意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

短歌の自由201612号


題詠 5首

1. おでん

おでん食べ 壁がなくなる法隆寺、五重の塔は串刺しはんぺん


2. 自由

西暦×××6年地球なし それでは各自 由子を娶れ


3. 忘

忘却の忘却による忘却のための人生、獣へ帰る


4. 指切り

指切りと指ぬきはいつも仲良し。お墓参りで耳たぶ焼かれる


5. 神

阪神が優勝したら立浪が逆立ちをして町内2周



テーマ詠

テーマ「冬休み」

・年末のルパン特集楽しみだ。藤子のおっぱい、警部の尻アゴ

・風呂出れば大晦日だよ、ドラえもん? 働き過ぎの藤子をいたわれ

・レコ大と紅白の間に風呂入り、上がれば揚がる、母の海老天

・名付け親、坂の途中に家があり、軍隊ラッパ、はしゃぐ父親

・福袋、なんでも良かった子供用、組み立てられないプラモデルとか


冬休みは、そういえば一年でいちばん家族同士の距離が近い期間だった。お正月は風の強い日というイメージが私の中である。父は自分の心酔している人に私の名を名付けさせた。

過去ファンタジー

朝というか9時頃に起きて下におり、そのとき私の携帯は充電が切れていたから私は最初は本を読んでいたが、それは仕事にかんする本で「休みなんだから休みモードになろう」と思ってテレビをつけたら「とと姉ちゃん」の総集編がやっていて、私としてはこれくらいコンパクトなほうが良かった。恋愛パートはかったるかったが、悪徳電機メーカーをぎゃふんと言わせるくだりは良かった。恋愛のかったるさは昔タイタニックが流行ったときにタモリタモリとしては船好きだからタイタニックはぜひ観たいのだが、恋愛がどうしても見るのがイヤだから見るかどうかさんざん迷い、最後は恋愛だけ早送りして見た、という話を「笑っていいとも」で言っていてそれと似ていると思った。どうして恋愛はかったるいのだろう。それは恋愛はワンパターンだから、といっしゅん思ったがそれは恋愛に限らず例えば気難しい先生に原稿を書いてもらうために雨に濡れながらも家の前で粘るとやがて先生が、
「あなたには負けたわ」
みたいな感じで仕事を請け負ってくれる場面もかなり古風でワンパターンだ。しかし私は雨に濡れながらも出てきてくれるのを一心に待つ場面を見ながら「またかよ」とうんざりした気持ちにはなった。私もああいうことをやられたら心変わりするものだろうか。しかし、それで心変わりしたら自分の信念とはなんなんだ、と自己を保持する演算が狂ったりしないのだろうか。これと逆のパターンで村上春樹が昔にある編集者に自分のつくる文学全集にあなたの「1979年のピンボール」を入れたいがいいかと頼まれて、それは気に入らないから違うのにしてくれと頼んだら、ピンボールが長さ的にちょうどいいからみたいに言われてかちんと来た村上がじゃあ入れなくていいです、と断ったら相手は引き下がらずよくよく聞いてみたらチラシだかに「1979年のピンボール」と刷ってしまったからとのことで、事後承諾でそんなことをされた村上はますます態度を硬くして結局文学全集自体の話が流れ、編集者は入水自殺した、というのがあった。この話は村上春樹のエッセイのどれかに載っていてタイトルには吉行淳之介が出ていたと思う。元々は吉行淳之介の話で、文学全集の話を断ったときにいろんな人が「文学全集の話、受けてくれ」と頼まれ、その中に吉行淳之介もいたそうだ。吉行淳之介と言えば当時の文壇の大御所的存在だし、確か村上春樹のデビュー作の選考委員もつとめた人だから、村上的には断るのにかなり心苦しかったが断った、という内容だった。その吉行淳之介が亡くなったという内容だった。

この話はフィクションではなく実話だから、そういう意味でも先の「雨に打たれながら心変わりを待つ」とは真逆である。こちらは待たれる側の視点だから編集者側が見切り発車したりと、手落ちがあり、文学全集の頓挫にしても「自業自得じゃないの?」と思わせるぶぶんもある。吉行淳之介を動かすくらいの人だからそれなりに力のある人だと思うから、やはり強い人の肩を持つのはなかなか心理的に厳しいぶぶんもある。村上春樹だってかなりの力を持っているだろうが、エッセイには安西水丸の似顔絵が書かれていて、その落書きみたいなタッチのせいで、ずいぶんと素朴な人に見える。あれも村上春樹の戦略だったのだろうか。

