意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

カードキャプターさくら

少し前にEテレを見ていたらカードキャプターさくらがやっていておそらくそれは私が10代のころに放送されていたやつで私はこれは女向けだと思ってあまり熱心に見なかった というかそのころはアニメをあまり見なくなっていた あまり見なくなったきっかけはドラゴンボールZのナメック星編でフリーザ
「あと5分」
と引っ張るシーンで誰だったか忘れたがたぶんスキー教室のインストラクターの男が
「あと5分が1ヶ月もつづく」
とツッコミを入れていてうまいこと言うもんだと感心したことがきっかけだ それまでも話のあまりの進まなさにうんざりしていていつのまにか本編よりも次回予告のほうを熱心に見るようになってしまったがそういう気持ちをクリティカルな言葉で表現してくれたのが「あと5分が1ヶ月」であった


そういえばドラゴンボールには昔からひどい目に合わされていて当時私が購読していた「てれびくん」という雑誌に「ジャッキー・チュンの正体は亀仙人かもしれない」という記述を信じてきちんと「亀仙人かもしれない」と友人に伝えたら「かもじゃねーよ、亀仙人だよ」と馬鹿にされて悔しかったのを今でもおぼえている その人はきっと年上の兄のジャンプとか読んでいてジャッキーの正体なんてとっくに知っていたのだろう 彼は木の柵のある家に住んでいた


カードキャプターさくらに話を戻すとちびっこいさくらたちと対照的に巨人のような大人の人たちが出てくるのが異様で本放送されていた当時も異様だと思ったことを思い出した 私の子供も異様さをかんじて「この身長差なら赤ん坊くらいではないか」と分析した


ところで平日の朝6時40分くらいから「英語であそぼ」という番組が放送されているが前は「日本語であそぼ」で私はそっちは好きだったから熱心に見たが英語はちょっとついていけないから横目で見る程度だったがあれには厚切りジェイソンが出ていて最後厚切りジェイソンと英語に未熟な視聴者の感情移入の受け入れ先用の子供が2人いてそれらが勢ぞろいするのだがジェイソンと子供たちの身長差がちょうどカードキャプターさくらと大人たちの身長差と同じで感動した

人格と行動をわけて評価するのはむずかしい

公でも私でも人格と行動をわけて考えるのがフェアであるのが望ましいが人格に引っ張られないよう気を張るのはほんとうに疲れる ざっくばらんに言い直すと嫌いな人を正当に評価するのは骨が折れる 折れるというかこれは大きな視点に立つと嫌いな人が良い行いをしたときに自分の他人を見る目が良くなかったということになってしまう自己否定を受け入れられない自己愛なのかもしれない 何にせよ自分が「嫌い」と思った人が愚行に走ると安堵する 逆に何か悪いことが起こると「その人が絡んでないかなあ」と期待してしまうのである 昨日それを口にしたらそれはどうなのと軽く引かれた 確かにそれは品の良い行いではないけれど私はほどほどに下品な人間と思われたいからたまには感情に走るようなことを口にするのである 感情至上主義とまでは言わないが人が感情を克服するのはまず無理だと思っているから「私はいつだってフェアなんですよ」みたいな振る舞いを目にすると虫酸がはしるのである

芸能界

妻が今頃になって中森明菜がかつて自殺未遂したのには近藤マッチがからんでいることやメリーに「婚約会見だよ」と騙し討ちをくったことに腹を立て画面の近藤マッチに悪態をついている これは80年代の芸能界の出来事だが私はそのころのことを思うといつも飛び降り自殺したあるアイドルのことを思い出す 「あるアイドル」なんて書き方をしたのは名前をおぼえていないからでさらに歌とか顔とかもよく知らない ただその飛び降り現場の前を事件の前か後に叔父が通りかかったということを言っていてそこにリアリティをかんじたからおぼえているのである 

昔見た映画

中学から高校にかけてよく映画を見たという事実が過去すぎてまったく実感がない 中学までは学生証を見せなくても良かったが高校になると持ってないと容赦なく大人料金を請求された それでも見た 当時(1990年代)の映画館は席の指定なんかなかったし一度入ったら出るのはいつでも良かった それはどういうことかと言うと映画が始まってから入場し次の回の途中まで見て帰るということができたということだ 一度だけそれをしたことがある 「がんばれルーキー」という映画で叔父と見た この叔父は母方の叔父でこの前亡くなったのは父方の叔父だった 私たちは時間に間に合わなかったので途中からエンディングまで見てもういい気がしたが叔父が「見よう」と言うからそのまま席に居座り続け次の回も頭から見出した そして本当に「ここから見たな」というところまでくると2人で頭を引っ込めて外に出た せっかく見だしたから最後まで見たい気もした 先に最後を見てから最初を見るというのはネタバレということにうるさい昨今では信じられない行為のような気がするがそういえば祖母も推理小説は犯人がわからないとイライラするから最後からよむなんて言っていてこれは母方の祖母で前述の叔父の母である 保坂和志が「ストーリーが小説を遅延させる」と言っているが確かに先が気になってしまうと文章をかなり大ざっぱに読んでしまう 昔の映画館で映画を見たときは「あそこってなんでああなんだろ」みたいなところを二回目で確認するということが気軽にできた 今は映画のお金も高いし一回きりだから真剣に見なければいけない だからなのか一回見ればじゅうぶんという風になった ひょっとしたら映画はどんどん易しくなっているのかもしれない

