意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

過去も未来もないというのはどういうことか

夕方になって光が強くなる。朝は雨が降っていて昼も降ったが昼過ぎに昼寝をすると日が差していた。私は休みだった。妻も休みだったから食べに出かけた。丸広の地下でケーキを買った。何故なら私が誕生日だったからだ。私は本当は小魚チップスが良かったがそれも買ってもらえたから良しとした。しかしこの夏に新潟で食べたやつのほうがもっと干からびていてうまかった。ちょっとねっとりしたぶぶんが多い気がした。夕方になって買い物に出かけ会社で使う引き出しの仕切りを買った。帰りのふと停まった交差点でこれでは足りないと判断し買い足すためにまた店に戻った。二度目の店員は一度目よりも不機嫌でぶっきらぼうだった。店内が混んでいた。ホームセンターの天井は高く秋の空のようである。私は棚などを物色したが棚を置くための棚に売り物の棚を利用しているコーナーがよく見るとあった。商品を開封して店員が組み立てたのだろう。こういう場合内部消費の手続きとかは猥雑ではないだろうか。そんなことを考える。会社組織も一定以上になると役所のように手続きばかりになってしまう。視野の狭い人は「上は馬鹿だ」とすぐ言うがこれは人類が集団生活を始めたときから抱えた宿命というか欠陥というかそういうのだろう。血縁関係以外の人と集団になったときから手続きみたいなのは生まれたのだろう。仲良しどうしならなあなあで済む問題も一度温度差が生まれるとたちまち手抜かりを指摘される。


二度目に店を出ると西日は尚強くなった。信号機が負けじとさらに強い光を発する。信号機はえらい。消防車とパトカーがいた。私はサングラスをかけたが真横に日があるため意味がなかった。建物や植物が不定期に陰になり光は点線になって私の元にやってきた。運転する影も伸び陰だけ見たらマイクロバスのようだった。私はふと過去も未来もないとはどういうことかと考えた。それは拳をグーにしたりパーにしたり人生はただそれだけでありつまりそれは赤ん坊と同じであると結論づけた。それらが連続したときには途方もないくらいに複雑に見えるが連続のためには過去と未来が必要なのでそれらはすべて錯覚や勘違いの類であった。

まだ靴をおろしていない

夏に入る前の6月おわりから7月頃に新しいランニングシューズを買ったがまだおろしていない。前のというか今履いているのはたしか2011年の秋に買った。その年の春に会社に新しい人が入ってあるときその人が割引券をくれたのでそれを買った。私がその会社に入ったのはその一年と少し前で私はほどなくして腰をいためて隣町の接骨院にひと月くらい通った。遠かったがそのときそういう場所にかかるのが初めてだったので父の知り合いのところを紹介してもらったのだ。それからしばらくは調子が良かったがあるときまた酷くなったので今度は家のすぐ近くのところにした。いつのときも一週間も通えば良くなってしまうのだが先生はまだ通ったほうがいいみたいに言うし「どこまで治ったら最後」みたいな見通しを示してもくれないし治療代は通うほど安くはなるが馬鹿にはならないしでいつ止めようかやきもきしてしまう。良くなったと早合点してすぐに悪くなったらバツが悪い。接骨院はどこも電気を流してくれるがだんだんと退屈になってくる。最初に来たときは藁にもすがる気分だったのに。


それでも最初の接骨院は年明け見て大丈夫ならOKと言質をもらい「治ったらもっと運動しなさい」と言うから走ることにした。走るのは好きではないが気楽ではある。最初の頃は夜に走っていて格好も寝巻きだった。靴は義父が定年祝いにもらったスニーカーをくれたのでそれを履いた。私は何を始めるにしても形から入るのが嫌だった。ドラムをやっていたときも自分のスネアドラムを買ったのは始めてから五年か六年経ってからだった。物を買うと自分の部屋が狭くなったりあるいは物を置いておくと定期的に掃除をしたりとか手入れをしないと自己嫌悪をおぼえるから嫌だった。いらなくなったから捨てるというのも抵抗があった。一時期ミニマリストという言葉が流行ったがその定義は定かではないが物を持つことに消極的という面では私はミニマリストだった。自己分析するに私は子供の頃は割と玩具なんかをよく買い与えられたから物を持つことの鬱陶しさを早くから感じていたのかもしれない。よくある話に親から物を買ってもらえなかった子供が大人になってものすごい収集癖を発揮するのと逆のパターンである。ちなみに私は子供の頃母がいつも柿ピーばかり買ってきたが私は柿の種がいつも邪魔で仕方なく大人になってからはバタピーしか食べなくなった。

