意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

残りの人生

一年ぶりか半年ぶりくらいに友達と会った。私は気が乗らなかったが今私に声をかけてくれるのはその人くらいなので乗らなくても会うことにした。私は今はもう仕事人間なので早く退社することに抵抗をおぼえた。それでも6時50分くらいまでねばった。そこから自転車で駅まで行ってその人が「ホルモン焼きが食べたい」と言うから少し歩いてホルモン焼き屋さんに行った。店のドアの脇にベンチがあってそこで太った女が煙草をふかしていてまるで番犬のようで私は入りづらかった。ひとりだったら確実に怖じ気付いたがその人もいたし私も大人なので平気なふりをした。ホルモンは大して美味しくもなく話も大して楽しくもなかったがその人はしきりに「人生も残り少ない」と言い、私に趣味を持つことをすすめた。私は「うーん」と苦笑いしつつ確かに趣味がないとこの先恐ろしいことになるのは自覚していた。この飲み会の後か前が忘れたが私はうさぎゅーんというキャラクターを好きになることを決め、ラインスタンプを買いキーホルダーを買った。キーホルダーはいつもポケットに入れるから何かの拍子に破損したり紛失したりするから買うことに抵抗があったがなくしたらまた買うことにした。私はうさぎゅーんの小刻みなところが気に入ったが赤いパンツが気にくわないがだからと言って嫌いにならないよう注意した。そういう風にしたらやがて多彩な趣味の持ち主になるのではないかと期待している。

学び

私は昨日空を見上げていた。昨日ではない。昨日は雨降りで私は1日家にいた。だから一昨日だ。公衆浴場の湯船につかりながら見上げたのだ。しかし記憶の中では青空だったからこれもおかしい。公衆浴場に行ったのは夜だから。見上げた空に竹が伸びていて風によって大きく揺れていた。風の強い日だった。上空はもっと強い。私はその竹の葉が揺れる様子に懐かしさを覚えた。


懐かしさ、とは物理的に葉が動く様子に対してではなく、私はかつてこの葉の動きの背後にあるものを捉えようとしていたことに対してかんじたのだった。なので竹と青空を区別する輪郭が分厚くなって青空にシワが寄り、特別なものに見えた。しかしそれ以上は無理だった。そういう物の見方がとても幼稚なもののようにかんじた。


5年くらい前から仕事の難易度が上がってしまい、それはある日突然起こったことであった。またよくある話としてここまでのめり込む必要があるなんて、最初は思いもしなかった。しかし起きてしまったものは仕方がないので私はそこから学びを得るようにした。私は元来知りたがりなので学ぶ機会を得られるのはありがたかった。短期的にはしんどい思いをしても、後から振り返れば良しと思える数年だった。


少し前に親知らずを抜き、それは前回の「学生はつやつやしている」という記事を書いた1時間か2時間後の出来事だった。今も痛みが残るがようやく頭がまともに動くようになってきた。痛いときは痛み止めを飲めば良かった。私は痛くなってから飲むからいつも2時間くらいは効き目が出なくて難儀した。こめかみが凝り固まって中指でごしごし擦ったが、こめかみはいつでも固かった。

学生はつやつやしている

お昼をとろうとコンビニに入ったら学生がたくさんいた。正確に言うと私が入ったときは客はほとんどいなかったがあとから猛烈に人がやってきた。大学がそばにあるからそこの人たちがお昼を買いに来たことは容易に想像できた。しかし土曜日なのであまり人はいないと思っていた。学生の中には「人多過ぎじゃね」とボヤいている人もいたから学生からしてと意外な展開だったのかもしれない。私は学生たちの開けっぴろげなかんじ、慎みのないかんじが怖かった。社会人になるとそこで気付くが人はみんなバリヤーを張って干渉しないのがデフォルトなのであるが、学生のバリヤーはまだまだ薄い。「ジャージャー麺しか勝たん」とか「今日は朝からイライラしてるんだよねー」という言葉が耳に入ってきたがそこには他人を出し抜こう、自分以外を否定しようという意図が伝わってくる。だから私は肩身が狭かった。


