にないのは違和感がある。読みたいときに読めないのは不便だ。私は確かに本屋で注文するというのはしたことなかったからインターネットばかりが不便にかんじてしまう。私は実はほしいものが売ってないと心のどこかで安堵するのである。「買わなくて済む」と思うと気が楽になる。買うと買った分だけ楽しまないといけないというプレッシャーをかんじてしまう。じゃあ立ち読みだとかタダのものがいいんですねとなるが無料だとやっぱりつまらない。借りたCDと買ったCDだったら買ったCDのほうが良い音がする。そんな風なのでほしいものが店頭にないと幸運だと思うくらいである。たぶん私は子供のころに色々買いすぎたのだ。


私が本屋で「ほしのこ」を手にとってすぐにレジに並ぶと妻が仰天していた。妻からすると本というのは吟味しながら買うものなのである。そういうときもあるがすでに欲しい候補がいくつかあるというのをことに本に関してはないと思っているのである。私はもう夕方だしさっさと買い物を済ませて家に帰りたかったのである。妻は帰りたがらない女なので構わない風だった。そしてそのままうまくお金を貯める本みたいなのを立ち読みしていた。まさか買うのかと思ったが買わなかった。子供が切ない生き物だかかわいそうな生き物の本を欲しがったので買い与えた。ゴリラはB型しかいないとかそのたぐいの本である。家に帰ってから
「蟻は16分しか寝ないんだってー」
とかどうでもいいことを吹き込んできて困った。妻はこの前のフジテレビの「ザ・ノンフィクション」の北九州の殺人事件の息子のやつを見ていて電気ショックがどうとか言っていて耳にはいるだけで嫌な気持ちになった。
「最悪」とか
「頭おかしい」
とか妻はどん引きだが私は実は落ち込んでいる。どん引きというのは多分他人ごとで自分には関係ないと割り切れるから抱ける感情なのだが私の場合はどこか当事者のような気で見ている節がある。

桜井君の学校のドラマ

たまたま家族が録画したものを家族と昼を食べながら見たが面白かった。昼は冷凍のカルボナーラを食べた。一度レンジで温めたが指定の時間とワット数でやったにもかかわらず解凍されていないぶぶんがあってフォークで刺すとじゃくじゃく言って霜柱のようだった。寒い日でうちは暑がりばかりだから私は朝から車に乗ってドライブした。ひとりなら暖房も付け放題だった。


よく教師は公務員は世の中のことがわかっていないみたいな話があってわかるわからないはともかく変わっている人が多いという話があるがそれは公務員に限らず比較的変化の少ないある種流れの淀んだ場所なら営利組織であっても変わらない。限に私の職場私の部署はそういうところで独特な人が多い。私もそのひとりである。ドラマでもちょっと何言ってんだこの人はみたいな教師がいるが私の身近にもいる。現実を見ない人もいる。また折り返しを返しちゃった人やピークを越えてしまった人も淀みがちだ。ゴールが見えた人と言うのはとにかく省エネ指向で変化を嫌う。


そういう人に袋叩きに遭う桜井君に同情しながら見たが桜井君だってたいがいである。自分が奨学金を得て大学に通ったものの今でも借金に苦しんでいる話をどうしていちいち格好つけながら話すのか。結果生徒にドン引きされ蒼井優には「だから言ったじゃないの」みたいに突き放され膝から崩れ落ちる桜井。確かに蒼井の「子供にそんな難しい話はしても逆効果だ」というのはいかにも決めつけが過ぎて生徒を「商品」と言い切った桜井とどっちもどっちだがやはり私は桜井の「世の中に役立つことを教える」というのに納得できない。


高校三年の英語の先生は定年寸前の宮本という男でもうすでに担任はもっておらず学年主任である日宮本は授業の合間の雑談で何の話だったか忘れたが政治か宗教の話にかすった話で突然宮本は
「教師は政治(宗教)の話ができません。よってこの話はここでやめにします」
と言って止めてしまった。もともと堅物で体格が良くて頭は禿げていて毛髪はほとんど残っていなくて僧侶のようでありおそらく形式を重視して不器用な性格で生徒にも敬語を使う。他の教師ならあえてそういう話題に近づかないか悟られないよううまくかわすのだろうが宮本ははっきりと「教師だからできない」と言った。今思えば宮本は語らずに語ったのである。なぜなら私は今でも「教師だからできない」と言った宮本のことをおぼえていてこうして今日ここに記したからである。いわゆる「世の中」「社会」と呼ばれる場所には教師が語ることのできない領域があるということを肌でかんじることができればじゅうぶんで社会に役立つ仕事はこれこれですとわざわざ教えても意味はない。大抵の生徒は忘れるか反発するだけだ。

意味とは使用

非物質的なアーク溶接棒 - マトリョーシカ的日常

こんな名前のブログ(意味をあたえる)だから本文に「意味」と出ると何らかを考えてしまう。意味は使用することによって意味を意味たらしめる。保坂和志風に言うと「運動」である。腕をぐるんぐるんに振って醸し出されるのが意味である。熱のようなものなのかもしれない。熱すなわちエネルギーとなるのは太陽のせいかもしれない。海王星冥王星に住んでいたら意味すなわち凝結なのかもしれない。隙間がなくなって意味なのである。行間なんて言葉があるが冥王星の文学はきっと行内なのだろう。


腕をぐるんぐるんで幼稚園くらいのときに見た夢を思い出した。私は夢の中で丸広というデパートの食品売場で迷子になったがこれは夢だと気付いた。どうにか夢から脱出したいと最初は大声を出したが魚売場のお兄ちゃんとか客のおばさんだとかが寄ってくるだけでうまくいかない。そこで私は腕をぐるんぐるん力の限り振り回し始めたら魚売場やおばさんが
「おっと」
という具合にひるんだ。子供が振り回すくらいの半径なので彼らの影響は最小限である。私はさらに振り回してジャンプをするとか「覚めろ覚めろ」と大声を出したら実際覚めた。朝だったか夜だったかおぼえていない。私はイトーヨーカドーでは本当に迷子になって店員に「淀川晴子を呼び出してください」とお願いしたことがある。母はやがてやってきた。私は「お母さんを呼び出して」では店員が困ってしまうことをすでに認知するくらいの年齢にはなっていた。「迷子の子猫ちゃん」はそういう歌だっただろうか。


♪迷子の迷子の子猫ちゃん
あなたのお家はどこですか?

