意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

腰が曲がったおばあさん

朝から子供に「今日は荷物が多いので一部を届けてほしい」と頼まれ「やだなあ」と思った。私はいつだってアウェイなところに行くことになると怯む。子供からしたら大人だからへっちゃらだろうと思うだろう。私もかつてそう思いながら母に甘えた。父は怖かったから言えなかった。父が怖そうに振る舞う裏にも「アウェイに対する恐怖」があったと思われる。


私があんまり渋ると子供が「じゃあ自分で持って行く」と言うから「そこまで言うなら」と引き受けた。正確に言うと私は校門までならいいが中に入るのは嫌だからそこまでは来てほしいと頼んだら「授業の準備があります」と言われ「少し早めに行く」と譲歩しても取り合わないから渋った。私の子供のころは授業が始まるまで生徒は外で遊んでいたからその間かもしくは校舎に入るタイミングで校門のほうに寄ってくれればいいのにケチだと思った。外にいるだろと言うと「いない」と言う。実際に行ってみると外にでている生徒は数えるほどだった。おそらく一時間目が体育とかそういう類の生徒なのだろう。私が小学生のころはみんな校庭に出て校舎からは天使がパンツを盗まれる歌や馬場チョップの歌が流れていた。運動会が近くなると「ソーラン節」が流れたがそれも今は昔だ。昔は校門も開けっ放しになっていて下手をすると近所の未就学児が親を伴って滑り台を途中からすべったりしていたが今は門は堅く閉ざされている。脇には「防犯カメラ有り」と貼られていて不審者に見られたらどうしようと不安になる。じつは前にも忘れ物を届けたことがあるからそこまで不安でもなかったがルールとしては2階の事務室に届ければいいが子供は
「入り口の脇にインターホンがあるから押せばいい」
なんて呑気なこと言うなと思ったが行ったら本当にインターホンがあって「ご用の方は押してください」なんて書いてある。ところがその脇には手書きで
「ご用の方は2階の事務室にお越しください」なんて書いてある。素直にとるならボタンを押して階段を駆け上がればいいのだろうがそれではピンポンダッシュだ。やったら楽しそうだが事務員から白い目を向けられるのは明らかなので2階に上がった。来客用のスリッパがあるがすぐに帰るから靴下のまま階段を上がったらジャージを着た事務員に
「教室まで持って行ってください」
と言われて渡り廊下に出た。数年前に忘れ物を届けたときは預かってくれたが方針が変わったのか。親の振りして不審者が子供のいる方に行くのを防ぐための決まりだと思っていたが面倒くさくなってしまったのか。あるいはあれは子供に里心を抱かせないための措置でうちの子はもう高学年だから親が来ても動揺しないだろうという判断なのかもしれない。私は確かに第一声で「4年1組の......」と言ったから向こうは「ああ高学年か」と判断するタイミングがあったから里心うんぬんは一応筋が通る。前に行ったときはたまたま教頭がいたから教頭に渡したが教頭は気の弱そうなおばさんの教頭だった。私が小学生のころやはりおばさんの教頭だったがとても怖いおばさんで廊下をはしると物凄い剣幕で怒るからみんな職員室の前は摺り足だったから職員室の前はいつも「しゅーしゅー」という音がした。今の教頭はいかにも気が弱そうだが子供から見たら怖いのかもしれない。


教室に行って荷物を渡し元来た道を早歩きと小走りとどちらとも取れそうな動きで戻りまた階段を降りて開けっ放しの校門を出て車に戻った。ほんの一分で終わる仕事だと思ったから門も開けっ放しだし脱いだサンダルも脱ぎっぱなしだった。子供のいる教室が2階なのか3階なのかわからなくなった。3階だった。教室にはすでに先生がいて先生にまで挨拶をしなければならなかった。最初すれちがった子供には「おはようございます」なんてPTAのえらい人を装ったが2人目以降は面倒くさくなってやめた。教師は元気にやってくるからこっちも元気に返さないときまずくなるから愛想よく挨拶した。担任に
「今日は荷物が多かったみたいで」
とここまでやってきた背景を話すと
「すみません」
と謝った。男である。私よりもずっと若い男だが春より少し成長したような気がする。