というのは私の妄想かもしれないが学生はみんなつやつやしていた。私の子供が社会人になって、一気に疲れた顔をするようになったが、そうなる前はやはり学生のようにつやつやしていた(学生だったから)私もよく母に「疲れた顔をしている」と言われるようになった。そう考えると人は経済的な自立を始めたタイミングで老いるのである。男の学生がだぼだぼのパジャマみたいなズボンを履いてうろうろして、どうして大人はこういうのを履かないのかと考えた。「社会」に出たときにすでに私たちは自分の人生を取り上げられてしまったのかもしれない。

庭は狭く、ノートは広く

月に一度くらいは実家に顔を出すが、どういうわけかこの前の日曜に行ったら庭が狭く見えた。ドラクエ5サンタローズが青年時代に訪れる場合、水路の幅を狭くしているのと同じである。かつて庭ではサッカーやキャッチボールをしたが、よく家にぶつけなかったと思う狭さであった(実際ぶつけまくった)ドラクエのエピソードから考えると誰にでも起きる現象なのだろうか。そう思って家に上がると台所も狭い。かつて母が料理をする脇でダイニングのイスを倒し「お家ごっこ」をしたのを思い出す。脚の部分が建物の壁や柱に相当し、背もたれが畑の畝を表す。いかにも農家の発想である。しかし今はとてもじゃないがそんなことはできない。大人だからそんなのに熱中できない、という意味ではなくイスを倒して私がかがむスペースなどないのである。世界がずいぶん縮んだのである。しかしそれに気づいたのは数日前だった。


庭の隅の柘植の木の根元に軟式野球のボールが転がっていた。一体何年そのままだったのだろう。表面がぼろぼろにひび割れている。最後に野球のボールを放ったのはいつだろう。境目の断定はできないが、かつては日常にボールは付き物で放ったり蹴ったりした。しかし私はスポーツ少年団とか部活とかでボールを扱うことがないのでよくよく考えれば不思議だった。時代的に野球が遊びの必修だった最後の世代かもしれない。夏休みに球技大会があって1週間か2週間毎朝6時半に練習をした。私は大人しかったしスポーツも苦手なので決して愉快な行事ではなかった。知らない人ばかりで緊張をした。私はフォアボールばかり選ぶので、必ず途中で交代させられた。そういえば利口な子は参加を拒否していた。私は羨ましいと思いながら「どうしようもない奴だ」とその人を馬鹿にした。私たちのお母さんたちが女子マネージャーになって、守備から戻ると麦茶や蜂蜜漬けのレモンを振る舞ってくれた。それらがとてつもなく美味しかったのは覚えている。だから100パーセントの悪の思い出だったわけではない。


庭は狭くなったがノートは広くなった。私たちのころはB5サイズが基本だったのにA4サイズが今だからである。高校の頃ウケ狙いでA4サイズを買ったがこんなに広いノートを使いこなすのは難儀だなと思った。今は私の目の前にあるのはA4サイズの書類ばかりだが、とても難儀だとは思わない。A4も少し縮んだのかもしれない。

蛇の目

子供の入学式に出席した。式が終わって子供が教室へはけると蛇の目の女が出てきた。これからクラスの役員を決めようと言うのである。私はこの女の目にすっかり縮みあがってしまった。みんなで揃いのウィンドブレーカーを羽織っているが、とても仲良しさも和やかさも伝わってこない。さきほど挨拶した会長も心なしか表情がこわばっている。蛇の目の女が牛耳っているのは明らかである。


ここからグループごとに割り当てられた教室に各自向かうのだが、とにかく指示が複雑かつ難解で参ってしまった。トイレに行きたい人は申告しなければならず、トイレに行きたくない人はその場に待機しなければならない。男と女で申告する係が違う。勝手な行動をとると必ず迷うからと注意され緊張感が一気に増した。私は「ショーシャンクの空に」を思い出した。残された私は最後に体育館を出て「実験室」と表札が掲げられた部屋で待機することになった。もちろんナチの実験室ではないだろう。中庭に差す春の光がまぶしく見える。


