意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

途中式(さくらももこについて)

さくらももこが亡くなったというニュースを聞いてショックを受けた ありえない場所から飛んできた打球を受けたようなかんじがした イメージよりも若いことは知っていた 私はショックを受けた自分に戸惑った このショックは祖父母や親戚が亡くなったときよりも大きかった 少し前に身内以外は死んでも構わないみたいな文章を読んで「そんなに単純な話じゃないだろう」と思ったがその通りだった ひと皮むければみんな自分のことしか考えていないというのがあるがそれが正しいとかおかしいとか考えるのはナンセンスで私たちは比較的余裕のある世界に生まれてしまったからそのリソースどうしましょうかという話なのである 明日突然北斗の拳の世界みたくなってしまったらオープンカーに立ち乗りして鎖のついた棍棒を振り回しているかもしれない 女をレイプしまくるかもしれない 立川が「俺は間違いなくそういうタイプだ」と言っていた 何の話のときだっけ? 確かに立川はモラルが低いと私は思う 一緒に買い物したときにカゴに入れたものがやっぱりいらないとなったときにはその辺の棚に押し込んで絶対に元の場所に戻そうとしない しかし仕事は非常に丁寧だし茶目っ気もある 極道やヤンキーが身内を大事にするのに似ている 昔夜のカラオケ店の前の道で異なる不良グループがお互いに因縁をつけて険悪になったときたまたま相手チームに友達がいるのを発見したメンバーがいて「なんだよ~」と一気に和やかムードになったという話を聞いたが未だにその理屈が理解できない 何かしら気にくわなかったから因縁をつけたのに知り合いだからって急に許せてしまうものなのか そういうリソースの使い方もあるということなのか


さくらももこの文章で好きだったのは小学のとき先生に怒られているときに家にいる母親のことを思い出しまさか今怒られているなんて思っていないだろうなというやつで私も教師に怒られながらそんなことを考えたがらさくらももこは文章うまいな、と思った それを読んだのは大学の図書館だった 中学くらいのときは熱心に読んでいたが徐々に読まなくなってそのときはたまたま手にとって読んだらそういう切ない話が出ていた ギャグももちろん面白かったがギャグというのは段々と愛着に変わってしまいそうするとまったく笑えなくなる 子供のころ呼吸困難になるくらい笑ったドリフのコントも大人になって見るとお風呂のコントで死にそうになっているいかりや長介を見てむしろいたたまれない気持ちになってしまう 

途中式(10)

前回までのあらすじ:愛知の人は早口である


三谷さんは社長の大目玉を食らって一気に平に降格したが本人は内緒にしていたので私たちはそれから2年は三谷さんのことを「三谷さん」と呼び続けた その間ポストはずっと空だったから誰も気づかなかった しかも商品管理の浜田が辞めて三谷さんはその仕事を引き継いだことが三谷さんのブランドを高めた しかし実際私たちは三谷さんが落ち目だったことは気づいていて(あんなに社長に怒られたのだし)余計な仕事を振られたくなくて三谷さんの降格を見てみぬふりをしたのである 三谷さんも自分のプライドを維持できたからウィンウィンであった


ところで震災のとき下関川はまだ入社していなかった 下関川は以前は某スポーツショップ契約社員として働いていた 震災のときはすでにそこを辞めて半年ほど経っていて入社するのはそれから2ヶ月後だった そのため会社の計画停電のことも知らなかった 下関川の家の近所に公民館があったとかで下関川の住んでいる区画は計画停電の対象外だったので、下関川は計画停電そのものをよく知らない 停電にあたる時間は機械を動かせないためできる仕事は限られた できる仕事も明かりがないとできなかったため作業台を窓辺に移動する必要があった 室内は窓が少なく春の日はまだまだ弱々しかった 震災があったのは3月11日の3時前だった その1週間前は本社で研修を受けなければならずそれにはNも参加していた

途中式(9)

私が転職したのは2010年の夏でその夏に雷が鳴っていたかはわからない 仕事に慣れると帰りにコンビニでアイスを買って食べるようになった それまで2年くらいは電車通勤でまったく音楽をきかなかったが車に変わったので音楽を聞くようになった ブランキージェットシティのCDを何枚か買って聞いた


