意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

気温を間違えた

毎夜子供に翌日の天気を伝えている。「今日より暑いよ」みたいな感覚的な情報を伝えると「何度になるかきいてるんだ」とダメ出しをされる。社会人のようである。子供は私が会社で遊んでいると思っているらしい。最近毎日3DSを持って行くからパソコンの陰でプレイしていると思っているようだ。そんな場面をスカッとジャパンという番組で見たらしい。あの番組は私も見たことがあるがというかあれに限らず私はドラマの会社のシーンを見るとよく
「ちゃんと仕事しろ」とか
「こんなのばっかでよく会社つぶれねーな」
と文句を言っている。おそらく会社という場所の場面はドラマ性にとぼしいから仕方なくわいわい騒いだり社屋の一部がぶっ壊れるようなシーンばかりになるのだろう。作っている方も呆れかえっているのだろうが金になるからマジなのである。金になるというのはすごい魔法で非生産的なものでも人のモチベーションをぐんと上げる。だから金になることをどんどん突き詰めていくと人はいろんなことを体験できるのである。


一方でこのようなテレビやバラエティのせいで実際の仕事というのがブラックボックス化され子供や働いたことのない人にはイメージがつきづらくなっている。私は今まで5社くらい勤めたがもし「仕事というものがどういうものか知りたい」と相談されたらカフカの「城」をすすめる。「城」はもしかしたら役所のような場所を表しているのかもしれないが私が勤めたところがたまたま役所っぽいだけかもしれないが私の経験から言うと集団で行動するとおよそ不気味な様相になる。末端とトップがびっくりするくらいお互いを勘違いする。私は末端側しか知らないが経営陣はどうしてこうもノーセンスなんだろうと思っていたがたまたま少し上の立場になって視界が広がると今度は別の場所の風習が全く理解できない。


私は一年くらい前はよく仕事をしながら「まるで「城」みたいだ」と思ったが最近はあまり思わなくなったからたぶん集団というものに染まったのだ。集団はただ不気味でつかみ所がない、

三重県て鳥みたい

他に鳥になぞらえた県もあった気がするのですが三重県の形は鳥のようだ。私は三重県の出身の知り合いがいないからどのくらい三重イコール鳥が浸透しているかわかりかねる。逆に三重県の人は埼玉県の形はなにに見えるのだろう。私は甘食じゃないかと思う。そうじゃなきゃ茸の笠のぶぶんかキノコ雲の雲のぶぶんだろうか。埼玉県のかたちはだいぶつまらないが東京もつまらないと思う。昔この辺りは武蔵の国といって武蔵の国はナウシカのオウムのようである。あるいはスポーツウェアメーカーのプーマのプーマを太らせたような形である。あれがどういうわけか小学校のころはピューマピューマとみんな呼んでいて後から「プーマが正しい」と聞いて何の冗談だよと思った。今の小学生は知らないだろうが私が小学のころは始業式と終業式はランドセルを背負わなくてよくてそのときは自由なバッグなどで登校してよく私はピューマの肩下げカバンで投稿して私はさながら自分がピューマのような四足獣の身軽さを得たような気分になった。卒業式は手ぶらで行った。


いつまでも三重県の話をしてるんじゃありません!


風邪をひいた。喉が痛い。帰り道が暗くなった。ヘッドライトにうつし出された塀にまとわりつく雑草が何かの漢字に見えた。漢字には読めるものとそうでないものがあった。一昨日の小旅行でとちゅうのサービスエリアでAKBックリマンというのをやった。イーストとウエストがあってイーストをやったらゆきりんがでた。三個買ったがあとは知らない人だった。チョコを食べたが特に懐かしい気持ちにはならなかった。シールは車に貼ろうと思ったが子供に反対された。その後駐車場でシヤチハタが落ちているのを発見した。シヤチハタは駐車場の街灯の土台の出っ張りに直立不動をしていた。どんな名字が開けてみたら口紅だった。別に私は自分と同じ名字だったら拝借しようとか思ったわけではなく。例えば印字が井上だったら井上が訳あってそこに置いたとか書けたら楽しいと思ったが口紅だっが嘘ついてシヤチハタということにしちまおうと思ったが結局正直に書いた。その後解体中のホテルを見に行きそこは通りに面して建物が並んでいたがみんな2階や3階の高さが違っていた。裏が斜面でそれらの建物よりも高い位置を電車が走っていた。電車は確かに揺れるが船ほどではないので私は船酔いした。デッキで大学生のグループがはしゃいでいてもしかしたら大学生酔いかもしれないと思った。少しずつしか大きくならない目的地の島がじれったくて仕方がなかった。血迷った母親が揺れるデッキで幼児の手を離し案の定男の子は観光客の膝とすねに激突した。気がつくと私は脂汗びっしょりになって手先や足先がぴりぴり痺れた。やばいなあと思って家族のところに行き家族はバーのような椅子が並んだところに座っていたからそのひとつを分けてもらってうなだれていたらやがて船はついて私も歩けるくらいには回復した。

