意味をあたえる

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さんまの名探偵

「確かに」と言うとき、人は必ず蟹のことを思い浮かべる

「確かに」で蟹は思い出さないが蟹でさんまの名探偵で「かにかにどこかにー?」と蟹を操作して任意の箇所をさわったり回したりするのを思い出した。さんまの名探偵は私が小学校一年のときに友達が誕生日プレゼントに買ってくれと言うから母に相談したら「高いから違うものにしなさい」というからなんだかよくわからないカードゲームみたいなのを買っていったら「んだよ」みたいは反応をされた。私だけでなく色んな人にこいつはAというゲームあいつにはBというゲームとおねだりしまくっていたらしい。私はまだ幼くしかも当時はファミコンは家になかったからソフトの価値というかプレゼントとしてのボリューム感みたいなのがわからなかった。私が後にハマるBB戦士なんかより全然高いのである。BB戦士は300円とか500円だからプレゼントとしては最適だったかもしれない。BB戦士はとてももろく昼ご飯を食べて気を抜いたときに踏んづけてぼきぼき折ったりしたから部品取り用として同じものをもらっても嬉しかった。なんせ3歳年下の妹が誕生日にくれたくらいだから手頃である。


それから10年とか経って私は音楽を聞くようになり今度は妹にハービー・ハンコックのヘッドハンターズというアルバムを買ってもらった。私は当時はドラムを熱心にやっていてドラムマガジンも熱心に買って読んでいてその中のジャズ特集でこのアルバムが紹介されていた。サティかどこかのCD屋であるとき妹が買ってくれるというから選んだのである。千円くらいしかしなかったから妹はそれでいいの? みたいな顔をした。良かったのである。私は結婚するまで妹とはプレゼント交換をしていた。しかし私が妹に何をあげたかはまったくおぼえておらず私がもらったのもBB戦士とハービー・ハンコックしかおぼえていない。

さんまの名探偵は今いくよとくるよがコンビだと知らないとなかなかクリアするのが難しいゲームである。あとたかゆきの部屋の秘密の地下室をゲーム終盤で見つけるがドアがあって奥に進めないがノブを回せば簡単に行けるのだが小学生の私はノブという言葉がわからずそういえば近所にノブちゃんという年上のお兄さんが住んでいてノブちゃんはピンク色の自作のラジコンをある日私の家に持ってきたが生憎私は喘息の発作を起こしたから遊べず母が「ごめんね」と断った。母が私より6歳上の人に「ごめんね」などと子供にきくような言葉で話しかけるのが奇妙だった。

それから私は寝た。

低気圧が通り過ぎ私の体力は回復したがノブちゃんが私の家にくることはなかった。母とノブちゃんに何かあったのかもしれないがノブちゃんはまだ小6だった。私は幼稚園の白鳥組だった。白鳥組の劇の出し物は大きな株で私はおじいさんCの役だった。おじいさんは3人いて私は背が高かったからCで最後だった。妹は桃太郎の桃太郎Eの役で妹は当時も今も背が低かった。唯一の女桃太郎なので最後だった。桃太郎だけで舞台は埋まり犬だの猿だのはまったく記憶に残らなかった。

他人を信じず欲を言えば自分も信じない

http://www.chishikiyoku.com/entry/konjyo-ron

私はこれを読んでまずはバイトにもっと仕事をふるのが良かったと思った。社員だから給料が違うからというのは置いといてできる人できそうな人にばんばんやらせるのがいい。今はブラックバイトという言葉も流行っているから可哀想な目に合わせるのはアルバイトの人のほうが脚光をあびやすく結果的には幸福度は高くなるのではないか。あと人は自分がつらいのは割にがんばってしまうものだが他人をつらい目に合わせるのは悪いなあと思ったりするのでそこで「こんなに人につらい思いをさせるくらいなら辞めよう」という発想になればしめたものである。私もしょっちゅう辞めようと思っている。誰それが鬱になったら辞めようとか自殺したら辞めようとか自分よりも今の立場にふさわしい人が現れたら辞めようとか。つまり格好つけたいのである。自分がつらいとかだと情けないとか思われそうだから辞めづらいのである。