多数の異性を見ると眠くなる

子供の文化祭に行ったら子供は女で女子ばかりの高校に通っているので校舎等は女子であふれていた。男性も少数いて校舎には男性トイレもあった。男性トイレは男性教師が掃除するのかしらとか考えたがそもそも私立だから掃除は掃除業者の仕事かもしれない。子供の頃ドイツの学校は小学校でも掃除は業者が行い子供は勉強のみだと教わって違和感を持った。しかし振り返ってみて学生時代にトイレ掃除をしてそれが何か役に立ったとは思えない。ウンコが逆流してきたとかそういう思い出はあるが。


中には垢抜けた顔立ちの人もいたがだいたいは子供っぽかったり逆に老け顔の人もいた。化粧をすると通り一遍の顔になるからたくさんの顔は見ていて飽きなかった。信じられないくらいもっさりした髪型の女がいて目を引いた。そのうちにこまめに美容院に通うようになるのだろう。あるいはもっさりのコミュニティーがどこかにあるのかもしれないが私は知らない。妻は公立高校で自分のときはみんな化粧をして髪にカールを巻いて口紅をして参加したと言った。そんなもの見たいとは思わない。共学だからたくさんの人がきたと言った。私も共学だったが私が高校のころは雨ばかりで私は体育館と校舎の間の通路に突っ立ってずっと外ばかり見ていた記憶しかない。別に雨に興味を持っていたわけでなくそこが比較的人が来ないエリアだったのだ。友達がいないとかそういうわけではないが文化祭の記憶はほとんどない。高二のときは一生懸命看板を塗る作業にあたったがクラスで何屋さんをやっていたのか最後まで知らなかった(ドーナツ屋さん?)大学になると近づきもしなかったがその間休みになるからありがたかった。


家に帰ると猛烈に眠くなって昼寝をした。上着がめくれて腹が丸出しになったが隠す余裕もなかった。夕方実家に米をもらいに行く予定だったが遅くなって母を心配させた。母は来週金沢に行くと言った。金沢がイメージできない。昨日の夜に下の子が東北の覚え歌を台所で歌っていてまたつまんねえ芸人かYouTuberが出てきたのかと思ってケチをつけたら子供の自作だった。早く北陸バージョンと九州バージョンを作ってほしいと思った。

清々しい思い出

昨日の記事の終わりに「清々しい記憶についてはまだあるがあとで書くことにする」と記したがそれでは書こうと思うととたんに面倒くさくなる。何故なら全体像が見えているからである。締めには「先生も大変に満足らしい様子であった」とくるのが決まっていてそこにきちんと着地できるかハラハラしてしまう。私はそれでも記憶を改ざんすることについてはとくに抵抗もないから書きよいようにやれば良いのだがそうすると端折ったような書き方になってしまう。端折るのと改ざんするのは全く違うのである。思うに考え抜いたことを書くのはクリエイティブさに欠ける。考え抜いてしまったらそれ以降はすべて模写なのである。アウトプットと言えば聞こえは良いがそれは単なる作業である。


とにかく当時の松本先生は大変に美味しいオニギリを握る方であった。子供たちの食がいまいち進まないと職員室から塩を持ってきてオニギリをこさえるのである。味についてはまったくおぼえていないが男女問わず配膳台の前に長蛇の列ができるのが常であった。わかめご飯のときはわかめオニギリとなった。先生がご退職される日には他の学年の生徒もやってきて上級生たちは地べたに座って先生の話に耳を傾けた。私はやはり話の内容をまったくおぼえていなかった。振り返ってみるとこれまでの人生でおぼえていないことのほうが多い。