差別がわからなくなった

話題のバラエティ番組についてとくに私が思うこともなく元の記事も読んだときには「ふうん」くらいにしか思わなかったが上記ツイートを目にしてこれは私が幾度か主張した「政治家の言う「未来の子供」は誰のことも指していない問題」と通じているのではないかと思った。大人は我慢しなきゃだけど子供は救ってという理屈はそれは例えば乗っていた船が沈没して板切れ一枚しかないから大人は遠慮しましょうみたいな場面なら通じるが長期的にどっしり構えて取り組んでいく問題では当時子供でもそのうち大人になるから結局のところいずれは大人になる人は大人の範疇とされて誰も救われないが言っているほうは救った気になってしまう。


しかも当の子供だって馬鹿じゃないんだから「大人が我慢しているのに子供が我慢しないわけにはいかない」くらいは考える。大人になったとき大部分は子供のときのことを忘れてしまうからつい子供を見くびってしまうから「とりあえずお菓子をあげとけばいい」みたいなことを言ってしまうが子供は私たちが思うよりも頭が良くて色んなものを見ている。だから私は傷つかないが傷つく人がいるから許せないみたいな。というか私なんかは傷ついている人がいると自分が傷つくよりも傷つくからそういう理屈のほうが通るのではないか。


というか私は差別というものがなんなのかわからなくなってしまったよ。偏見がなくなればいいのか。例えば私の職場に同性愛の人がいたとしたら私の中の正解は無関心でいることだと思っていた。しかし仕事で例えば恋愛にかんするアンケートをしますという類のものがあったときにはどうすればいいのか。私は正直に「わからないんですが」というのが正解だと思う。「木を見ず森を見る」というか。つまり不特定多数の大きな問題としての同性愛者に対しては考えるとしても一度知り合ってしまった個人には特に向こうから言い出すとか特殊な条件が揃わない限りは知らんぷりをするべきた。「色々大変だったんでしょう?」というのが一番愚である。私たちは当事者じゃないかぎりは素人だし寄り添おうとすることが肝要だというのもただの自己満足である。


私は比較的傷つきやすい性格で他人の顔色もうかがうしまたイジメられた過去もある。家族でテレビ番組を見ているとき私が食卓でいちばんテレビに近い席だったが私はしょっちゅう後ろを振り返って父や母が今のこの番組を楽しんでいるかをチェックしていた。しかし仮に楽しんでいないという反応であっても私が「じゃあ好きなの見なよ」と言ってもこの人たちは親権者で私を楽しませる義務のようなものを負っているからむしろ私が「最高に楽しんでいる」となるほうが正解のばあいもあった。そういう自己なので今でも集団で仕事をしていても若い人はどうしてもいじられやすくなるが過剰にいじる人というのがいてこの人はおそらく中学高校は野球部かサッカー部の多数にしか所属したことのない人で他人をいじることはあってもいじられた経験はほとんどないんだろうと思った。そう考えると私は子供のころイジメられたりまた入ったテニス部で私と同じ小学校出身の人が皆無で先輩から校歌を歌うことを強要されたときもひとりだからさすがに先輩たちのほうが気の毒がって仲間の私と同じ小学校出身の人をフォローにつけたらその人もいかにも頼りない虐げられた歴史の中で仕方なく道化を演じているようなかんじの人でみたいな経験があって良かったと思う。

