意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

クリスマスのプレゼント交換

クリスマスで円形に座ってプレゼントを横の人にまわすやつあるじゃないですか? あれを子供がやりたいと言う そんなの友達とやれと思うがそういえば最近うちの小学生の子はあまり遊びに行っている様子がない 家で寝てばかりいる 夜更かししすぎなのだ 日記の宿題は午後10時に書き込んだくせにノートには「7時」と書いたりして3時間もサバを読んでいる そうして学校が終わって家に帰ると寝るのである 夜はだいたいテレビの録画を見ている 世界仰天ニュースとか そうしてつい夜更かししてしまうのである 夜更かしするから友達と遊ばないのか友達と遊ばないから夜更かししてしまうのか とにかく家族でプレゼント交換をしたいと言う 私は男だから化粧品が当たったら気の毒だという 上の高校生だ じゃあトレードありにしようという トレード有りなら自分のプレゼントに交換してもらう 私は男でも女でも困らないようにトランプにするよと3回くらい言った 私が子供のころやはりクリスマスのプレゼント交換というのをやってそのときトランプが当たった ちっとも嬉しくなかった プラモデルを持ってきた人もいたからそれがいいと思ったがわざと隣にまわすテンポを調整する人がいて「そこまでして欲しいんかい」と興ざめして私はトランプにした 包装紙にくるまれているから交換するときはわからなかったが開けてみるとどうして開けるまでわからなかったのか不思議に思うほどトランプとは他にない形であり厚みであった そんなのは家にいくらでもあるのである ちびまる子ちゃんのとかりぼんの付録のりぼんの人気キャラのトランプとか 少し大人になってまた交換やろうという人が現れてそのとき私はゾイドを用意したと思う 女の子もいたがお構いなしだった 私がもらったら嬉しいからトランプよりかは悪意は少ないと思う そうしたら男の子に当たって男の子は喜んでいたが最後まで箱を開けなかったのでやはり興ざめした ちっちゃい500円か1000円くらいで買えるゾイドだった トイザらスで買った

これでも毎日更新している

毎日ブログを投稿することについてある頃は割と自覚的だったが最近はもうそういうことも考えなくなっていつ「気づいたら投稿する前に日が変わった」となるかわからない 最近は「本当に毎日書いているのか」と怪しくなって履歴をさかのぼるがどうやら書いているらしい 始めたころは気を抜くと本当に投稿するより早く日が変わったが今はあの頃よりも日が伸びたから書き終わっても日が変わっていることはない ところで書くのはともかく読む人なんているのかしらと思うが忘れたころにコメントを寄せられたり引用されたりするからどうやら2、3人には読まれているらしい ずっと読み続けている人はおそらく気づいているがこのブログはどんどん読みづらくなっている およそサービス精神のかけらもない 飲食店に例えると汚くて不味そうな店だ テーブルには醤油のこぼしたあとが取れずに残っているような店だ それでも店主は客に美味しい食べ物を提供しているつもりなのである 私はこんな店に入りたいとは思わない 私は味よりも清潔さと店員の態度がそこそこならいいと思っている お洒落すぎても肩が凝る 味は何を食べてもそれなりなのだ そういえばさっき食べた豚骨ラーメンが珍しく不味かった スーパーで買ったのだからノーカンである 家族の態度はいつもと同じだ ロンドンハーツを見ている 私は最近後悔について考えている 叔父が死んだときに私は家族に

「よく身内が亡くなって「生きている間にもっと親切にすれば良かった」とか後悔する人がいるがその人は愚かだ」

みたいなことを車を運転しながら語ったがその後でそんな上手くできるのだろうかと思ったのである ちなみにこれは私の考えではなく村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」という小説で片腕の詩人のディック・ノースが車にはねられて死んだときにユキがもっと優しくすれば良かったみたいな風に言って主人公が激怒するシーンからとった 「もっとああすれば良かった」というのは一見過去に向かった言葉のように見えるが実は今なのである 私は後悔とはとても卑怯なからくりだと思う

休みが多い

今月は休みが多い気がして3日連続して出勤すると「ああイヤだ」と暗い気持ちになってしまう 会社にいるととにかく暗いニュースばかりで滅入ってしまう どこかの拠点が統合されてそこで働いていた人は云々みたいはことを聞かされてどうしようと思ったり来月からはひとり減ってどうしようと動揺したりとにかくニュースに尽きない 楽しいということにしておこう 飽きないというか 昔サラリーマンとは基本的に同じことの繰り返しだから年をとるほどどんどん脳が劣化していくと聞いたがこれならまだまだフル回転させる機会もありそうだ という発想がすでに劣化したサラリーマン脳なのかもしれないが

