意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

自己紹介

昨日の続きにもなるが、よくブログで
「なになにです」
と、自己紹介から入る人がいるが、そういう人は、自分というものをきっちり確認し、固めてから書き出しているのではないだろうか。これは読みてのあなたの話ではなく、書き手のわたしのエピソードですよ、と無意識下で約束を交わしているのかもしれない。それとは関係なく自己紹介から始まるブログはとてもブログらしく、いかにも面白そうなことが書いてあるように感じる。

ところで私は名前がないから、自己紹介ができない。別に何かを狙ったわけではなく、はてなのIDはもう何年も前から持っていて、5月にブログを始めようと思ったときに、どのブログにすればいいのか決められなかったので、アカウントがあるからはてなブログにした。IDは名前代わりにはなるが、名前ではない。今から名乗ってもいいが、もう少しこのまま引っ張ってもいいと思っている。

名前がないというのは、幽霊みたいなものだから、それが地縛霊なのかその他なのかはわからないが、私はもしかしたら幽霊の気分で今まで書いていたのかもしれない。そうすると、私が過去の話ばかり持ち出すことにも説明がつく。つまり私は幽霊ではあるが、やっぱり実態が欲しいので過去の話をどんどん出して、それを足がかりに自分を構築しようとしたのだ。

私たちが「今」と指差すときには、一体どの今を指しているのかについては、おそらく説明、証明は不可能であり、それはもちろんあなと私の今は違いますよという意味合いでもあるが、自問自答したって、針よりも細い「今を明確にとらえることはできない」

逆に過去はでろーんとして、やわらかい、ゴムのようなもので、重さもあるし、重過ぎれば持ち上げられないこともあるけど、他人と共有することはたやすい。自問するなら尚更だ。

つまり今しかない人間というのは、ふわふわして頼りなく、そもそもそんな人はいないから、存在などできないのである。赤ちゃんは例外だけど、赤ちゃんは多分自分を認識できないから、やはり存在しないのと同じかもしれない。

これがひとつの仮説で、私が過去の話ばかりするもうひとつの狙いは、今日が私の誕生日であり、私は35歳になった。35歳というと、私の中では「折り返しの年」という感じがする。35を2倍しても70だから、これが平均寿命に届いていないとか、残りは余生でカウントしないとか、捉え方は人それぞれだから、40歳くらいは「折り返しの年」と言い続けてもいいだろう。どちらにせよ、折り返したら、今度はスタート地点へ向かって進み出すのだから、過去の出来事がよく見えるようになるのである。

ボールをよく見ろ

さっきブログを書いていて、それは昨日からなのか朝からなのか、もっと前から考えていたことなのかは忘れてしまったが、朝デイリーヤマザキに寄ってアリナミン7を買って飲みながら、
「今考えたことを、急いで文章にしなければ、忘れてしまうな」
と思い、それから始業までにいくらか時間があれば、記事のひとつも書けるかもしれないと、非現実的なことを考えていたら今日もなぜだがお腹が痛くなってしまい、結局はなにも書けなかった。それからお昼になって、今日は休みがひとりいたから事務所でみんなでご飯を食べ、その数時間前に会社の資料室に備品を取りに行ったら資料室には鍵がかかっていて、事務の女性に声をかけたら開けてくれた。
「いつから鍵をしめるようになったんですか?」
と尋ねると、
「前からです」
と言われた。それよりも、私はいつも鍵がかかっているドアに遭遇すると不安なことがあって、実はこのドアには本当は鍵などかかっていないのではないか? ということである。読んでいる方の中でもおられるかもしれないが、ちょっとした引っかかりや、引いて開けるドアを押すドアと勘違いすることによって、実は鍵がかかっていないドアでも、鍵がかかっていると思い込んでしまうことはよくあることなのである。

だから、そのときは忙しかったこともあって簡単に、これは鍵がかかっているな、と判断したわけだが、事務所に3人いる事務員の誰となく声をかける段になったら、もっと強引にがちゃがちゃやれば、ひょっとしたらドアは開いたのかもしれないと、後悔をし始めていた。もしあいていたら、私はぼうっとしていたとか思われるのだろう。ちなみに資料室のドアにはノブを挟んで上下に2つ鍵穴があった。