そんな安西水丸が何年か前に亡くなり、去年か一昨年に出た読者の相談に答える本が出版されたときはとうぜん違うイラストレーターが村上春樹の似顔絵を書き、それを見て私は
村上春樹って結構貫禄あるんだな」
と驚いた。もちろん私は村上春樹の実際の写真も見たことがあったが、にもかかわらず、であった。

SIMを解約せねば(最終回)

さっきようやく手続きが済み、心のつかえが取れた。使っていない、別の機種の買い替えの際に割引になるからと強引に契約した回線だった。SIMのみである。二年後に解約してくれと念を押され、おそらく向こうは二年経つうちにそんなこと忘れるだろうからそうしてネギトロをこすげ取るみたいに毎月小銭を巻き上げてやろうという魂胆なのだ。向こうはもう翌日になったら、私たちのことなんて忘れるのだ。私はそれ以降何度かこの店にやってきたが、このSIMを解約させた男に一度も見かけたことがない。というか携帯ショップという場所は、行く度に違う面子が並んでいて不気味だ。よほどすぐ人がやめてしまうところなのか。と、カマトトぶってみたが私は昔代理店の元締めみたいなところに勤めたこともあるから、ああいうところがいかにヤクザかは知っている。ヤクザというか頭のおかしい人がたくさんいた。中国人もいた。背の高い女の中国人と、背の低くて顔色の悪い中国人が、現地の言葉で誰かの悪口を話していた。誰も言葉がわからないから、陰口にする必要がなかった。背の高いほうは、黄色い顔色だった。故郷に子供を残していると言っていた。私が辞める少し前に辞めた。顔色の悪いほうが、性格が数倍悪かった。

私は何年か前までは特に感じなかったが、ここ数年は携帯ショップに行く度に気が重くなり、今日対応した女のスタッフも終始上から目線であり、最後
「あざっす」
みたいな言われ方をされ、もうカチンとくる元気もなく、その後夕食を買いにスーパーへ出かけたが、もう寒くて仕方がないから、一味早くレンジでチンする年越しそばを買って食べた。私の今年はもう終わったのだ。そういえば私が更新通知を受け取っているブログのいくつかも「2016最後の記事です」とか、「今年もなんちゃら」みたいな記事がいくつも並んだが、前述の通り私は大晦日でもないのに年越しそばを食べるような男だからあまりぴんとこない。家族は初日の出が見たいと言い出し、日の出ならベランダでも屋根でもどこでもよじ登って見れば良いと思うが、海で見たいと言う。どこの海かと訊ねれば、海ならどこでもいいも言う。ちょっと意味がわからない。私の生家の私の部屋はカビ臭かったが家の一番東にあり、季節によって朝日が差し込み、ドアを開けるとオレンジ色の光が廊下まであふれ出て、それは差し込むと言うより、光の溜まりに家を丸ごと放り込まれたような様相だった。部屋の中にはピアノがあり、ピアノの脇には北斗の拳の火の用心のシールが貼ってあった。しかしそれは決して1月1日の朝の話ではなかった。

2016年も当ブログを読んでいただき、ありがとうございました。明日も更新します。

頭の中に文字はない

へや - 何を書くか、何を書かないか。

上記の記事で「好きなことについて書けない」ということが書いてあり、私も同じことを思った時期があった。書いても書き切れていないかんじが常につきまとっていたのである。さらには
「これについて書こう」
と頭の中で段落を組み立てたりすると、とたんにうまく行かなくなった。頭の中から文章をひねり出すと、理屈が噛み合わない。どこか頭の中に忘れてきた文字のパーツがあるのではと検索をかけてみるが、ぴったりはまるような言葉は決して見つからない。ピースの欠けたジグソーパズルのようである。