靴を掃除した

靴をしまう箱が欲しかったがいつホームセンターに行っても子供用しか売っておらず仕方がないからいつもぼんやりしていたらある日妻が100円ショップで買ってきて100円ショップというのは本当に何でも売っているんだなと感心した いつだったか職場のドアの補修材も買った気がする 妻はとにかく金を使うのが好きな女で金さえ使えればそれが誰のものでもあまり頓着しないようだ しかし私はそれをしばらく放置してしまい箱は3箱あったが見かねた妻が靴を一足しまってくれた しかし普通1箱1足だと思うが1箱にひとつずつ靴をしまっている 一体これはと思い今日出してみてそれは前の冬以来履いていない靴だったからホコリまみれだったのでまずはそれを掃除した表面はころころでホコリを取り中は掃除機を突っ込んだ 私は普段履き以外にはあと2足の靴を持っていてそれを玄関から持ってきて掃除をした 夏にガムを踏んだ靴があったが寒くなってガムは取りやすくなっていた もっと広い玄関なら下駄箱にしまうこともできたが狭い玄関で特に冬になると義母が植物をそこにしまうから尚更狭くなった またときどき義父が私の靴を履こうとするのでやはり靴は自分の管理下に置くのが賢明だった そうこうしているうちにいくらかきれいになった靴を箱にしまったら思いのほか箱が小さいので妻がひとつずつしか入れなかったのはこのためだった 私は少しひねって入れたらちゃんとしまうことができた

理想の自分

ヒトコトへの回答⑪:なりたい自分像 - Letter from Kyoto


上記の記事を読んで自分の中に「理想の自分」てないなあと思った その前に川添さんがなりたい自分をすぱっと言っているのも意外なかんじがしてすぱっと言っているから気持ちがよいかんじがした また質問の中の「なかったことにしているだけではないか」という言葉も興味深かった というのも私は昨日くらいまで脳科学の本を読んでいてそういうのってたぶんどれも同じように「記憶ってあてになりませんよ」みたいなことが書いてある だから「なかったことにしてるだけ」と言われてみるとそうかもしれないという気になってかつて自分も理想の自分・なりたい自分というのがあったという痕跡をかんじた というか過去の自分にアクセスするのはもう不可能で結局どう評価したところで的外れというかおそらく過去の自分というものがそれを知ったら悪意をかんじるくらいの見方を過去というものに対してしてる気がする 「なかったことにしてる」というのはむしろ「(なかったことにすることが)普通なのだから私たちは過去なんて好き勝手書き換えていい」という非常にポジティブな気持ちになれる言葉だ


私も理想の自分がないというのはつまりそれになれなかったときに傷つくのが嫌でまた人に「どうせ無理ですよ」みたいに言われて傷つくのが嫌だからもう意識の中に「理想の自分」が出てこないようにしているだけのような気がする でも私はもう自分を悪く言うことに疲れてしまったので疲れないために「理想」を遠ざけているぶぶんもある 今だけを視野におさめる人がいちばん幸せなのだ しかしそういう考えがただ快楽に溺れる・ただ楽しいことのみを追求すると自分の中でイコールにならないのは何故だろう


私も川添さんと同じように多くのことを知りたいと思う また、より本質的なことを知りたいと思う しかし「本質的」というのはどこかいやらしい響きがあってそういう合理主義みたいなのとの距離の取り方について私はいつも途方にくれてしまうのです

縄文時代

叔父が死んで今日もお経屋さんがきてお経をあげたこのお経屋さんは実は二代目で二代目というのは私から見て二代目でもっとずっと前から続いているが先代は先代でまだ現役らしいが陽があるらしく二代目がきた しかしここのところ法事がなんだといつも二代目な気がする 妹はこの二代目を「小坊主」と呼んでいて正確な年齢はわからないが童顔でこのお寺はいつもお経のあとに説教をするが小坊主はいつまでもこれが上手にならない 昨日もパンダが偉いとかよくわからない話をした 私もよくとりとめのない話をしてしまうがこの人は一応プロだしもう少し真剣に練習したらどうかと思ってしまう しかしここ何年かでだんだん可愛らしく見えてきたのも事実だ


叔父が火葬場につき何基かならんだエレベーターの扉のようなところのひとつに棺は入った 扉が開いたときに中がちらりと見え壁面が洞窟のようになっていて私は「縄文時代のようだ」と思った もしくは石器時代のほうが合っているかもしれない 私はこうして人は死んで歴史に帰っていくんだと思った 扉が閉まり「チン」て音がして何もここまでエレベーターみたくしなくてもよかろうにと思ったら小坊主の金物の音だった それを合図にまたお経が始まって私たちは手を合わせた エレベーターと私たちは分厚いガラスに遮られていて小坊主だけが中にいて小坊主は私たちに背中を向けてエレベーターに向かってお経を唱えた 私はなんとなくステージでギターソロを行うギタリストの背中を見守るドラマーのような気持ちになった その後私たちはずいぶん狭い部屋で食事をとって叔父は骨になった

財布を落とした

叔父が死んで弟について考える時間が増えた 子供がお坊さんのことを「お経さん」と呼んでいて笑った 肝心の坊さんの説教がぜんぜんまとまりがなくて霧をつかむみたいな話し方で困った その前のお経のほうが余程わかりやすかった わからなくてもすらすら言うからわかったかんじはした 説教は「あー」だの「うー」だの時おり旭山動物園のパンダがどうとか言って旭山動物園にはパンダはいないがいなくても頑張ってるとか言いたいのか とにかくたまに白目をひん剥きながらいつまで続くのだろうこの日本語の泥沼みたいな雰囲気が聴衆をつつんだ 私も人前で放すとついつい長話になる傾向があるので聞いているほうはこんな風に思っているのかもしれない しかし人前であまり事前に考えもなくしゃべるのは結構スリルがあって楽しい