病気になるまで仕事をするのはどう考えてもまともじゃないがそうなってしまう世の中である。私は人々はもっと深沢七郎の「人間滅亡的人生相談」を読めば良いと思う。あの中に仕事に悩む小学校教師だかが相談していたが深沢は「子供なんて適当にあしらっておけばよろしい」と答えていた。私はそういうヒューマニズムあふれる業種でも他と同じように「適当にやれ」と言いきってくれたので嬉しかった。そんな無責任な人ばかりでは日本が滅亡してしまうという意見があるかもしれないがもちろん滅亡してもいいが滅亡しないのである。ちゃんと体調を崩さずに責任を果たす人はいるのである。才能の問題である。私の仕事観として「俺がいなきゃ仕事がまわらない」と言う人ほど醜いものはない。いなくとも大丈夫なのである。だからまずは他人の言うことを信じるのはやめなさいと言いたい。この業界は終わりだと若い頃さんざん言われたがしぶとく残っている。勤め先の昇給額が減らされてないありえないと散々言われたが言われたときがいちばん昇給した。誰も嘘をつこうとしたわけでなかったが誰も見る目がないのである。だから他人の言うことに耳を傾けるより自分がしっくりくる感覚に従ったほうがまだ良い。


そういうことがうまくできるようになったら今度は自分の思うことをあまり信用しなくするべきだ。「私は○○に向いている」はまずあてにならない。人が向いているのはやってきたことのみである。私は絶望的な気持ちになったときには死ぬまでこの気持ちが続いてほしいと思ったが続いたためしはないのである。日々はランダムである。


友達も同じである。一生の親友はかなりの低確率である。聡明な人が急に俗っぽくなって「世界の果てまで行ってQが面白い」とか言い出すのである。面白いことを面白がるなんて馬鹿みたいとか思わないのである。私は仲の良い友達がある日「金を貸してくれ」と来たらどうしようと考えていてそういうときはちゃんと縁が切れるように今からちゃんとシミュレーションしようと思っている。親兄弟も同じである。

サラリーマンと死

サラリーマンを10年以上やってそれが板についてきた。特にこの一年は人にあれこれやらせる業態となって春となって春は面談という差し向かいでああだこうだという季節になった。後輩が「こんなことをやる意味がわからない、もっとすべきことがあるだろう」みたいなことを言って私は笑いながら「俺だって馬鹿らしいと思いながらやってるよ」と仲間ですアピールをしたが後輩から見たらたぶん滑稽でこの人なんにもわかってないなあすっかり会社の犬だよなあとか思っているんだろう。私はおもしろくないからそれじゃあと私のブログのアドレスを教えて何記事か読ませればああこの人けっこうクレイジーだなと一目置かれる気がしたがこの人は活字をあまり読まないようだしただの変態と思われて終わりそう。


昨日まで義妹が子供を連れて泊まりに来ていて私は子供のダンスをまねているうちにジェット気流に飲み込まれるみたいな動きをして遊んでいたら義妹が「うちの旦那もこんな風に愉快ならいいのに」と言ってそれは私の妻に言ったから私は妻から聞いた。妻は旦那をフォローするために「堅物そうだけど意外とお笑い好きなんだよ」と私に教えたがどうしてお笑い好きの頭に「意外と」と付くのかわからない。現代人でお笑い好きなことが意外な人がいるのだろうか。例えば岡本太郎だとかそういう人が「お笑い好き」と言ったら少しは意外性を感じるかもしれないがそれこそサラリーマンを10年やった人が「お笑い好き」と言ってもそれは典型的な人でしかありえない。しかも「世界の果てまで行ってQ」が好きですとか言うが日曜八時のサラリーマンの最大公約数的番組が好きとか嫌いとかそういう評価の対象になること自体が私からしたら意外だ。人はむしろあれの面白さを理解できないことを誇るべきではないか。私の妻はあの番組の出演者を見て「この人の人生はさぞ幸せだろう」と言いそれはどう考えても思慮が足りないがよく将来歌手になりたい芸能人になりたいという人が「なんとかになって夢を与えたい」と言うがこれはまさしく夢を与えられている瞬間なのである。私はもちろん夢などノーセンキューでましてや「与える」なんて上から来られたら全力で阻止したいがやっぱりサラリーマンだから「ちょうど欲しかったところです」なんてニコニコしながら受け取っちゃう。


