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意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

下書き20151024

右からピンク、黄色、白、緑、赤
赤白緑はよく動く、黄色は縁が波立つ。ピンクは動かない。直方体を縦に並べる

カフカ「城」

読書瞬間

この前ディックの「電気羊はアンドロイドの夢を見るか」を読んだが、同時期に以前短歌でお世話になった卯野さんも読んでいて、卯野さんは疾走感、ドライブ感が良いと評価している。私の短歌ではなく、小説についてである。

卯野さんは他に人間とアンドロイドの差異について述べており、主人公リックとその妻イーランはともに人間ではあるものの、最後まで分かり合えずそこが皮肉であると述べている。私は実は妻イーランについては、全登場人物の中で重要度について最下位に近いところにつけており、彼女がヒスを起こす場面とかガマガエルのお腹のスイッチを探り当てるとか、そういうのに全く興味なくページをめくってしまった。ちなみに私はラストに近づくほどこの小説自体の興味も薄れてきて、私は途中まで読んだときに「最後まで読んだ記憶がない、途中で投げたのかも」
と思ったが、それは最初に読んだときも同じように興味を失ったからだ。だからとてもつまらない小説だった、というつもりはなく私にとってはあの最初のアンドロイドのポロコフとカダリイを、リックが取り違え、アンドロイドのほうにフォローしてもらう場面がピークなのだ。ラストはピークから離れすぎている。だから私はあの辺に出てくるブライアント警視とかルーバ・ラフトが好きなのだ。ルーバ・ラフトは結局小狡いアンドロイドのひとりにすぎないのだが、あのリックとのやり取りの最中は本当に人間のような気がした。あわてるリックがブライアント警視に電話をかけ、偽の巡査に代わると巡査はこっそり電話を切って、
「おい、誰も出てないじゃないか」
とリックに告げる。クラムズ巡査はルーバ・ラフトとグルなのだ。あるいは完全に洗脳されている。私はリックが孤立無援になる様子を見て、
「やっぱりね」
と思う。私にとってみれば、リックが実はアンドロイドである、というシチュエーションのほうがお馴染みなのである。それは、決してアンドロイドではないが、人間らしさは欠片もない、というのよりも、である。私がイーランに興味を持てないのはそういった理由もあるのかもしれない。

神として登場するウィルバー・マーサー(預言者?)についても同列に語ることができるが、私はこの坂を登る孤独な老人のコンパクトさが好きだ。ウィルバー・マーサーはアンドロイドのコメディアンにその正体を暴かれたあと、リックとうすら馬鹿のイジドアの前に姿を現すが、
「偽物なんだろ?」
の問いに、否定も肯定もせず、悪びれる様子もなくそれっぽいことを二人にアドバイスし、それが本当にそれっぽい。神様だったらこう言うだろうな、と思うことを言ってくれるのである。神様らしいセリフというのは難しく、ただ正解を言えばいいというものではなく、正解ばかりでは過保護なお母さんみたいになってしまう。しかしコンパクトが故に、やはりペテンなのである。

卯野さんの記事には局長さんの記事も紹介されておりありがたかった。局長さんの記事が書かれた頃は私はまだブログを始める前の私で、その冬は実にたくさんの雪が降った。家の前にかまくらをこしらえ、日が経って入り口が崩れると子供が泣いた。下の子はまだ未就学だったが、今よりもずっと大人びていた。カフカの「城」もかなりの雪が降っていて、そのため主人公のKはまったく身動きがとれず、城への道も閉ざされたままだ。私は「城」を読むのも二回目だが、こんなにもたくさんの雪が降っていたとは、一度目は気づかなかった。話の雰囲気としては、どことなく藤子不二雄Aの「笑うセールスマン」に似ている。

時代的なものをどこまで入れるか

昼間記事を読んでいたらとある漫画家が、後から読む人に古臭さをかんじさせないために、自分の漫画には携帯電話等極力出さないようにしている、というのがあった。

私が子供のころ、小学高年か中学のある日、居間でぼんやりしていたら母が
「ノリオってなあに?」
と訊いてきて、ノリオだったか正確には忘れたが、とにかくそれは当時テレビでやっていた「とんねるずのみなさんのおかげです」という番組の中のキャラクターで、名前の中に「ノリ」と入っているとそれはとんねるずのメンバーである木梨憲武が演じていることを意味する。母はテレビはそんなに熱心に見ないからそのことを知らなかった。しかしそのとき読んでいた推理小説で(母は推理小説が好きなのだ)出し抜けに
「「おかげです」のノリオのような格好の男が」
という文章が出てきて、それがどんな格好なのかイメージできなかったのである。私はノリオの外見的特徴、学ランを着て丸眼鏡をかけて鼻水を垂らしている、みたいな説明をしながら
「なに描写さぼってんだよ」
と思った。