同じような経験は今から遡ること28年前にもあり、そのとき私は小学校1年生で、梅雨時期の曇りの日の体育の時間、体育館倉庫から用具を取り出す際に、担任は倉庫の鍵を持ってくるのを忘れてしまい、私に職員室へ行って取ってくるよう頼んだ。私はその用件がちゃんと果たせるのか、今までにないくらいの不安に苛まれながら、前日の雨でぬかるんだ校庭を横切って職員室へ向かった。しかしその時は鍵があいていないと判断したのは担任だから、もし最初から鍵があいていたとしても、それは私のせいにはならない。職員室へ行ったのは私だが、まさか小学1年生が自分の判断で鍵を借りにくるわけないと、周りは思うだろうから、その時の私は、今日の私よりは気楽だったはずだ。

それから私は職員室前の廊下を行ったり来たりしながら、頭の中で鍵を借りる旨の文章を組み立てて小声で復唱し、突発自体で下駄箱を経由しないでここまできたから靴下だったので、私の足はつるつると滑った。私はそれが職員室前の廊下だからだと思っていた。意を決して中に入ると知らない教師ばかりだったがみんな親切で、鍵は無事にゲットすることができた。そしてその翌週の月曜日の朝礼では校長先生が、そのときの出来事を全校生徒に話し、
「1年生でもきちんと用件を言えるのだから、上級生もがんばるように」
とはっぱをかけた。私は即座に私の話が取り上げられたと喜んだが、私の名前は出なかったので、誰も私の出来事だとは気づかなかった。

差別はやさしい

目の見えない少女に対して、駅で誰かが蹴りとばしたという事件については、障害者という部分を取り外して考えれば、割と単純であることに気づく。

つまり私はツイッターで加害者の肩を持つ人というまとめを読んだのだが、まず杖でつまずいた人に対して謝らないのはおかしい、謝るべき、というのがあったが、日常の通勤電車に乗っていてぶつかってこられたり、足を踏まれたり、そういうことが割合にあるけれど、私自身は今は車通勤だからそういうことはもうなけれど、きっと今でもよくあることとして、話をすすめる。

そういうときには謝る人もいれば、無視をする人もいる。どう考えても謝るべき立場なのに、逆に謝罪を求めてくるケースもある。だから、杖を蹴られた障害者がどういう状態で蹴られたのかは、私はニュースを熱心に読んでいるわけではないから知らないし、多分そこまで詳しくはやってないんじゃないだろうか? だから障害者はまるっきり悪くないのかもしれないし、気が利かないタイプなのかもしれないし、単にモラルが低いだけなのかもしれない。「障害者だから」「特別扱いだから」というのは、的外れというか、乱暴な言い方に思える。

それよりも私が引っかかるのは、
「障害者は危ないから電車の時間をずらすべき」
「学校側が登校時間を変えるべき」
という意見で、このような意見を述べた人は、これが差別的な発言だということを自覚しているのだろうか? 自覚して言っているのなら、それはひとつの考え方だからまだいいけれども、良くないのかもしれないけれども、障害を持った人間は隔離すべき、というのもひとつの考え方なのかもしれない。自覚していないのなら偽善者だから、自覚してほしい。

そう考えると、私はネモちゃんを風呂に入れながら考えていたのだが、お風呂の石鹸はいつの間にか新しくなっていた。お風呂のお湯はぬるくてしかもネモちゃんは、すぐに出ようといったので、私の体はあまり温まらなかった。そして、湯に浸かっていたかどうかは忘れたが、差別はやさしいのかもしれない、と思った。障害者の体をいたわって、電車の時間をずらせ、というのは子供や弱者に手を差し伸べるのと同じ行為なのかもしれない。だから、私は他人にはやさしくなんかしたくはないのだ。

また、文脈とはまったくずれるが、障害者は電車をずらせという主張は、W杯のときに渋谷のスクランブル交差点に行く女は、チカンされるとわかっているのに行くから、チカンは犯罪だけどされる方も悪いというのと似ていることに気づいた。