とにかくお笑いが好きだという人はすっかり人を笑い飛ばすことに馴れてしまっているからそういう人が自ら愉快なことをするのは無理だと思う。せいぜいテレビで「面白い」とお墨付きを与えられたらことに追従することくらいしかできない。そうやって相手に「ここが笑うポイントですよ」と手取り足取り教え相手は引きつった笑いをする。私はそりゃ行ってQを見て大笑いするがやっぱりどこか馬鹿にされたような気になる。私の子供などは大好きで何度も巻き戻しながら笑い転げているが子供で人生経験が少ないから楽しくかんじるんだろうなと私は思いながら見ている。何にしても家族が愉快そうにしているのは良いことだ。私は引き続き人間の生き死にについて考えていきたい。

水筒に入れた氷の笑い声

タイトルは今朝たまたま手にした「おーいお茶」の側面に載っていた俳句である。私はこれを目にして微笑ましい気持ちになった。私は幼稚園か小学校1年くらいまで円形の陸上自衛隊の子供版みたいな水筒を使っていてあの頃はああいう形が流行っていて大人もあれの大きめのを使っていたように思う。今は知らない。とにかく私はあの形が好きでちっこい蓋を兼用するカップにちびちびお茶を注いで飲むのが好きだ。シートからはみ出た脚に芝生がちくちくした。あの水筒に氷は入ったかは知らないが私は芝生のちくちくを思い出した。幼稚園の遠足で先生が隣の子と手をつなぎましょうと言い私の隣はナガオカカヨコという女だったが私との接手を拒否した。先生はそれに怒って私は先生と手をつないだ。私はもちろん傷つきもしたが無理もないみたいな気持ちもあった。


私のそういう気まずさだとかは後付けの感情だろうか。身体の芯まで大人になって年端のいかない子供を見るとこの小さめの脳内でそこまで複雑な演算ができるのかと思う。できるのだろう。むしろ衰えているのがこちらと思うのが妥当だろう。大人というのは子供の延長戦のような雰囲気があるがどこかの時点で突然遮断され過去の自分もどこか他人を見るような目で見てしまう。そうでもない。恥ずかしいことや失敗したことはよく覚えていてそういうことを連続して思い出すと死にたくすらなるが村上春樹ですら「失敗の歴史」みたいなことを言っていて私は村上春樹を心のより所にしている。


ところで私はこの俳句を小学生かせいぜい中学生がつくったものと思っていて隣の作者の行を見たら19歳と書かれていてあざといと思った。小学生くらいなら水筒が実際に笑っているふうに聞こえたのだろうが19歳だと遠足の楽しさを水筒に投影しているように思ってしまう。つまりこの俳句はほんとうは「水筒が笑っているように聞こえる私の感性の鋭さよ」と自らをたたえた句なのである。そりゃ俳句を詠むくらいの人だからとうぜん感性は鋭いしそれを認める自己の存在というのもあるのだろうがそういうのがあっけらかんと出されると興がそがれる。私はチラリズムを信奉しているのか。私は自己に無頓着な、無自覚な作品に憧れる。

土葬

義父母と墓参りに行きそれは義母の実家の墓で私が初めて訪れた墓であった。もしかしたら一度くらいは来たことがあるのかもしれないが墓というのはどこも同じような外観をしておりたいていは直方体の縦長の石を組み合わせたものを墓と呼ぶ。だけれども今日のところは墓同士の間隔がせまいうえに新しい墓の周りに古い墓が取り囲むように配置するという独特の外観だったのでおそらく初めてだろうと判断した。古い墓石は角が丸まっているから風雨で削られたから年月が経ったのだろうと判断した。寺の方はコンクリートの地面がありさらには門の前にロータリーもあった。義父の墓の方はもっと寂れていて寺には誰も住んでいない様子であった。障子がやぶれコンクリートも途中で途切れそこに水たまりができていた。水たまりは周囲の泥をやわらかくし私は靴が汚れるからそこを歩きたくはなかった。寺の床はどこでもそうだが高く床下には空間があった。寂れた寺は壁も汚かった。少し行くと焼却炉がありそこに枯れた花や線香の箱などを人は捨てるのだった。