終わりに向かって

熱海に行ったら廃墟があって興味があるのは私だけなので他の人たちがお土産を見ている間に見に行った。正確には廃墟ではなく解体中の建物である。元はホテルだろうかはがれかかったタイルがむき出しになりかつて誰かがそこで熱い湯を浴びていたんだろうと想像する。真ん中に階段がありああいう解体作業は階段は最後に壊すのだろうか。スプレーで何か目印がしてある。街中に溶け込んで地元の人がその前を自転車で通り過ぎる。間に柵があって「私有地」と紙が貼られている。柵があるから私は道を挟んだ向こうから見た。熱海と言えば私のイメージでは「ファミレスの前で直角に曲がる国道」である。まるでファミレスを建てるために国道を迂回させたような形になっている。しかし観光地でどこにでもあるようなファミレスが流行るのか? と思ったが私が最初に見たのはもう20年くらい前だから採算はとれるのだろう。地元の人からしたらサザエやカサゴよりハンバーグのほうがありがたいということは容易に想像できるし若い人は魚を毛嫌いということも多い。大学のときのサークルで山中湖に行ったときにみんなが昼にマックが食いたいといい出したが部長だけがほうとうを食うべきだと主張し私は部長と仲良かったから私もほうとうを食べたが私も別にマックでも良かった。私が部長と仲が良かったのは住んでいる自治体が同じで一緒に帰ったりしていたら自然と仲良くなった。


今日はそのあと初島に行ったら船酔いをしてひどい目にあった。吐きそうになるより先に手足がしびれて視界が曇って要するに貧血になって倒れそうだった。デッキではしゃぐ大学生のグループが鬱陶しくて仕方がなかった。島が早く近づいて大きくなってくれないかとひたすら凝視した。港がどこだかわからずひょっとして裏側だったら尚この時間がつづくのかと暗い気持ちになった。島について船を降りたらいくらか良くなったがそれでも近くの小屋でしばらくうずくまっていた。帰りもまた船に乗ることを考えるといっそここに住んでしまおうかと思った。通り沿いに大きな石があってそこに「青色申告宣言の町」とあったから私も青色申告をしようと思う。青と白の違いは専従者控除だったかとにかく家族を従業員にしたときの給料は白の場合は上限があったが青はない。青天井の青なのである。


ところで船に乗る前の駐車場で街灯の土台のコンクリートの上に印鑑(シヤチハタ)が落ちていて何という名前かと思って蓋を開けたら口紅だった。大変紛らわしい。

ニュースと新聞

小学四年生の私の子供から最近給食に髪の毛やゴミなどが混入されている事件について教えてもらった。私はふだんあまりニュースや新聞を読まないから知らなかった。朝はEテレのシャキーンとそのあとの花かっぱとデザインあを見て夜はだいたいみんながキスマイのバラエティーかドラマか仰天ニュースなどの録画を見ているからそれをなんとなくご飯を食べる間だけ見てあとは風呂に入って洗い物をして寝てしまう。正直仰天ニュースとかよりもシャキーンのほうが面白い。歌のコーナーだけ見ていて少し恥ずかしくなるが謎解きのコーナーとかも好きだし単に笑えるだけでなく何かしらの気づきがある。例えば「おとり刑事」というコーナーでは待ちゆく刑事二人組にわざと頭に「お」をつけないでしゃべる人が出てきて刑事はそんな人たちを逮捕するのである。どうしてそんなことが犯罪になるのか理解に苦しむ茶番だが「お」をつけないと飲食店の店員も急にぶっきらぼうになって新鮮だ。


私は十代になって新聞を読み始めたとき語句の意味よりもそれよりもどういう経緯があって今こういう事件が起きたのかがちっともわからなくて戸惑った。殺人事件などなら物盗りとか怨恨とか割合単純な話だが政治や戦争になるとまるで意味が分からない。新聞やニュースというものはいつでも途中経過しか伝えないのである。だからいくらも読まないうちにまともに読まなくなった。熱心に読んだのはJリーグの順位表くらいだ。新聞を読まないと云々みたいな話もあるが新聞を読んで何かをわかった気になるほうが余程間抜けだ。しかし本当に物を知ろうとしたらどっちへ行こうとしても途方がないのである。だからと言って新聞やニュースで妥協してはいけない。