翌年に大きな地震があって建物が揺れた あわてて外に出ると外灯が大きく揺れていた 停電になったので工場長の三谷さんが車でラジオを聞いていた 運転席の窓を開け片足を地面につけていた 私はなんとなく三谷さんのそばにいたがラジオがよく聞こえないので駐車場内をぶらぶらしていた すると淀川に
「そこを離れろ」
と怒鳴られた 看板が倒れてくるというのである 淀川はもともと建築士の事務所で働いていた 淀川がいうには日本の建造物の構造計算はみんなデタラメで大地震がきたらみんな倒れてしまうとのことだった 私もR4(立川、淀川、下関川、あとひとり忘れた)も早く家に帰りたかったが三谷さんは帰ってよしとは言わなかった 三谷さんは優柔不断に定評のある男だった 係長だったが仕事が詰まってくると口をきかなくなって誰が話しかけても無視した さすがに社長が話しかけたら返事するだろうと思ったら無視をして降格させられた 地震から3年後の話である 出荷準備に忙しかったらしい マスクをしていたから返事はしたけど声が小さかった可能性もある 三谷さんは普段からぼそぼそしゃべるから私は話しかけられてもまず一度では内容が理解できなかった 私も耳が遠かった 耳が遠い人によくあることだが何度も聞き返すとだんだん面倒くさくなって聞こえたふりをしてしまう そうして相手に「で?」と訊かれて気まずくなったり行動に移したら「違う」と怒られたりしたが大人になるとほとんどそういうことはなくなった 大人になるとお互いがお互いの話を聞かなくなるからである 話が理解できないときは自分の言いたい話をすれば良かった 特に名古屋や愛知の人の話を聞くのは困難であっちの人はどうしてあんなに早口でしゃべるのか不思議である

途中式(遠雷)

前回までのあらすじ:「私」はあまり映画をみない


ここ2日ほど暑さが続き積乱雲が発生した 夕方からその内部で雷が発生しどこかのコンサート会場のように光ったり光らなかったりした 私はそれを高速道路上で見た 軽井沢の帰り道だった 花園インターのそばで自己が発生し40キロの渋滞が発生した 初めは小規模だった稲光が家に近くなるにつれ空全体に及ぶようになった 反対側に満月があってその光が暖められた空気が雲によって歪められトースト上のバターのように溶けてしまった やがて復活しまた溶けるを繰り返した 雷雲は茨城のほうにあるようだ


私はこの話は10月くらいまで続くのではないかと予想している 「途中式」という言葉のニュアンスはどこか遠回りのような道草のようなものを含んでいる 遠回りというのは私の勝手な定義だが目的地というか最短ルートを視界の隅でキープしながら行うものだ そういう特殊なものの見方はフィルターとなって認知を歪ませるのである


遠くの雷の光が広範囲に及ぶと雲の輪郭がはっきりして昼のようだった 雲は一瞬で消えるがそれは切り取られた夏のように見えた

途中式(7)

前回までのあらすじ:「私」は夏に転職を決意した


面接に出たのはアロハシャツを着た中年の男だった 1階が倉庫で2階が事務所だった 階段は外にあった 駅からは離れていた 
「こんな格好で申し訳ない 土曜日は「ノー・ネクタイ・デーなんだ」
と言いながら自己紹介をした 応接室に通してくれた 男の他には若い女の事務員がひとりいた 女の顔は縦長でカーディガンを羽織っていた 結果的に私はその会社に採用になったがその後社内で「ノー・ネクタイ・デー」という言葉を聞くことはなかった 代わりに会社の女性社員は必ずパンツスーツを着用しなければならないという決まりがあった セクハラ対策なのだそう しかし人の少ない土曜日になるとフリルのついたフレアスカートを履いてくる人もいた 土日も営業していた


一次試験は筆記試験だったが結果が書いてあると思われる紙切れを眺めながら男は「上々だった」と言った メガネの奥の眼を細めた 老眼なのだろう だんだん面倒くさくなったのか少しすると「点数はいちばん良かった」と言い出し「採用するよ」と言った 「え?」と言うと いつから来れるかという話になった 「8月」と言うと「じゃあ8月」となった そのときは6月で蒸してはいたが本格的な暑さはまだ先だった 私が公園で大盛ペペロンチーノを食べていたころだ ペペロンチーノ以外も食べただろうが全く記憶がない プラスチックの皿がぺらぺらで食べていると太ももが熱くなった 麺なら熱も逃げるだろうがチャーハンなどでは大変だろうと思いながら黙々と食べた 公園の周りには軽バンの屋根にハシゴを載せた車だのが停まっていてみんなお昼なのだろう、私は勝手にそういう人等に連帯感を抱いた


そういう風景が一気に懐かしくなった 男がメモ書きで給料の額を伝えた 子供の人数を訊かれたので
「2人です」
と答えるとじゃあ家族手当はこれこれという話をした 家族手当は途中でなくなった 手当はなくても家族はいた 男はそのずっと前に定年を迎えて辞めた その間に一度くらいしか会わなかった 立川は
「あいつはカタギじゃないんだよ」
と教えてくれた 手の指に(人差し指か薬指、忘れた)指輪を模した刺青があるそうだ それがヤクザか元ヤクザのしるしらしい 私はそういうのは知らなかった ヤクザ映画もほぼ見ない というか映画自体まず見ない この前黒澤明「乱」を見たがズルい女がいてすぐに死ぬのかと思ったら案外最後まで残った ズルい女がすぐ死ぬのはこのパターンの反転なのだろう あとピーターがキスマイの藤ヶ谷くんに見えてしかたがなかった 藤ヶ谷くんが時代劇に出てたときそっくりだ 藤ヶ谷くんのファンは試しに見ると良い