車に戻るとびっくりするくらい腰の曲がった老婆が一輪車を押していた。一輪車には枯れ枝が積み上げられそれは老婆の曲がった腰よりも高く積み上げられていた。これで前がみえるのかと私はハラハラしたが木の隙間とかから見るのかもしれないしあるいは見る必要はないのかもしれない。直角よりも深い角度で曲がっていてここまで曲がる人も珍しいと思った。その人が学校の前の道を曲がると近所の人がいてその人が声をかけその人の腰は曲がっていなかった。私はその人たちの間を抜けて会社に向かった。

前の前の朝ドラの主人公は合唱のドラマに出ていた

一昨年の朝ドラ「朝が来た」以来わが家はNHKの朝ドラを録画して見ている。「朝が来た」は江戸時代末期が舞台になっていてあるとき新撰組土方歳三がやってきてそれが山本耕史が演じていた。その十年前に大河ドラマで「新撰組」がやっていてそのときも山本耕史土方歳三を演じていて暗に世界がつながってますよということを匂わせていた。私は大河ドラマ新撰組はその年の正月から「いっちょ見てやろう」と決心し見始めたが春から就職したから見続けるのはけっこうしんどかった。元からドラマを見続けるのが苦手なのだ。放送当時にちゃんと見たので今ぱっと思い出せるのは陣内孝則雛形あきこが出ていた「ストーカー」くらいである。自分のタイムテーブルに合致すると割と見やすく高校のころは毎日4時半ころには家に帰っていて4時半からドラマの再放送がやっていてよく見ていた。おぼえているのはタイトルは忘れたが佐野史郎野際陽子賀来千香子が出ていた「冬彦さん」の続編のドラマとかあと王様のレストラン。「王様のレストラン」は毎回最後に「それはまた別の話」と言って終わるのだが自分が漫画や小説を書いていたときも真似していた。そういえば「踊る大捜査線」や「ショムニ」も見ていた。どちらもおもしろかったが私は「ショムニ」派で「踊る大捜査線」は前半おちゃらけているが後半織田裕二がマジになるのが照れくさかった。「ショムニ」も江角マキコがマジになったりするがそこまでシリアスなかんじがしなかった。

私の三半規管

三半規管が必ずしも関係しているかわからないが私はすぐ気持ち悪くなる。先日も船に乗って船酔いをした。バスに乗ればバスに酔う。山道では自分が運転していても酔う。それでも他人の運転よりかはいくらかマシなので他人として出かけるときはなるたけ自分が運転するようにしている。


乗り物だけでなく延々と同じことを繰り返す音楽や映像も苦手だ。この前仕事中に同じ曲をずっと流している人がいてうんざりした。以前の職場で一日中名前は忘れたけど確か当時現役女子大生でデビューしたアールアンドビー歌手がいてその人の歌を一日中リピートしていてあのときはほんとうに吐き気をおぼえた。色々ツラいことがあってやめた会社だが音楽は好きなものをかけていいことになっていて私も「好きな音楽とかあります?」と言われドアーズやツェッペリンを持って行こうと思ったが持って行かなくて良かった。しかしそこの社長という人が「ツェッペリン嫌い」と言っていたからどちらにせよかけなかったと思うが。

三国志が読み終わる

だいぶ長い小説だったが三国志が読み終わりもう曹操も桃園トリオも死んで夏候淳も病死した。周楡はとっくに死んだ。みんな老いてそれぞれの国をとって落ち着いてしまい前半のようなバタバタしたかんじがない。それこそ以前取り上げたときは曹操が自分を匿ってくれた家族が曹操をもてなすために猪をばらすのを自分がバラされると勘違いして皆殺しにしたまたま酒を調達に行った主人は無事だったがあとで無残に殺された家族とあいまみえる気の毒だからとついでに殺したりまた一方の玄徳もたまたま寄った農家が貧乏でもてなすものがないからと妻を納屋で殺してその肉を振る舞い朝になってそれを知った玄徳が感激したりとわりかし読み応えがあった。戦争の話だからいつも誰かしらの首が飛んだりするが前述のエピソードにくらべればはるかに常識的で微笑ましい。