だからフィクションに流行りものを入れるのはどうなのか、と昔は思っていたが、最近はあまり思わなくなった。

コブラという漫画を子供の時に読んだとき、女の人が露出の多い、服装、あるいは少なくても体のラインが強調されるぴちっとした服装ばかりしているのを見て、これは10年20年先に読み返しても、決して古くささを感じない、究極の装飾というものだ、と私は納得しながら読んだわけだが、実際今読み返すと、そういう未来という発想自体に古くささを感じる。コブラは近未来のSFなのだ。その当時はおそらく火星人とかが信じられていて、話の中にも
木星人の俺の怪力でも開けられない」
みたいなやり取りが出てくる。彼は牢に閉じ込められていたのだった。いや、信じるというか、信じる余地があったのかもしれない。

それでここから支離滅裂なことを書くが、私は海外の小説家が書いた海外を舞台にした小説を読むが、やはり頭の中では日本の家屋や人が登場してしまう。さっきカフカの「城」の冒頭の酒場のシーンを読んだが、どうしても土間のようなところにKが寝ているような気がしてしまう。海外も土間はあるのか。今はだいぶ映像が発達したから、比較的容易に海外の建物や人を思い浮かべることができるが、それでも建物の柱の材質とか、学校の校庭の砂などは、まだまだ日本製だ。

どうして文字が廃れないのかと言えばそれは記号であり、記号であるがゆえにサイズが小さいから持ち運びに便利だからだろう。それはデータという質量のないものになっても同じことで、だから今のところブログのようなものが個人の●●におさまりきらず、多くの人の目に触れ、楽しませたり怒らせたりする。しかしあと何年かして、画像も映像ももっと軽くなったら、そっちの方をたくさん見たほうがいいだろう。私たちは本を読むより、外国に行くか、外国の映像をたくさん見たほうが良い。「本のよいところ」みたいな議論もあるが、本の良さが映像に担保されるパターンもある。

フィリップ・Kディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」

読書瞬間

まだぜんぶ読み終わっていないが、ここではないか? という箇所にあたったので、引用する。

 カダリイは銃をリックに渡し、渡されたほうは、年季のはいったあざやかな手つきでそれをあらためた。
「どこが性能的にちがうんだね?」リックはきいた。見当がつかない。
「引き金をひいてみたまえ」
 車の窓から上空に狙いをつけて、リックは引き金をひいた。なにも起こらない。レーザー光線が発射されない。彼はけげんな顔でカダリイをふりかえった。
「引き金の回路がとりつけてないんだよ」カダリイがいった。「それはこっちに残してある。ほらね」手をひらいて、小さなユニットをリックに見せた。「しかも、一定距離内では、こっちで光線を好きな方向へ向けることができる。銃口がどこを狙っていても」
きさまはポロコフじゃない。カダリイだな」とリック。
「きみのいいたいのはその逆だろう? すこし混乱しているようだね」
「うるさい。きさまはポロコフだな、アンドロイドの。ソ連警察からきたなんて嘘をいいやがって」

浅倉久志 訳 早川書房

太字は私。この太字のぶぶんに、私はおそらく十年以上前に読んだときもつまづいて、今もつまづいている。読み返すと最初のほうは
「ああ、そうそう、こんな感じだった」
みたいに記憶に引っかかるところもあったが、後半にさしかかると、ぜんぜん読んだ記憶がない。これは人間にまぎれたアンドロイドを探すお話だが、途中で埋め込まれた記憶とか出て来て、全体が裏返しになりかかる場面があって、そういうのがデビット・リンチの「マルホランド・ドライブ」ぽいと思い、結局そういう話なんだと思ったが、意外とすんなり表に返ってきて、まともな話だ、と思う。しかし太字の箇所である。最初リックはアンドロイドのポロコフを追っていたが取り逃がし、そこにソ連警察からきたというカダリイがやってくるわけだが、実はポロコフ=カダリイで、カダリイがアンドロイドなわけだが、なぜ取り違えるのか。しかもその後「言い間違えてるよ」と、当のアンドロイドに突っ込まれる。カダリイとしてやってきて、
「貴様カダリイだな?」
と言われたら、普通は「そうだが、それがなに?」と答えるのものだと思うが。しかし、リックが見破っているのは明らかなのだから、いつまでもカダリイのふりをするわけにもいかないのか。なんだか、私は「名探偵コナン」とか、そんなのを読み過ぎなのかもしれない。証拠さえなければ、犯人とは言い切れない、という状況は犯人にとっては安全である、みたいな論理にがんじがらめにされているのではないか。