私の生家の寺は寺の中では繁盛しているようで墓は碁盤目状にならび線香に火をつける場所も確保してある。私は大人たちが寄り添って線香の箱や花をくるんでいた新聞紙を使って火をつける様子を眺めるのが好きだった。ときには私も枯れ葉を集めるのを手伝うこともあった。私は火を扱うことに馴れた人に無条件に尊敬する思考の癖があった。だから墓がもっと整備されて火をつける場所が決められてそこに鎖につながれたチャッカマンなどがあるとがっかりした。最近のお墓にはたとえば野球に縁があった人などは野球のボールを模した墓石などがよういされたりと色々バラエティーに富んでいる。


墓参りという行事は子供が小さい頃は墓のすそに子供を座らせたり立たせたりすると周りの大人が喜んでそれで暇がつぶせたりするがある程度成長するとあまり興味をもってのぞめなくなる。水をくんだりとかも適当に他人に任せればよい。義父の兄つまり私の義理の伯父は先祖代々の墓に芝生を植え晩年はいかにも几帳面にそこにはえる雑草を毎朝抜いて過ごしたがやがて死んで墓は荒れ放題となった。墓は周囲と比べてそこだけがまぶしく私はあまり墓参りをしたいと思わなかった。伯父じたいも我を通す性格でしかも私も若かったからついつっかかったりして正月に会ってもあまり話はかみ合わなかった。大仰に奥からノートパソコンを取り出すから何をやっているのかと思ったら家系図を作っていてその末端に私の名前もあって私はあまりいい気はしなかった。パソコンといえば今ならインターネットと同義でインターネットのないパソコンなんて想像もできないがこうして自己満足の高低にはインターネットはあまり関係ない。むしろインターネットで傷つく人は大勢いるからそういう人はLANケーブルを引っこ抜いて自分の先祖を指折り数えたらいいんじゃないか。無線LANの人はルータの電源を切ろう。

核家族

朝ニュースを見ていたら「活字離れ......」みたいなことが言われていてそれは本当なのだろうかと疑問に思った。世の中には真偽かんけいなくそれっぽく聞こえる言い回しというのがある。例えば核家族とかがそうだ。昔大学の先生が
「日本は核家族化が進んでいるなんて言うがそんなのはウソだ」
と言っていて当の私は核家族の家庭で育ったから違和感を抱いた。小学校のときに教科書で「核家族化が進んでいる」というのを読んで「ふんふん」と思ったクチだ。先生はバブルの影響による地価の高騰を挙げ
「今どき一世帯でローンを払い終わるわけないんだ」
と主張し出席している生徒にひとりずつ持ち家かどうか尋ねた。私は持ち家だと答えると住んでいる場所を訊かれ答えると今はここまで田舎に住まないとローンなんか払えないんだよと言った。私より都会の家に住んでいる人は「お金持ちだね」と言われた。私はこの教授が好きだった。