途中式(6)

ナノハちゃんと私は年は8歳離れていたが入社した年は同じだった ここからはNと呼ぶことにする 私は中途採用でNは新卒だった 私は土曜日の面接でNは平日だった 一次試験は平日で休みを取っていったが二次でまた休むのは難しかった そのときは別の会社に勤めていた 二次面接の連絡を受けたときに断ったら「土曜なら来れるだろう」と向こうが日にちを変えてくれた 前の会社というのはフロアに大勢の人が働いていてそのほとんどが女だった ぎゅうぎゅうに詰め込まれている部署もあればスカスカのところにあった それらがセキュリティ付きの思い扉で区切られていた スカスカのところは終始暇そうだった そこに自衛隊みたいな髪型の男がいて私はその男に難癖つけられたことがある 同じ派遣元だったのである 池袋で忘年会をやるというので30分くらい同じ電車に乗って気まずかったのがいちばんの思い出だ 自衛隊はもちろん軍のおさがりを模したブルゾンを着用していた 趣味は単車ですとでも言いたげな出で立ちだった 実際そうだったのかもしれない 池袋に社長という人がいてブルゾンは社長に
「肉を追加しろ」
と命令をした 呼び方も社長ではなく「大西」だった 旧知の仲なのである 私たちはしゃぶしゃぶ屋にいて肉はブルゾンのおかげでたらふく食べられたし社長もたくさん肉が振る舞えて自尊心を満たしたが私は
「この近くの携帯屋に勤めてましたよ」
と言うくらいであとは何もしなかった 難癖をつけられたのはその次の飲み会だった 飲み会の前に「ミーティング」というのがあって数字のこととか私には意味が分からなかった 飲み会で社長は私にはアグレッシブさが足りないと言いブルゾンも同調した もう肉は出てこなかった 若い女がひとり増えだいぶ社長と懇意の風であった 私は社長の示したい威厳の犠牲者だった


それから私はひとりで昼食を食べる機会が増え社食に行けば誰かしらに顔を合わせるからコンビニで大盛ペペロンチーノを買って公園のベンチで食べた 公園に人はいなかったが周り中にいろんな車が止まっていた やがて季節が夏にさしかかってどうにも暑くなってきたころにそこを去った

途中式(5)

ナノハちゃんを虐めていたのは誰なのかという話になった 立川がナノハちゃんの手首にはリストカットの痕があったと私に教えてくれた 淀川はナノハちゃんはとんでもないビッチだと教えてくれた だいたいの人がT所長とナノハちゃんの関係においてはT所長が立場を利用して無理にナノハちゃんをそばに置いているという評価を下していたが淀川だけはナノハちゃんをひたすら悪く言った 
「(あの女を)消毒室で犯したい」
とも言っていた 作業場には消毒室があって壁際には塩の束が山積みになっている 全体的に薄暗くちょうど農家で言う納屋のような場所だった 頭の悪い淀川がそこで性的興奮をおぼえても無理はない 消毒室は朝のうちに何度か出入りするだけで1日の大半は放置されているが換気扇は回しっぱなしだった 淀川にその理由を訊くと
「換気扇を回さないと蛇が入る」
と教えてくれた そんな話訊いたことがない また万が一蛇が入ったときのために塩が置かれていると言ったが淀川はどうやら蛇とナメクジをごっちゃにしているようだ 私は
「そうですか」
と答えた あまり理屈を言うと淀川は激昂してしまうから言葉を控えなければならなかった 淀川は以前会社の上空を飛ぶヘリコプターがうるさくてナックファイブの「ファンキーフライデー」が聞こえないと自衛隊にクレームをいれたことがあるらしい そのヘリコプターが本当に自衛隊のものかはわからないと立川が話してくれた 会社のキャリアでは立川のほうが長いがもう淀川は手がつけられなくなっていた 長らく淀川がいちばん下っ端だったが(品川は淀川よりは早かったが外回りを担当してあまり関わりがなかった)私が入ると私の言葉遣いを厳しく指導した
「そうっすね」
という言い方が気にくわなくて二度ほどへそを曲げ私はその度に頭を下げた 淀川にはタカハシという仲の良い営業がいたが私と入れ替わりに退職していて私の言葉遣いにしろナノハちゃんにしろ寂しさを紛らわすためにそうしていたのだった タカハシは置きみやげに無修正のアダルトDVDコレクションを置いていってそれはミッキーマウスのファイルに入れられていた 中を見るとDVDがぎっしり入っていた タカハシも消毒室に性的興奮をおぼえたクチなのだろう