手塚治虫の「ブッダ」もブッダが悟りを開いてから話が停滞してその前よりかはつまらない。ずっと史実と戦っていて後半は特に気を遣っているような印象をもった。突然わいて出てきたサーリプッタとモッガーナはブッダのお気に入りだが読者の思い入れとしては呪われた出自に悩まされさらに唖の恋人まで殺されつつも健気にブッダに付き添うアナンダのほうがはるかに上なのにブッダは「教団の後釜はサーリプッタとモッガーナだ」と宣言して裏切られた気持ちになった。しかもこの二名はブッダよりも早く死にその死に様も「サーリプッタとモッガーナが旅先で死にました!」と手下が伝えるのみで場面の描写はない。そんな彼らなのにブッダは「ガーン」てかんじでショックを受け他にも「私はブッダの子供を孕んでいる!」と出てきた大柄の女は敵の罠だったがブッダは思い切り動揺したりと本当に悟ったのか? と思わされる。おまけに寝てばかりいたら夢に出てきたブラフマンに旅に出るよう急かされる始末。悟りを開く前の若いブッダは苦行を積んでいてあるとき立派な苦行者がどこそこにいると聞いてデーパと2人で訪ねに行くと苦行者はすでに骨だけになっていた。ハゲタカに自分の肉をつつかせる苦行をしていて命を落としたのである。デーパは「立派だ!」と感激するがブッダは疑問を抱く。デーパは十代の若者がロックに心酔するみたいに苦行に見入ってそういう人は往々にして死を過小評価するのである。私は三国志の後半にブッダの後半を重ね合わせた。


そういえば昔に教育テレビで「人形三国志」というのがやっていて文字通り人形劇だったが私がおぼえているのは孔明の声を森本レオがやっていてナビゲーターを若いころの島田紳助松本竜助がやっていたことくらいでほとんど見なかったが今見たい。私の弟は昔トークにかんしては島田紳助を師とあおいでいて当時中学生で高校入試の面接で「尊敬する人はゴーダマ・シッダルタブッダのこと)です」と答えたらしい。一方の私のトークの師は誰かと風呂で考えたがそれは米米CLUBカールスモーキー石井です。

口の位置がおかしい

朝というか昨晩からイライラするから早く寝た。夢を見たがその夢の中でも「イライラするときは寝てしまうのがいちばん」と主張した気がする。家族は気温がさがって私の動きが鈍くなったと思ったに違いない。私は家族からしたら爬虫類のようなものである。会社でも苛ついたが周りの人が親切なのでおさまった。いつでも他人という種類は親切にできている。それで朝に話を戻すと朝になってもやはりイライラするから会社に行くギリギリまで布団をかぶっていた。完全には寝なかったがいくらか意識が遠のくタイミングもあった。ふと唇を結んだとき結んだ箇所と中の歯と歯が合わさる場所がずれていることに気づいた。上唇と下唇が合わさる箇所は前歯の真ん中あたりである。こんなにずれていてどうして食べるときに不便じゃないのか不思議に思った。私だけかもしれないがそうじゃないだろう。だから人が笑ったときにまず見えるのは前歯である。出っ歯というときに出ているのが大抵前歯なのは唇が上の方についているからだろう。無理をして唇のあわせ目と歯のあわせ目を重ねて鏡を見ると鼻の下が伸びた間抜けな表情があらわれたがどこか原始人のような風貌であり私たちは大昔は歯と唇がまっすぐ重なっていたんだと思わされる。

