意味をあたえる

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視覚化されない思考

三國志を読んでいて結構な量であるが三割近くまで読んできてここまで高速道路みたいにすいすい読んできたがだんだんと疲れてしまった。これは結論として「思考の飢え」のようなものではないかと思った。私は昨日「人がぼこぼこ死ぬのはエンターテイメント」という旨を書いたがつまりその人の人格だのが軽んじられるととたんに作り物の世界だとかおままごとの世界のように認識してしまうということだった。(そう考えると戦争はエンターテイメントなのかもしれない)とにかく他人事になって傍観者となれるから大したストレスもなく読み進むことができる。私はここのところ仕事でもイライラすることが多いから何かの場面で傍観者になれるとそこに幸せを感じることが増えたがやはり限界がありどこか自分事としないと気が済まないところがあった。


ところで同じような動機で読み始めた「モンテ・クリスト伯」はこのような引っかかりもなく「一気に」読めたのは何故だろう。よくよく思い出すとモンテ・クリスト伯を読み出したのは小島信夫が「寓話」の中で引用していたから興味を持ったというのもあった。引用されたのは後々に主人公を苦しめる検事の父親が革新派でそこらで指名手配されているから子である検事の前で変装をするというシーンで検事は王党派であるから軽く口喧嘩をしながら父親はすっかり別人になりすましている。私はそのようなシーンが長い小説のどこに出てくるのか心待ちにして読み出したら序盤にあっさり出てきてしまい拍子抜けした。どうして文庫本五冊だか七冊もある話の中でそこが引用されたのか読んだ多くの人はおそらくそんなシーンがあったことは忘れてしまったと思われる。小島信夫が引用するのだからモンテ・クリスト伯には思考の飢えを満たすものがあったのだろうか。あるいは私が義務をかんじただけかもしれない。


私は三國志に飽きを埋めるため保坂和志「小説の自由」を読んだ。「視覚化されない思考」という章を拾い読みしていたらエンターテイメントという単語が出てきた。

大藪春彦」という固有名詞はいい加減な当て推量でたいした根拠はないけれど、社会の片隅に生きる取るに足りないとみえる「私」でも、社会の歪みを一身に引き受けていて、それゆえ「「私」には社会と全身全霊を賭けて闘う価値がある」とか「「私」が体現している社会の歪みや人間としての苦悩は、小説として書かれ読まれる価値がある」というのがここ二十年か三十年間のエンタテインメント小説の大きな流れであって、そこには三島由紀夫の匂いがする。
 それらの小説の主人公たちは、「私」が経てきた経験や忘れようとしても忘れられない過去にがんじがらめに縛られている。言い方を換えれば、「私」を疑っていない。その「私」は、日本の近代小説が描いてきた「私」と、ぴったりサイズが一致する。私たちが日常で最もふつうに名指すときにイメージする「私」とも、ほぼ一致する。どれだけ呆れるほど肥大したグロテスクな「私」であろうとも、それは私=自我という等式を壊さない「私」でしかない。

引用中の「私」は元では鍵かっこではなく傍点が振られている。中公文庫「小説の自由」保坂和志