私の子供はニュースについて「つい見てしまうもの」と言っていた。彼女の母親がテレビをつけていて後ろで目に入ったらつい見てしまったのだ。給食のニュースもそこで仕入れたのだろう。子供だからまだそれでもいいが大人になってからもニュースを真面目に見てはいけない。私の中の印象的な出来事に昔我が子に「悪魔」と名付ける親が話題になったがあるとき駅でそのニュースの話をしている主婦がいてひとりが「「あっくん」て呼びたいなら「あきら」とか「あつし」とかそういう名前にすればいいのにね」と話していて周りも首肯していて「マジか」と思った。ニュースに熱中する人のなれの果てである。

1日ゲームをしていた

私が中学生のときにやった伝説のオウガバトルというゲームを3DSにダウンロードして近頃やっている。そしてなかなか神経をつかうゲームだということを思い出した。操作はわりかし簡単だがレベルを上げすぎると色々支障をきたすので戦ってもいい人とダメな人というのを自分のチームの中につくってその中のある程度ならOKですよという人もいるのだがなんせ敵は筍みたいに次から次ににょきにょき出てくるから気を抜くとどんどん強くなってしまう。どうして強くなるのがいけないのかというと民衆の目というのがあって敵とのレベルに差が出てしまうと弱いものイジメみたくなってしまい暗黒道におちてしまうのである。しかし何にせよ敵は筍だからこっそり汚れ役チームをつくって裏でがんがん人殺しをさせるのである。そういうところが妙にリアルなゲームである。しかし強くなりすぎることに制限をかけるシステムは不評だったのか続編のタクティクスオウガというゲームではその辺はずっと緩くなって味方同士でトレーニングもできてメキメキ強くなっても咎められることもない。確かに敵よりやたらと強くなるとゲームの「作業感」は一気に増す。というかこのゲームのトレーニングはいわゆる「レベル上げ」だがこれこそまさに作業で単調の極みである。今のゲームはこういうのはあまりないと聞く。私が十代のころはレベル上げは当たり前の風潮でその作業が好きだという人もいた。その人は警察官の息子だった。私は好きでも嫌いでもなかった。しかし私はRPGなんかは考えもなく力で突っ込むタイプでたとえば相手を眠らせたりとか魔法を封じたりとかまどろっこしくてやってられない。

パソコン博士への道

ここ一週間くらいは普通だったものの今日はパソコンの調子が悪い。しーぴーゆーの使用率が100ぱーせんとを示したまま動かない。たまに98ぱーせんとになるが2ぱーせんと程度じゃ気休めである。しかし100でも動くときがあるし40とかでも固まるときは固まる。何にしてもちょっとでも動きがのろくなると
(ああまた100か)
と憂鬱になって仕事どころじゃなくなる。デスクトップにはしーぴーゆーとメモリのウィジェットが貼ってあって私は常に監視している。それぞれが速度計のメーターみたいになっている。小さい方がメモリで大きいのがしーぴーゆーだ。しかしこうしてメーターの示す数字ばかり見ているとだんだんと数字に引っ張られるようになってしまう。機械の扱いも気持ちが大事で「固まる固まる」と思いながら操作すると固まるのである。昔乗っていた車が調子悪くて叔父に相談したら
「気持ちの問題だ」
と一蹴された。私はまた昔に風邪で医者にかかったときも最初に処方された薬を飲みきってもよくならないからまた訪れたら
「気持ちで治せ」
と言われた。私はどれだけメンタルが弱いのか。だからパソコン問題も気にせず使い続ければ良いんだと自分に言い聞かせたが今日は止まった。止まるときの傾向としては

・午後4時以降に手がつけられなくなる
・文字をたくさん打つと手がつけられなくなる

とにかくオフィスのアドインから始まってマウスを替えたり辞書ツールを修復したりWindowsアップデートを止めたりその間に後輩が勝手に入れたクロームを削除したりやれることをやりすぎて私はパソコン博士にどんどん近づいている。そういえば帰るころにWindowsディフエンダーが有効になっていることに気づいて後から調べたらこれがウィルスソフトと競合するらしいので早速無効にして様子をみたいが明日は休みだ。