意味をあたえる

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功利主義は自殺を肯定するか

以前、匠習作さんのブログで、トロッコ問題を取り上げていて、私がコメントをしたら、返事をくださり、
「人の命が地球より重い、というのは嘘です」
という内容だった。「人の命は地球より重い」というのが誰の発言でどういう状況で出されたものなのか、私はよく知らないが、知らないというか、ぼんやりと聞いたことがある、という程度だからここには書けない、という意味なのだが、「地球より重い」というのはいささか浅はかというか、誇張というか、無理やり飾り立ててしまったような表現に感じる。

しかし、地球云々は置いといて、私はその中身、「人の命の価値に限りはあるのか、ないのか」について、今も時々考える。そうしたら今日の午前中に仕事をしていたら、東日本大震災のときに、津波がくるぎりぎりまで避難の呼びかけを放送し続け、結果命を落とした市の職員のことを思い出した。そして、それはトロッコ問題の変形パターンになるのではないか、と思った。つまり、トロッコ問題とは5対1の分かれ道のどちらに進むべきかという問題であるが、トロッコに乗るのが自分だ。それが、5対1の1のほうが自分だったらどうするか、という話である。ちなみに、分岐のスイッチは自分で持っている。リモコンかなにかである。そんなリモコンなんて存在しない、付き合ってられない、と思った人はここで読むのをやめてください。

ところで、私はこの震災の放送を流した職員のニュースを聞いたとき、すごく嫌な気持ちがした。息苦しくもあり、震災関連のニュースはみんなそうであったが、このニュースは、種類が違った。それは、自分を犠牲にしてたくさんの命を救った、という風にとらえられ、その職員の行為に対して肯定、賞賛するかのような放送がなされたからである。私の記憶が確かならば、たしか、この職員の親もインタビューを受けていて、
「人様の命を救えて誇らしい」
と答えていた。私の記憶違いかもしれないが、少なくとも、誰かしらはそんな風に答えていた。あるいは、考えていた。私は、冗談じゃないと思った。もし私の子供がそんな風に命を落としたのだとしても、誇らしいなんて思わず、育て方を間違った、と思うだろう。しかし、テレビやネットを見る限り、そんな風に考えている人はほとんどいないようだった。嫌な気持ち、は正確にはそのときに感じた。

それから少しして、命を落とした職員はぎりぎりまで呼びかけていたが、その後庁舎の屋上に避難をし、津波は建物よりもずっと高かったため助からなかった、という事実を知り、私の心は少し軽くなった。私が前につんのめるような書き方をしているから、どうして私の心が軽くなったのか、読んでいる人の中にはわからない方もいるかもしれないが、私にちゃんとした文章力があっても、やっぱりわからない、という人はいるだろう。そう考えると、私はこれ以上このことに補足をして、たくさんの人の共感を得たい、という気持ちが薄れる。

トロッコ問題の1側を自分に置き換える、というのは、反則技というか、議論に値しないことなのかもしれない。しかし、ほとんどの人がスイッチを切り替えて、5側を犠牲にするのではないか。あるいは、5側を犠牲にしても間違いにはならない、責められるいわれはない、と考えるのではないだろうか。私は人の命の価値が無限大であるかはわからないが、少なくとも自分自身の命は無限大と言えるのではないか、というのが結論であったが、ここまで書いてきたら、例えばそれはもう片方が5人だからそう思うだけで、例えば5億人だったら、そうはいかないのではないか、と思えてきたから、やはり答えにたどり着かない。

一方震災の犠牲になった職員の親については、自分の子供を誇りに思わなければ、とてもその死を受け入れられない、という意味だったのかもしれない、とも思えた。

補足:今回の記事のきっかけになったのは、下記のブログです。