つまり私はツイッターで加害者の肩を持つ人というまとめを読んだのだが、まず杖でつまずいた人に対して謝らないのはおかしい、謝るべき、というのがあったが、日常の通勤電車に乗っていてぶつかってこられたり、足を踏まれたり、そういうことが割合にあるけれど、私自身は今は車通勤だからそういうことはもうなけれど、きっと今でもよくあることとして、話をすすめる。
そういうときには謝る人もいれば、無視をする人もいる。どう考えても謝るべき立場なのに、逆に謝罪を求めてくるケースもある。だから、杖を蹴られた障害者がどういう状態で蹴られたのかは、私はニュースを熱心に読んでいるわけではないから知らないし、多分そこまで詳しくはやってないんじゃないだろうか? だから障害者はまるっきり悪くないのかもしれないし、気が利かないタイプなのかもしれないし、単にモラルが低いだけなのかもしれない。「障害者だから」「特別扱いだから」というのは、的外れというか、乱暴な言い方に思える。
それよりも私が引っかかるのは、
「障害者は危ないから電車の時間をずらすべき」
「学校側が登校時間を変えるべき」
という意見で、このような意見を述べた人は、これが差別的な発言だということを自覚しているのだろうか? 自覚して言っているのなら、それはひとつの考え方だからまだいいけれども、良くないのかもしれないけれども、障害を持った人間は隔離すべき、というのもひとつの考え方なのかもしれない。自覚していないのなら偽善者だから、自覚してほしい。
そう考えると、私はネモちゃんを風呂に入れながら考えていたのだが、お風呂の石鹸はいつの間にか新しくなっていた。お風呂のお湯はぬるくてしかもネモちゃんは、すぐに出ようといったので、私の体はあまり温まらなかった。そして、湯に浸かっていたかどうかは忘れたが、差別はやさしいのかもしれない、と思った。障害者の体をいたわって、電車の時間をずらせ、というのは子供や弱者に手を差し伸べるのと同じ行為なのかもしれない。だから、私は他人にはやさしくなんかしたくはないのだ。
また、文脈とはまったくずれるが、障害者は電車をずらせという主張は、W杯のときに渋谷のスクランブル交差点に行く女は、チカンされるとわかっているのに行くから、チカンは犯罪だけどされる方も悪いというのと似ていることに気づいた。