意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

勧進帳

子供とテレビを見ていたら、市川団十郎が子供向けに勧進帳の説明を行っていた。なぜならそれは子供向けのチャンネルだったからである。その前は長靴を履いた猫を、見たことのない俳優が半分ひとり芝居で演じていた。半分、とはたまにアニメーションを挟むという意味合いである。巨人を騙してネズミに変身させ、猫はネズミを食べてしまう。私の記憶ではノミに変身させて足でつぶしていたような。混濁であろう。

私は市川団十郎とその息子についてかなり胡散臭い印象を抱いており、子供向けに優しい口調でストーリーと歌舞伎について語られていたが、どこかて私の子供を騙そうとしているんじゃないかと、気が抜けなかった。勧進帳という話自体も、私は義経に対してあまり良いイメージを持っておらず、それは手塚治虫の「火の鳥 乱世編」の影響であるが、高校三年の日本史の先生も
義経はアカン」
みたいな主張を当時していた。日本史の教師はまた、
「銀行はどんなときも潰したらアカン」
という主張もしていて、これは当時北海道拓殖銀行とかがつぶれたのを受けてな気がする。私はその理由がイマイチわからず、この教師は定年直前でそれ以外の説明もよくわからず、銀行をつぶしてはいけない理由を父に訊ねたら
「どうしてつぶしちゃいけないんだよ?」
と半ギレで質問返しをされてしまった。義経がアカン理由は「火の鳥」を読んでなんとなく理解したが、銀行についてはわかりやすい漫画が見つからず、いまだに理解できない。

2

私の義弟は、お笑いが好きだと聞いた。しかしこの「お笑い」という表現はなんと乱暴というか排他的な表現だろうか。ここでいう「お笑いはとは、お笑い芸人の行うお笑い行為であり、ジャンルの特定の後には好きの度合いをはかるために、「志村けんのDVDを持っている」とか「吉本を見に行く」とかにつながる。趣味の話題の流れである。一方私は「お笑い」はそんなに好きではない。しかしここで好きではないと主張すると、私が笑いを生む一切のいい加減な行為、ゆるい行為が好きではなく、真面目な一本気な人間、悪く言えば融通のきかない人間だと相手に印象づけることに気づいた。私自身は自分が笑ったり、人を笑わせたりするのが好きである。どちらかと言えば笑わせるほうが好きで、それは立場や年齢を問わず、例えば仕事の会議でも上司の前でたまにイチかバチかのボケをかますことがある。イチかバチか、と書いたがだいたい八割くらいの公算でかましている。しかしこういう人間でも、「お笑い、好きじゃないなあ」みたいなことを言うと、途端にお堅い人間のように思われてしまう。お笑いブームと言われて久しいが、こんな弊害も生まれているのである。

ところで昨日は「世界の果てまで行ってQ」という番組を見た。家族がいつも見ているからつい目に入ってしまうが、昨日は女芸人が日体大の集団行動にチャレンジするというので、私は集団行動が好きなので楽しんで見た。前に密着型ドキュメントを見たが、監督がぶちギレたり、選手が脱落したりするところが良かった。私が納得できなかったのは、倒れたか何かした選手がどうしても出たいといって、他にも何人も脱落した人がいるのに、再び戻してしまう場面だった。私個人としてはダメなものはダメ、例外をいっさい認めないというものにエンターテイメント性をかんじるので、ここはやっぱり認めてほしくなかった。しかし全体のまとまりとか、総合的な利益を見れば戻すことが最善だったのだろう。たぶんそういうことではないが、私はそのように考え自分を納得させた。