上記の症状に対処するには、文章をジグソーパズルのように考えるのではなく、端からそういう形だったと諦めることである。最初から筋の通った主張などなかったのである。そういう感じがしただけの話であり、そしてそれは100パーセントの錯覚なのである。よく結論ありきでものを書く人がいて、それが絶対なふうな考えをする人がいるが、それはすでに他人が出した結論を拝借しているからであり、ついでにそこに至るプロセスも拝借するからである。つまりきれいな文章を書くためにはぜんぶどこかから拝借しなければいけないのである。それを「オリジナルだ」とか、「自分の発想だ」と言う人はとてもおめでたい人なのだから、放っておけばよろしい。おめでたいというか、鈍感で厚顔無恥な人なのだから議論しても始まらないから放っておけという意味である。

『プルーストとイカ』 - takumi296's diary

どうして頭の中にあることを書けないかについては、上記の記事に書いてあるが、人間が文字を扱うようになってまだ一万年以下の歴史しかなく、そのために文字を専門に扱う領域が少なくとも先天的には脳内には存在しないからで、だから私の今日の主張は科学的根拠があるのです。

今日は体育のある日

明け方ふっと今日が体育のある日だと思い出し、思い出さないと体育着やらジャージやら忘れるハメになるから私は安堵した。ジャージは向こうに置いてあるから大丈夫。体育着は下着も兼ねるから、制服の下に着ていくのを忘れないようにしなければならぬ。それから少しして私はもっと安堵した。私はもうすでに学生ではなく、体育とは無縁の生活を送っていたからだ。もっと安堵した理由は、私があまり体育が好きでなかったからである。

私が「やっべ、今日体育あった」の夢を見るのは今日が初めてというわけではなく、今までも何度か見た。おそらく本当の学生時代に明け方に体育があることに気づくことが何度かあったのだろう。夢というのは出口だけが違うだけで、全時代の自分が共有しているもののような気がした。私は帰り道を間違えて、37歳の今日に来てしまっただけかもしれない。しかしそういった考えが他愛のないものに成り下がってしまうくらい、現実の硬さと言おうか、融通のきかなさは強固である。ラッパーならば「現実の堅実さ!」とでも韻をふみたいところである。私は確実に「今」を生きていて、視界の限界まで世界は存在する。昔仮面ライダーだか、戦隊もののドラマで夢を操る敵が出てきて人々が夢と現実の区別がつかなくなったときに、主人公が
「画面の四隅を見るんだ! 四隅がふにゃふにゃしてたら夢だ!」
と見破ったことがあったが、私はそのイメージが強いのか、対象から離れるほど曖昧になるのが夢である。現実は「私」とは無関係である。

とここまでのおさまりの良さが気に食わず、記事を更新せずに放置した。やがて私は自分の「現実」を擁護している書き方に気づいた。現実側から夢を語るのだから、ホームアンドアウェーで現実の有利さは疑う余地はないのに、「現実は強固だ」「現実は私とは無関係」とやたらと主語を置くのはなぜだろう。なんでもそうだが、やたらとそれについて語るのはそれに対して不安を抱いている証拠である。読売巨人は絶対の強さを誇るのに、ファンが監督を差し置いて思い思いのオーダーを考えたりするのは、潜在的に巨人軍の脆さを見抜いているからである。そう考えると現実とは案外脆いものなのだろうか。

体育について思えば、私は体育の授業は好きではなかったが、考えてみると体育教師に体罰教師はいなかった気がする。私は学生の頃は体育教師がクラスの担任になれるなんて信じられず、また現実にそのクラスになった人間を気の毒に思ったりしたが、実際は社会科教師の私のクラスのほうが気の毒だった。その教師は定年間近の男教師で、教師の中でもバカにされているのか二年次以降はやたらとヤンキーばかりが集まるクラスとなってしまい、教室内は動物園のような様相を呈していた。教師もムツゴロウさんのような風貌であり、しゃべっている内容もよくわからず、こちらの主張も通じず、半ばボケているのか誰かが指摘しないと前回と同じ授業を寸分違わず繰り返したりした。私はある移動教室の日に強烈なデジャヴを味わったが、それはただ同じ授業を繰り返しただけだった。クラスの大半はこの男が担当なのを嫌がったが、ヤンキーには人気があった。私は、一年間笑い物にして、ツッコミの腕を磨いた。