私の記憶の中で、このリックの取り違えを、メタレベルのつまづき、と言ったのは、どうしても書いている作者自身が取り違えたのを直さずに取り繕ったように見えるからである。そしてそのことを勧めてくれた当時のドラムの先生に報告すると、
「ディックは頭がおかしいから」
と、まるで作者が友達であるかのような言い方をした。


ところで文庫本の表紙には荒野に羊が大写しになるイラストが書かれているが、遠くに人が立っている。今よく見たら男が奥に向かって歩いていて、
「ああ、これはあの場面の○○か」
みたいな脳内の発火があったが、私はそれまでろくすっぽ見なかったから、荒野に男が突っ立ている様子が、サミュエル・ベケット「モロイ」の最初の場面に似ていると思った。小説とは一体なんなのか。

靴との相性

昨年か、一昨年に夏に履こうと思って買った靴があるが、それを履いていると左足がしびれる。しびれてやがて、痛くなる。きっかけはこの前サッカーを見に行ったときにその靴を履いたのだが、そのときは数日前から腰が痛くてその日は朝から横になっていたのだが時間になると私は縦になってでかけた。電車を何本か乗り継ぎ行き着くところまでくると、ロータリーのところで友達が待っていて、
「バスでいく? でも帰りは歩きだけど」
と言うから、私は行きも歩きで行くと言った。実際競技場までは距離があったが、普段の私からすれば大した距離ではなかった。しかしそのときは普段ではなかった。途中でユニフォームを売ったりするところがあって、あと普通の住宅もあり、
「この辺りはみんなサッカーの好きな人たちが住むのか」
みたいな話をした。サッカーに興味のない人には地獄だが、半端なファンはもっと地獄だろう。おそらく通りがかる人がみんなそんな話をするのだろう。

歩き出せば腰の痛みは気にならなくなった。立っているときが腰には一番良い。観戦中の固い椅子が気になった。しかし地べたに座るよりかは、椅子があるだけありがたかった。チームは負けた。

帰りも歩いたが少し疲れた。イオンで飯を食おうと友達が言い、実際は提案されたわけではないが、私たちは当然のように駅の前を素通りして店へはいった。彼は私より三歳上だった。もう9時を回っていて、こんな時間までやっている飯屋があるのかと疑問だったが、やはりほとんど閉店していた。イオン自体もまもなく閉店するとのこと。大勢入っていった客は、そこに車を停めているからきているのだった。私たちは電車であった。ショッピングモールの、固い床が、私の腰かふくらはぎに、だいぶダメージを与えた。

それから腰も痛くなくなって、仕事でも倉庫の中を歩き回ったりしたので、私は足のしびれも治ったと思った。サッカーの次の日くらいとかは、少し歩くとしびれた。だが、今日歩いたら、もう途中から痛くてしょうがなかった。今日もショッピングモールにいた。田舎のショッピングモールはどこも広すぎるのである。床も固い。靴も悪いのかもしれない。底がやわらかくて、歩けば歩くほど足の裏にフィットすると思ったが、衝撃の吸収が弱いのかもしれない。休み休み歩いた。

すると子供のステージみたいなところがあって、そこで子供の祖父が、幼子の靴を脱がせて遊ばせていた。子供はステージの上でははいはいをし、ステージの段差から降りるときは後ろ向きに足から降りるのでいっしゅん立った体勢となり、それが気に入るのかそのまま日本足で駆け出すのであった。子供の父親が裸足で駆け回る我が子をつかまえ、再びステージにもどすと、子供はまた四本足となった。二本足と四本足のハイブリッドの時期だった。徐々に周りの大人の人間関係がわかり、ステージの周りには子供の父親と祖父母がいた。祖父は靴を持ち、祖母はスマホで写真を撮っていた。父親は半袖のラガーシャツを着て脇にオムツの箱を抱えていた。父親が祖母に見せる笑顔を見て、私はこの親子は血のつながりがある、と思った。父親は親孝行ができて満足なのであった。

光る人骨

村上春樹

昨日のえこさんの記事で光る骨について触れられている箇所があり、それは人骨ではなく、恐竜の骨だった。私も同じように光る骨のTシャツを持っていたからその旨をコメントし、最後に
「人骨です」
と付け加えた。それはややもすれば体全体でひとつの人骨を現していそうだが、腕の裾のぶぶんに小さな人骨が複数並べられているものであった。長袖である。それは温めると色が変わるもので、よくよく思い出してみると光る物ではなかった。温めるといってもちょっと手で押さえるくらいではダメだから、私は長時間腕を握る必要があった。あるいは、はー、と息をかけたりした。はー、が温かくて、ふー、が冷たいのはなんでだろう。春と冬がそういう季節だからだろうか。それでもなかなか色は変わらなかった。しかし私はあまりそのことを気にかけたりはしなかった。何故ならそれは服なので、私の身体を飾ればそれで良かったからである。たまに、話の種に、
「ほら、この服、こんな風にすると光るんだよ」
なんてやったりしたが、そういうのってなんだか年寄りくさい。子供のころ、祖母の話に「へー」とか適当に相づちを打った、そういうのに似ている。

だから骨は光らないんだってば!