なので当然3年以降はこの教授のゼミに入って卒論が書けたら素敵だろうなと思っていて申し込んだら落ちたのでびっくりした。その教授は哲学の先生で経済学部で哲学をやる酔狂なやつはいないだろうとたかをくくっていたら私の頃は空前の哲学ブームだったのである。それはそうではなくて単にその先生が人気だっただけであった。私はちゃらちゃらした学生に囲まれてまんざらでもなさそうな先生と決別しまた私はまさか落ちるなんて考えてなかったから第二志望とか書かなくて仕方なく定員に満たないゼミに申し込んだ。直接教授のところに行って仲間に入れてもらわなければならなかった。一号館の七階に部屋があってそこに行くと
「なんで第二志望を書かないのか理解不能
と冷たく言われた。それは西洋思想のゼミで私は実は一年の時にその教授のゼミに所属していてそのとき私は第一志望でそのゼミに入ったがそこは学年でいちばん人気のないゼミで私以外は他からはじき出された人かそもそも志望すらしなかった人だった。そのためゼミ内の雰囲気は極めて悪く一年間思想らしいことはなにもせずエクセルだのホームページだので終わった。私は馬鹿らしくて仕方ないからほとんど出なかったら親に手紙がいって私の親はそういうことでは怒らず「どうするんだ?」と言うからそれ以降は行くようにした。それまでに大学そのものをやめる人もいた。その人は4月の最初のオリエンテーション旅行で部屋が一緒で一緒なのは8人くらいいたがみんな初対面で「なんなんだよ......」みたいな空気があって私は嫌で嫌で仕方がなかったがとりあえず誰かがトランプしようと言ってお金をかけて私は200円くらい負けた。そのトランプしようといった人が旅行から帰ってすぐに大学をやめた。つまりノー授業であった。私はそれを聞いて驚いたが教えた方も私もまだ全然面識なかったから「えっ」くらいのリアクションしかとれなかった。あと大学は煙草を吸う人がたくさんいてそういう人は吸い殻をその辺に捨てまくってそれを大学が雇ったゴミ拾いのおっさんおばちゃん中東の人みたいなのが年中ほうきで集めていて本当に馬鹿みたいだった。私の大学の程度が低いからなのかもしれないが私はほんとうに大学なんて一刻も早くやめてゴミ拾いの人になりたいと思い続けて3年になって哲学のゼミに落ちた。

SO YOUNG

今から20年くらい前の今時期にイエモンの「SO YOUNG」という曲が発売され私はそれを初めて聞いたのは川越の街をぶらぶら歩いているときだった。雑踏にまぎれてとぎれとぎれに聞こえ最初吉田拓郎の歌かと思っていたらよく聞いたらイエモンだった。イエモンだとどこかの時点で確信できたからその前にすでに聞いていたのかもしれない。春であった。川越は20代中頃まではよく通った街で車でも電車でもよく行った。私にとってはいちばん身近の都会であった。そのときもいつかはこんなにも来なくはなるだろうと思いながら来ていてそしていつからかほとんど来ることはなくなった。結婚して最初の頃はよく電車に乗ったがそれも乗らなくなった。若い頃滅多に電車に乗らない年寄りが「切符の買い方がわからない」と言って馬鹿かと思ったが私も自信満々で買えるか不安だ。切符を買うという発想自体古い。


それで久しぶりに川越に来ることになって車で来たが道が細くなっているとかんじた。よく子供のころ通った道が短く感じたりするが私は大人時代にその道を通っているから細くかんじるのは奇妙なことだった。さらに奇妙なのは久しぶりに川越にきたという私自身で実はせいぜい1ヶ月くらい前に同じ道を通っている。何年か前にその道で中村玉緒を見かけて大騒ぎしたことがありそれをブログにも書いた気がする。テレビの撮影だった。その後私は奇跡的にそのテレビ放送を見る機会があり私自身も通行人としてテレビに映るのではないかとわくわくしたが映らなかった。私が映るのはせいぜい電気屋の入り口にあるビデオカメラのデモの映像である。


春という季節からイエモン経由で思い出したから20年ぶりと錯覚したのである。


その後妻が同じ模様の服を来た女が自分よりも細いからと不機嫌になった。女は子連れで鷲鼻だった。ショッピングモールの中で子供をカートに乗せたまま女はジュースを買いに行った。子供はずっと母親の姿を視界に捉え視界から外れなければ子供は泣き出さない仕組みだった。私はその子供の様子を見て死ぬことなんか怖くないと思った。私が子供だからである。それとがたいのいい灰色のニット地のコートを来たカナダの山奥の熊みたいななりの女がフードコートで店員しか開けないような引き出しをがんがん開けていて何かを探していて私はそれも興味をもって眺めていたが女はやがて目当てのものを見つけて大人しくなった。