こだわり

何日か前に読んだ記事でその人は小学低学年のころを思い出していて一辺1センチの正方形の対角線の長さを測ったら1.4センチだったが他の多数は1.5センチであったが教師は多数のほうを採用しその人は邪険にされた。こうしてかいつまんで書くと嘘っぽいがクラスの中の声の大きな人が「こうだ」というと主張すると全体がそれになびいてしまうことはよくあった。あっただろうか? 記事を書いた人はこうしたことは社会にでるとむしろ当然のことであり正しいが少数の人はその正しさを他の人に納得させられない限り後にその正しさが明るみに出てもむしろそのときに他を納得させられなかったから責めに帰されるという。私はなんだか話がつながらないし腑に落ちる内容ではなかったがいくら「責められて当然」という話の分かる風な顔をしていても内面ではだいぶこだわっている風がかんじてとれた。


私にも同じような経験がありこれは昔かいた小説にも書いたが中学のころ合唱祭の練習があってその前に門のところの掃除当番だったから掃除していたが私たちの働きは不十分で担当の教師はやり直しを命じた。やり直しをしていたら合唱祭の練習に遅れるから班の人は私に教師にやり直しを免除するよう訴えるよう頼んできた。何故なら私が班長だったからである。あるいは私がいくらか弁が立つと思ったのかもしれない。私はまったく気乗りがしなかったが気の強い女子が「大丈夫だから」と諭すから職員室に向かった。大丈夫の根拠は私の通った中学は合唱が盛んでコンクールが近づくと昼も夜も生徒は気が狂ったように昇降階段や廊下で歌いまくり教師も熱くなる。そんな中音楽室で練習できるのはせいぜい一度か二度でそんな貴重な練習を掃除のやり直しでふいにするなんていくら強面の体育教師でも不憫に思ってやり直しを免除してくれるだろうということだった。私は虫が良すぎやしませんか? と思ったが一応訴えてみると
「だから?」
と言われ掃除の免除を求めると
「そんなこと私には関係ない」
と突き放された。私はショックよりも安堵の気持ちになった。むしろ清々しかった。胸を張って訴えが退けられたことを伝えるとみんなは文句を言いながら再び箒を手にした。


私はこの出来事について少なくとも数年前までは特別視していたが今振り返るとどうってこともない。と書こうと思ったがこうして書いてみるとやはり引き込まれる何かがある。書いているこちらも清々しいのである。一方でこの教師の心境も危うかったのではないかと思った。人を「関係ない」と突き放すときむしろ突き放されているのは自分なのである。


清々しい記憶はもうひとつあるが後で書く。

理科

朝起きてふとベッドの脇を見ると「理科」と書かれた紙が置かれている。そこは子供が今日着る服の上においてあるから尚且つその子供とは小学生だから私は大して奇妙なこととは思わなかった。理科にかんする何か忘れてはならない事物があったのだろう。思えば私も少年時代「尿検査」と書きなぐった紙をドアに貼ったクチである。朝いちばんの尿をとらなければいけないから起きたときの流れで何も用意せずに用を足してしまうことを防ぐための措置であった。しかしそういう措置はしてもしなくとも同じだった気がする。そう思うのは私が生涯であまりメモをとらず手帳も持たず予定も書き込まずに過ごしてきたからだろう。書かなかったことで大きなトラブルを起こしたことはない。


同じように私はマニュアルというものを読んだり作成したりしたこともあまりなくゲームの説明書だのはきっちり読むのが好きだったがせいぜいそこまでが限界だった。初めてかその次くらいに持った携帯の説明書は読んだがとちゅうで挫折した気がする。しかし私の好き嫌いに関わらず私は今までの仕事で一度もマニュアルというものが用意されたことがなくだいたいどこへ行っても「見ておぼえろ」というスタンスだった。怖い先輩は「一度だけやってやるからそれでおぼえろ」と言った。やや優しい先輩は「時間がないからまた聞いてもいいからこれでおぼえて」と早口で説明した。確かに実際にやっているのを真似するのは仕事をおぼえるのに効率的だった。