インスルージアウトドア

休みだったので寒かったので子供を送り出した後に二度寝したら自宅のガレージでガレージの中には私の友達が2人いて私はレッドツェッペリンのアルバム「インスルージアウトドア」の話をしている。その中に「オールマイラブ」という歌があるので歌って聞かせていたら2人とも知らないという。2人のうちひとりは昔一緒にバンドをやっていて当時はロックをやるならレッドツェッペリンは絶対に聞かなきゃダメと言われていて当時購読していたドラムマガジンでもレッドツェッペリンが新たにライブアルバムを出すというと2ヶ月連続で特集を組んだりしていた。もう20年以上も前に解散しているのに。とにかくツェッペリンの歌を知らないのが信じられないので間奏のぶぶんも「ちゅるちゅちゅるちゅちゅるちゅーるちゅるーちゅん♪」と歌ったら頭上のシャッターが降りてきて私の脳天にヒットした。


インスルージアウトドアはレッドツェッペリン最後のオリジナルアルバムでその発売一年後にドラムのジョンボーナムが寝ゲロを喉に詰まらせて死んでバンドは解散した。ジャケットは全部で6種類あってバーのカウンターに座る男を6つの視点でとらえている写真である。起きてからネットで調べたら男の周りにバーテンダーや他の客が全部で6人いてそれらの視点だそうだ。他の視点(ジャケット)を見ると別の視点の主が立ったり座ったりしている様子を確かめることができる。みんなの視点の的の男はカウンター上で紙切れを燃やしているがそれが何であるから全くわからない。ちなみにアルバムは紙袋に入っていて買うまではどの視点のジャケットはわからない仕掛けになっていた。こういう凝ったデザインのアルバムは私は他には浜崎あゆみのベストアルバムくらいしかしらない。あれはしかし浜崎の表情のバリエーションがいくつかあるだけの物だった。


インスルージアウトドアというタイトルは「出口から入る」という意味らしくギターのジミー・ペイジは「出口から入るのが難しい」みたいなことを話していたらしい。アルバムの発売一年前にはボーカルのロバート・プラントの子供が急死し前述の「オールマイラブ」はその息子のことを歌ったバラードとのことだった。私は今日までそんな意味の歌だったとは知らずさらにバラードという意識もあまりなくただ長ったらしい歌だなとは思った。ツェッペリンの歌は比較的長めのものが多い。アルバムそのものはロック色がひかえめでシンセサイザーが前面に出され発売当時も賛否両論だったらしい。私もそんなに好きなアルバムでもない。ジミー・ペイジも「「オールマイラブ」は好きになれなかった」と話していてボーカルが死んだ息子のことを歌った歌を同じグループの人が「好きになれない」とはっきり言っていて外人てすごいなと思った。

世の中にのど飴があることを忘れていた

ここのところ喉が痛くて日曜の夜から違和感あると思ってマスクでもしたら良いと思ったがしないで寝た。日曜は義妹と甥がきていて甥は2人いて2歳と1歳で下の子は手足口病の疑いがあるとのことで抱き上げるたびに手を洗うよう指示された。私も別に抱き上げたい気分でもなかったが他に面倒を見る人がいなかったのである。下の子はまだ1歳になったばかりで目を離すとそこらじゅうに頭をぶつけるから放っておくことができなかった。自分の子供がそういう年代だったころのことはほとんどおぼえていない。一緒に暮らしていて記憶がどんどん上書きされてしまうからだ。そういうときは同じ場所で昔と同じポーズで写真を撮るみたいなことをすると差がはっきりして新旧の記憶が残る。


私は手足口病にはならなかったがその夜から風邪をひいた。私の子供も翌朝「喉が痛い」と言っていたが夜私が帰るともう平気な様子だった。私は「これは数日かかるな」と思って毎朝栄養ドリンクを飲んだ。今日あたりはだるさがなくなってきたが咳が出るようになった。咳が出始めると回復に向かっていることが実感できる。悪くなった喉がはがれて新しい喉ができるができたててうまく水分を保てないみたいなイメージだ。同僚の机を見ると龍角散ののど飴があって「こういうときはのど飴を舐めればいいのか」と思った。春と夏を経て私はこの世にのど飴があることを完全に忘れていた。私の喉は半年くらい丈夫だった。明日あたりに買おうか。私のブログは一番最初の記事はキース・ジャレットのことを書いてその次はVC3000のど飴のことを書いた。