×夫婦

100円ショップで買い物をしているとやたらと「罰ゲームどうする?」と盛り上がっている夫婦に遭遇した 時期的に考えてクリスマスでなにかゲームを行って負けた場合の処遇だろうか 罰ゲームで盛りあがるなんてダウンタウンみたいだと思った 私が若いころは「ダウンタウンの罰ゲームで視聴率○%!」とニュースになっているのをよく目にした 私はそのころはもう熱心にテレビを見なくなっていたから「罰ゲーム」がどういうものなのかわからなかったが罰を与えて笑いをとるなんて趣味が悪いなと思った 最近はよくとんねるずが標的にされているのを目にするが私の中では人を貶めて笑いをとるのはダウンタウンというイメージが強い しかし見たら笑うのでそこまで真剣に批判しようという気にもなれない 「笑っちゃいけない」は毎年見ている と言ってもバスが到着してだらけたかんじになると私はもうその辺で猛烈に眠くなって寝てしまうのがここ数年のパターンだ 大晦日は年の集大成だから早く寝てすっきり目覚めて新年を迎えたいのである そうして少しランニングするのが私としては最高なのだが家族が初日の出が見たいとか言うから一度しか実現していない 私は「初日の出より末日の出だろう!」と毎年主張しているが聞き入れられた試しがない 末日の出とは12月31日のその年最後の日の出を見に行くイベントで初日の出よりもずっと静かで厳粛なはずだ(行ったことはない) 


ダウンタウンが売れるようになるとクラスにも関西弁で突っ込みを入れる人が増えた 今はどうなのだろう ヒカキンとかなのだろうか ヒカキンは罰ゲームとかするのだろうか ダウンタウンを悪く言ったがドリフターズだっていかりやに相当ひどいことをした 風呂でおぼれかけるいかりやを目にして私は腹がよじれるくらい笑ったものだ テレビでいわゆる大御所的な人が出てくると気持ちがいいのはその人になりきっているからでペコペコしたりドギマギする若手は自分に対してそうしているように錯覚するのがテレビという装置である

今日は掃除をがんばった

午前中に会社の掃除を行ったらお腹が空いた そういえば昨日寝るとき胃が痛かった 不安になる痛みだった 寝返りをうつと痛みが移動するから中のほうの痛みだろう その前は空腹だった 天ぷらそばを食べてもう少し食べれそうな気がしたが我慢をした ここのところ食べるのは天ぷらそばばかりだ トップバリュのが多い コンビニのはスープがゼリーみたくなっているのが気持ち悪くてやめた 多少手がかかってもスープは液体のほうがよい ところで七味はどこにかければいいのか うっかり天ぷらの上にかけるとまぜるときに崩れてしまう ここで言う天ぷらとはかき揚げでありエビではない 私は天ぷらといえばエビよりかき揚げのほうがずっと好きだ 子供のころは年越しそばも冷たいのだったが今は温かいやつばかりだ 冷たいそばは粉っぽくて好きじゃなくなった うどんは論外だ うどんを食べるときはあまり食べていることを意識しないようにしている 今時の店はみんなうどん屋さんばかりだから残念だ 生きているうちにおそば屋さんブームはくるだろうか チェーンのファストフード店みたいなおそば屋さんができてほしい 花園インターの近くにはある 大して旨くもないがそれでも食べることに意識がいく そういえば昔「日本酒はどんなに不味くても燗にすればいける」と言っていた人がいたが蕎麦も同じかもしれない その人は割とUFOとかを信じるタイプだった

ぼくのかんがえた死について2018

生きている意味

生きる意味はないと考えるのが自然だと思っていてしかしあってもなくてもいいというのが私の最近の境地だ 上記の書いた人は他人に求めるフェーズだと思えば「いや意味なんてナンセンスですよ」と余計なことを言わずに済む それは時期的なものでやがて時が経てば違うという風になっていくのだろう そうやって何度目かの相対化を果たしていくうちに人は死ぬのである 私は上記の記事を読んでからむしろ死についてよく考えた だからやっぱり生きる意味があるならそれは死なのである 死ぬために生きているのである


父は死についてうまく考えられない人で私が未成年のころから死ぬのが怖いとは言わなかったが無になるのが信じられないみたいなことを言っていた この前叔父が死んだときにお経さんと飯を食っているときにまで
「死んだら無になるというのがどうこう」
と相談していた 私はそっと聞き耳を立てたがソノアトノ話がまったく記憶に残らなかったからお経さんもはぐらかすみたいな答え方をしたのだろう 父は死については素朴でありむしろ他の人よりかは死をとらえようとしているのかもしれない 他の人はもっと見ないようにしているのかもしれない


私は少し前から死んだらまた同じ人生が始まるんだと考えていてそれは同じ細胞だか染色体の配列がまったく同じならそれは自分だという考え方でワープの技術とはコピペと同じで遠方にコピーを作った後にここにあるのは削除することだというのをヒントにしている つまり完璧なコピーは「私」なのである 将来クローン人間というのができてその意識が他人と同じだったらクローンはつまりどこかが違っているということだ


同じ人生というのはつまりこれから先地球が終わって宇宙が終わったらまた宇宙が始まって地球ができて鎌倉幕府とかフランス革命を経てまた自分が生まれるからでしかし死んでいる間は時間は流れないからまた自分が生まれるまで一瞬なのである


おそらくこうだろうと考えているがこの考えを受け入れるためにはじゃあ生まれてすぐに親に殺される子供とか一生何かしらの痛みに悩まされる人は永久にそうなのかと言われると気の毒なので私はまだまだ修行が足りない