年を重ねて教えることが多くなると自然と私も「見ておぼえて」というスタンスをとることが基本となったが見せたって誰もおぼえないことにやがて気づいた。相手も悪かったが私も過保護すぎるのかしらと最近思うようになった。自分が味わった嫌なことを相手にさせないようにしようと気遣うがそのせいで情報量が膨大になって「差し当たってじゃあどうするの?」みたいなかんじになってしてくる質問もてんで的外れだ。黙り込む人もいる。頭をぶつけなければダメなこともあるんだなと思うようになった。なんて不親切なんだなんて無能な人だ俺はこうはならないと思われるのは癪だがこのあたりが私の限界なのだろう。


最近になって書いて伝えるとだいぶ良いということに気づいた。他の部署の人がクイックマニュアルを作ってきたのでそれを渡したら放っといても仕事が回るようになった。稼いだ時間で新しいマニュアルをつくって私は満足した。そうしたら「マニュアルのせいでこの仕事が誰にでもできるようになってしまい自分が必要ないと言われているようにかんじた」という旨のこと言われ色々だなと思った。

視覚化されない思考

三國志を読んでいて結構な量であるが三割近くまで読んできてここまで高速道路みたいにすいすい読んできたがだんだんと疲れてしまった。これは結論として「思考の飢え」のようなものではないかと思った。私は昨日「人がぼこぼこ死ぬのはエンターテイメント」という旨を書いたがつまりその人の人格だのが軽んじられるととたんに作り物の世界だとかおままごとの世界のように認識してしまうということだった。(そう考えると戦争はエンターテイメントなのかもしれない)とにかく他人事になって傍観者となれるから大したストレスもなく読み進むことができる。私はここのところ仕事でもイライラすることが多いから何かの場面で傍観者になれるとそこに幸せを感じることが増えたがやはり限界がありどこか自分事としないと気が済まないところがあった。


ところで同じような動機で読み始めた「モンテ・クリスト伯」はこのような引っかかりもなく「一気に」読めたのは何故だろう。よくよく思い出すとモンテ・クリスト伯を読み出したのは小島信夫が「寓話」の中で引用していたから興味を持ったというのもあった。引用されたのは後々に主人公を苦しめる検事の父親が革新派でそこらで指名手配されているから子である検事の前で変装をするというシーンで検事は王党派であるから軽く口喧嘩をしながら父親はすっかり別人になりすましている。私はそのようなシーンが長い小説のどこに出てくるのか心待ちにして読み出したら序盤にあっさり出てきてしまい拍子抜けした。どうして文庫本五冊だか七冊もある話の中でそこが引用されたのか読んだ多くの人はおそらくそんなシーンがあったことは忘れてしまったと思われる。小島信夫が引用するのだからモンテ・クリスト伯には思考の飢えを満たすものがあったのだろうか。あるいは私が義務をかんじただけかもしれない。


私は三國志に飽きを埋めるため保坂和志「小説の自由」を読んだ。「視覚化されない思考」という章を拾い読みしていたらエンターテイメントという単語が出てきた。

大藪春彦」という固有名詞はいい加減な当て推量でたいした根拠はないけれど、社会の片隅に生きる取るに足りないとみえる「私」でも、社会の歪みを一身に引き受けていて、それゆえ「「私」には社会と全身全霊を賭けて闘う価値がある」とか「「私」が体現している社会の歪みや人間としての苦悩は、小説として書かれ読まれる価値がある」というのがここ二十年か三十年間のエンタテインメント小説の大きな流れであって、そこには三島由紀夫の匂いがする。
 それらの小説の主人公たちは、「私」が経てきた経験や忘れようとしても忘れられない過去にがんじがらめに縛られている。言い方を換えれば、「私」を疑っていない。その「私」は、日本の近代小説が描いてきた「私」と、ぴったりサイズが一致する。私たちが日常で最もふつうに名指すときにイメージする「私」とも、ほぼ一致する。どれだけ呆れるほど肥大したグロテスクな「私」であろうとも、それは私=自我という等式を壊さない「私」でしかない。

引用中の「私」は元では鍵かっこではなく傍点が振られている。中公文庫「小説の自由」保坂和志