名前をきいてもわからない


この続きを忘れた。とにかく犬が困り果てる歌だというのはわかっているがそこまでたどり着くことすらできない。何をきくんだっけ? 血液型? ゴリラはB型しかいないらしいが猫は何種類だろう。猫子ちゃんという女の子が出てくる絵本があったがあれは人間だから4種類か。二次元だから半分かもしれない。そういえばBがひょうたんの半分という歌があったっけ。昔世紀末クイズというので

「キスで始まりイビキで終わるものな~んだ?」

というのがあってイラストの男女がやたらと照れまくっていたが答えはアルファベットである。しかしイビキがZなのはわかるがキスがAなのがずっとわからなかった。いわゆるABCの関係のAであることにやがて思い至った。何の漫画か忘れたが家庭教師と生徒が三角形ABCでやたらと興奮するというのがあった。AVかもしれない。

三分の一の帰り道(散文の一致)

関係ないけど帰り道の残り三分の一くらいで対向車のライトが私の車のフロントガラスを照らして光の加減でガラスの汚れみたいなのが見えてそこに手形があってびびった。何に関係がないのかというとタイトルではなく今日昼間書こうと思っていたことだ。それは明日書くかもしれないし書かないかもしれない。上司と面談してからちょっと調子が狂ってしまっている。今回はいつもの上司のさらに上の人が相手でこの人が抜け目ないかんじの人で私まで抜け目なくなってしまう。救いはテレビ会議で何度も向こうが落ちてそのたびに間抜けな静止画をさらしてくれたことだ。しかし誰もいない会議室で
「聞こえてますかー」
と大まじめに画面に問いかける私も同様である。あの地球の真裏の人に問いかけるお笑いの人みたいだ。しかし日本の真裏は海のはずである。


手形は





誰の





ものですか?

カラスの横断

数日前に橋を渡っていたら(私は毎朝荒川という川を渡って会社に行くのだがその橋は途中で大きく左にカーブしていてそれを曲がりきった地点でカラスの群れが羽根を広げてそれを縦方向に立てて風に乗るように私の前を横切った。そのうちの何匹かは白い糞を噴出しそれはまるで雪のようであったから私は
「雪のようだ」
と思った。私の車の前を横切ったから私の車が糞を浴びることはなかった。私の車は白で製造からもうすぐ10年が経つが私が乗ったのはそのうち5年で中古である。中古というのは私の購入時という意味で今は何にしたって中古である。元は友達が乗っていたやつで中に中古車屋をやっている叔父が入ったが私の払った代金がそのまま友達の新車の頭金になった。友達はスバルのブルーの天井の低い車に乗っている。とても目立つ車である。


私は上記の中古車をローンを組んで買ったがそれが夏に払い終わった。裏表がぺりっと剥がれるタイプのハガキにローンの明細が最初に送られてきて一月払い終わると妻がピンクの蛍光ペンで当該箇所に線を引いた。6月と12月は黄色でそれはボーナス払いのところであった。私の会社はボーナスは一応あるが遅めで最初の数年は直前になって「ボーナスは金曜」みたいなことを言い出すから妻はヤキモキして私に「いつなんだ」としつこく訊いた。私はなんとなく私が侮辱されたような気がして「出るとは限らない。ボーナスとはそういうものだがら」と言ったりしたが出なかったことはない。良い会社なのかもしれない。しかし遅めなのでローンの引き落としに間に合うことはなかった。


ところで個人情報やデリケートな情報を隠す表裏がぺりっとめくれるハガキはたまにめくれるのが表だけ・裏だけのパターンがあるが私は常に表裏を剥がしてそうすると剥がすべきでない面は紙を破いたみたいに繊維が逆立って絨毯みたいなかんじになって「ああ間違えた」と思う。しかし片面のみめくるなんて気持ち悪くてできるわけない)

日本は終わっていると言うけれど

日本だけじゃなくて世界も終わっているみたいな話を聞いてそれって「私がブサイク」「いいえ私のほうがブサイク」みたいな話だなとかんじた。ネットではいわゆるいかに日本が優れているかみたいな番組がよくやり玉に上がるが「日本すごい」も「日本終わり」も結局おなじことなんだと思った。とうぜんそこには少子化だとか景気うんぬんという根拠があるのだろうがそういうことでわかった気になっているだけである。今は終わりブームであり「終わり」と言っておけばとりあえず格好がつく。そういう中で「いや実際終わってますよ」と主張するのは難儀である。何が言いたいのかというとつまり「終わり」は今や思考停止のワードに成り下がっていて周囲に思考停止と認めさせずに終わりを主張するのは大変ですよという話です。


ところで数行前の「根拠がどうこう」あたりを読み返すと根拠があるとわかった気になるとあって興味深いと思った。提示された根拠とはそういう気にはなっても実は自分の血肉にはなっていないということである。根拠も自前で用意しないと理解の足場が崩れてしまう。しかし効率とかショートカットがもてはやされる世の中でこのような考えは受け入れられないだろう。