意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

前世の記憶

小学2年のとき好きな人がいてその人のパンツを体育館の何かの集会のときに見てしまったことがある。男子の列と女子の列がありその人は私の斜め後ろに体育座りをしていて私が後ろを振り向くとちょうどスカートの奥の白い下着が見えた。ジーンズ生地のような硬い素材のスカートだったので脚をちゃんと閉じないと奥まで見えてしまうのである。私はうれしくなりながらもあまり大っぴらに見ると覗き見ていることがばれるしばれたら一大事なので後ろの男子生徒に話しかけるふりをしながら何度も盗み見たのである。実は話しかけたふりというのはちゃんとした記憶があるわけではなく、私の後ろに座っていた男子など微塵も憶えていない。家に帰ると母に「パンツ見ちゃったんだよね」と報告した。私はその前から母には自分の好きな人のことを知らせていたが一緒に喜ぶことはせず「まあ」という短い反応のみだった。私をたしなめることはことはしなかった。私は今は人の親になって自分の子供の恋愛については何も知らされなかったが恋愛対象の下着について報告されたらたしなめてしまったかもしれない。それどころか後からその話を蒸し返してからかったかもしれない。そのうちに私は恋愛の話など親にはしなくなったが母は蒸し返すことは一度もなかったのでそういうところは尊敬できる点である。


上記の出来事を何かの拍子に思い出したりまた、思い出さなかったりしたが最近思い出したときは今までとはかなり距離感が違っていてまるで前世の出来事のようにかんじた。例えば上記のことは人に話したことはなかったが今日は文章にすることができた。それは遠い昔の出来事だからというわけではなくもっと昔のことでも前世のようにかんじるとは限らない。何にせよ別の人生のようにかんじることができたなら私はいつからか他人の人生を生きている。