人骨といえば、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」という小説を思い出した。あの中にレプリカの一角獣の頭骨が出てきて、主人公が棒で叩くシーンがある。あの小説には他に少し太めの女が出てくる。あの小説は、二つの話が交互にやってきて偶数章は話A、奇数章は話Bという具合だったが、話Aが退屈だったので私は二回目以降は、奇数章ばかり読むようになった。あと印象に残っているのは、ヤクザに部屋をメチャクチャにされた主人公が、
「そんなのってないぜ!」
と抗議する場面で、なんか必死に自分のキャラを守っているようなセリフ回しに、私は微笑ましさを覚えた。

本をたくさん読む

私は「おすすめの本」というタイトルを見かけると、ついつい開いて読んでしまうが、それで実際に買って読むということはあまりない。あまり「おすすめ」されないほうが読むような気もする。昨日も「数千冊読んだ」と豪語された記事を読んだが、読みたいと思う物がなかった。というか、インターネットというのはコアの人格でもあるのか、必ず挙げられる作家名、作品名というのがある。一種のお作法だろうか。そういう中、つい先日私の好きな木下古栗という作家が紹介されていて感動した。私の知る限りでは初めてである。私もいつかこのブログでも取り上げよう取り上げようと思っていたが、いまだに書いたことはない。そんな作家があと何人かいる。お気に入りだから教えたくないというのもある。

それで私がブログ等で紹介された本を読むかどうかについて、実際は読んでいるような気がしてきたが、つい昨日読んだときの影響なのか、今まで一冊も読んでいないような気になっていた。

私の観測範囲でこの人はかなりの読書家だと思うのは、ブロガーの目氏である。私は目氏を文字でしか知らないが、私のインターネット以外の身の回りでは本をまともに読む人が自分の両親と妹しかおらず、町の本屋など私のためにあるのではないかと錯覚するくらいなので、目氏は私の生涯でいちばん本を読む人と言ってもいい。ブログでは本に限らず映画や音楽も紹介されているが、私の知っているタイトルであることはほとんどない。私のイメージだと大人三人分の知識量である。目氏のブログは定期的にテーマが変わるが、全体のノリとしては軽く、これが軽薄、軽率にならないのはこの知識量の裏付けがあるからである。

そんな目氏にあるとき一冊の本を勧められ、それはイタロ・カルヴィーノの「レ・コスミコミケ」という小説で、当然私は聞いたことのない名前で、いっしゅん目氏がデタラメを言ってからかっているのではないかと思った。名前の語尾に「ーノ」とし、タイトルの頭に「レ・」とつければ、あとは何を並べたって南ヨーロッパっぽくなるのだから、いかにも怪しい。そう思ってアマゾンで調べたら実際にあったので私は購入した。今となってはどういうやり取りで勧められたのか、まったく忘れてしまった。

今、文庫を手に取ってみたら「ハヤカワ文庫」とあり、これはSFの文庫である。私はSFはあまり読むことはなく、六年くらい前に「星を継ぐもの」を読み、その前は「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」だった。アンドロイドはたしか刑事が主人公で、上司の警官とのやりとりで、明らかに上司がおかしくなってしまう場面があった。そのおかしい、が例えば発狂するのような物語の内側のおかしさではなく、作者が書き間違えたのをそのまま直さなかったような、メタ要素を含んだおかしさであり、当時の私はどうしてこのようなやり取りなのか理解できずに、勧めてくれた当時のドラムの先生に訊ねたら、
「ディックは頭がおかしいからね」
と、まるで友達のことを言うみたいに言った。ディックとは、アンドロイドの作者である。それから十年以上経ち、そういえば「モロイ」の第二部も刑事のところに、こちらは上司じゃないが上司の連絡係がきて、それは比較的まともなやりとりだったかもしれないが、小説自体がまともじゃない。最初私は七曲署みたいなのを想像していたが、実は刑事とは私一人、というか上司も連絡係も存在しないとか、なにしろいわゆる「設定」とよばれる足場のような物が豆腐のように不安定で、足をふんばるこちらが時として馬鹿馬鹿しくなるのである。

というわけでアンドロイドをまた読み出すことにした。