するといきなり蛇の目の女が部屋に飛び込んできて
「ナガシマさんの保護者の方、いらっしゃいますか?」
と訊いてきた。私は「脱走者が出たか」と思った。ナガシマさんは見つかり次第中庭で銃殺刑に処されるのかもしれない。

夢を抱いてもしんどいだけ2

浅草の洋食店に就職した3人のうちひとりの男性は早々と退職してしまっていた。週休1日という勤務体系や寮暮らしというのに我慢ができなかったのである。転職して今はイタリアンでシェフとホールの間みたいなことをしているらしい。間、というのはサラダは盛りつけますよという意味だった。サラダというのは相手を罵倒するのにも、自分の見栄えを良くするためにも使える便利なアイテムらしい。

私の感覚なのか番組の演出なのかこの男性の器用さが鼻についた。番組の演出と言ったのはインタビューの顔の角度が絶妙にムカつくかんじで前髪も妙に長かったからである。アリとキリギリスのキリギリスに見えてしまうのである。しかし冷静になって考えると生き方としていちばん正しい(というかなんというか)のは彼である。将来ではなく、リアルタイムの自分の声に耳を傾けて行動したのである。


従業員の話ばかり書いたが、オーナーシェフの状況も身につまされるぶぶんがあった。70歳を超えて「俺の教育が間違っていたのかも」と悩むのは幸せなのか反対なのかわからなかった。

夢を抱いてもしんどいだけ

妻がフジテレビの「ザ・ノンフィクション」を見ていてそれは録画されたものだったのでいつ放送されたものかわからない。浅草の洋食店に就職した若い人が辞めたり続けたりする話だった。私自身も今は若い人の面倒を見たりするので重ね合わせてしまうぶぶんもあった。お祖母ちゃんにプリンを食べさせたり料理をするのが好きなのでやってきたという女性は早々と「私にはホールのほうが向いている」と言い出し、やがて過呼吸になって辞めてしまった。ホールというのは料理を運ぶ人のことである。実は3人の男女が就職していて、プリンの女性だけがホール担当となってそこで軽い挫折を味わっていた。それは前回の話だったので詳細はわからない。しかし腐らずせっせとホールをやっていたらある日サラダを作れと言われ作ったら意地悪な先輩に「もっと見かけを気にしないと」「こんなぐちゃぐちゃなのお客さんに出すわけ?」言われしょげてしまった。その悔しさをバネにして、という考え方もあるし欠点をズバズバ伝える方がコスパがいいのは間違いないが私はかつてプリンを振る舞われたお祖母ちゃ
んも「見栄え悪いな」と思ってたのかなとか考えて気の毒になってしまった。お祖母ちゃんはもう病気でほとんど食事をとれずにいて、それでも孫をがっかりさせたくなくてプリンを食べたのかもしれない。


それで明るさが取り柄の女性もそれがきっかけかは知らないが徐々に暗くなってオーナーシェフにも厳しい言葉をかけられ過呼吸になって辞めてしまった。私は夢を追うというのがなんだかとても不幸せなもののようにかんじてしまった。この後また新しい若者がやってきて「いつか自分の店を持ちたいと思って」と言っている。それは結構なことかもしれないが、彼はこの後ずっと店を構えた将来の自分と今の自分を比べ続けるのである。先輩に「お前こんなぐちゃぐちゃな盛り付けでお客さんに出すわけ?」意地悪な叱責を受け、自分のプライドを守るために「実は俺料理人とか向いてないのかな」と考え出すのである。「それで嫌になるなら最初から向いてなかったんだよ」という考え方が結果論みたいで私は好きになれない。それはただの誘導である。


自分の店を持ちたい、と言った若者が「朝から晩まで好きな料理のことを考えたい」ということとはイコールにならないことが、どこまでわかっているのか不明だ。私はいくつか勤め先を変わったが、その半分は入ってみるまでどんな業務なのか知らなかった。だから比べる将来の自分がいなくて幸運だった。知らなければ目の前のスキルの習得に素直に喜ぶことができたからである。