食事をすると腹が立つ

昨日一日ほとんど何も食べなかったので(前日のカレーが消化されずにほとんど残っていた)内臓もすっかり弱ってしまったろうと思った。昨夜妻にレトルトのお粥を買ってきてもらい、実はその時点で少しは空腹をかんじていたが、妻の帰りが遅くてもうどうでもよくなってしまった。妻は近所の銭湯に行っていた。朝になってからお粥を食べようと思い、お粥は二種類あったが、やはり玉子入りのほうがちょっと美味しそうだったからそっちにした。私より半日遅れで私の子供も体の不調を訴え、一応先に
「玉子がいい?」
と確認したが、どっちでも良い風だった。私は足取り軽くお粥を茶碗にあけ、レンジで温めた。袋には「500wで2分」と書かれていたが、我が家のレンジは800wだから一分と少しでいいと思った。出来上がると少しぬるかった。いつも使うときに似たようなことを思い、我が家の800wはいかさまなのではないかと思う。小林電気に騙されたのかもしれない。電子レンジ特有の温めムラがあり、場所によってはちょうど良い温度だったため、少しかき回し、ちょうど良いときは集中して口に運ぶようにした。

わけなく全部食べきったが、とちゅうから胸がつかえるような感覚があり、これが不快で食べていて腹が立った。

食べ物がしりとりになっている歌

昨晩ふと目を覚ますと妻がうなされており、小刻みな泣き声のようなものを立てていた。音量もそれなりだったので、私は
「おい、大丈夫か」
と声をかけたが特に目を覚ますことはなく、そのまま静かになった。喉が痛いとか言ってマスクをして寝ており、それが横隔膜のようにふくらんだり引っ込んだりした。子供用で小さく、色はピンクだった。

妻が一時的にうなされているだけだとわかり、私は安心したが同時に私の体のほうが尋常じゃないくらいだるく、また寒く、いろいろ体をくねらせて体温が外気にうばわれないポジションを目指したが効果がなく、そのまま朝まで眠れなかった。途中からベッドを出て、ファンヒーターをつけてその前でぐったりすることにした。次第に吐き気をおぼえ、昨晩食べたレトルトカレーが胃の中にまるまる残っていることがわかり、不快感をおぼえた。カレーは銀座のブランドであった。それと、刺身を少しつまんだ。わさびを多めにつけるのが私流だった。しかしどちらを思い返しても胃液に脂が浮いているようなイメージがあって、もう二度と食べたくないとすら思った。

私は最初吐くことに抵抗があったが朝方観念し、何度か戻し、昼くらいまでは下半身のだるさが半端なく、膝を左右に激しく動かしていないと済まない状態が続いた。病院へ行ったら座薬出されるかなあと憂鬱だった。しかし昼を過ぎたらぐっと体は楽になって、久しぶりにベッドで寝ることができたが、昼休憩の妻から電話が入り、私の睡眠は中断した。

私が具合がわるいあいだじゅう、頭の中では「クッキングパパ」の食べ物がしりとりになっているオープニングテーマが流れていた。それは一番が「かぼちゃ、チャーシュー麺、明太子、コンビーフビーフステーキなキス、キスフライ、フライドチキン、きんぴら、らっきょ、今日も......」とつながる。これは場所によって一文字だったり二文字だったりするしりとりで、ズルをしている風でもあるが、「「ん」がついても構うもんか!」と強い決意がかんじられ、それが勢いにつながって爽快な気分になった。二番は「チャーハン、ハンバーガー、ガスパッチョ、長寿庵、あんころ餅肌のお嬢さん、サンドウィッチ、ちくわ、わさび、ビリリ......」となる。私はガスパッチョと長寿庵がわからなかった。

それと食べ物がしりとりになる歌はもう一曲あって、それはEテレで放送されているアニメ「はなかっぱ」のエンディングで、こちらは律儀な一文字しりとりだが、野菜しばりである。

一番:トマト、唐辛子、しめじ、ジャガイモ、モロヘイヤ、野菜大好き

二番:キャベツ、つまみ菜、長芋、モミタケ、ケール、ルッコラ、落花生、インゲン(アウト)

私の頭の中でこれらの曲がずっと流れていた。


※歌詞の引用は
「ハッピーハッピーダンス (アニメ『クッキングパパ』OP)

(詞:森雪之丞)」

「とまとっと...?とうがらし~やさいしりとり~(詞:柿島伸次)」