意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

テイラースイフト

テイラースイフトの動画を見たら面白かった 妻のPCでみた そのとき私の携帯は充電中だったから もう三年以上もつかっているから充電がすぐきれる 家に帰ったらすぐにコードをさす 夜寝るときにもささないと朝アラームがなった瞬間に電源が落ちてしまう アラームとはそんなに電気を食うのだろうか テイラースイフトは若いのかおばさんなのかよくわからないね

暖かい

朝会社までの道のりを歩いていて寒くないからハッピーだった 今年も薄めのコートで乗り切った 来年はどんな気持ちでこの道を歩くのか あるいはもう来ていないかもしれない とちゅうにそこそこ太い道が横切っていていつも車の切れ目を待たなければいけない 神奈川の人が「埼玉の車は歩行者のために停まってくれない」と話していた 埼玉の人はダサいだけでなく狭量なのであった 歩行者になってみると確かに譲ってくれない 私は横断歩道の前に立っているのである その先に運送会社があって砂利の駐車場に同じ色のトラックが何台も停まっている 道に出るところに段差があってそれを解消するために柔らかいスローブが置いてある そういえば歩道橋の階段もやわらかい やわらかい道はなんとなくオズの魔法使いを連想する

昨日はライアーゲームを読んだ

話の中のゲームが難しくてとちゅうから飛ばし飛ばし読んだ キングダムも読んだ 強そうな敵が出てくると気分が萎えた キングダムはごつい人ほどかませ犬みたいな死に方をする 対照的に主人公と同じ体格の人は長生きだ そういう敵がその仲間と馬鹿やってるシーンが出たりするとかなりの長生きだ その人たちが戦争を起こすとかなり長引く うまい具合に横やりが入るといいがそれが続いたから今回は決着までやりたいらしい そうすると長い 長いのは長生きの人がやられる理由を練るからだ 何が誤算なのかきっちり読者に提示しなければならない 作家とは大変な仕事である 私などは雑誌などは読まないから敵はせいぜい二種か三種でいい 三国志は派手な登場をしてもいつのまにか死んでいたり同じ人が二度三度死ぬからリアルだ 登場と退場がバランスを取れているのは胡散臭い かつて「シュート」という漫画でブラジルのすごい人が出てきたと思ったらドイツやスペインもすごくてこれらと全部戦うのかよと思ったら見ているだけで疲れた しかも日本は日本でなんとか高校がすごいとかやっててでも現役Jリーガーも出てきてやっぱすごいよねとなってわけがわからなかった

子を想うときあるいは父母を思っている

「あなたのお父さんはあのとき本当にやばかったのよ」
そう母が言ったときがある 父はそのときはグループの別の組織に異動させられてそれから少ししてその職場を去った やばかたのはその前で当時新しく来た理事長に目をつけられて色々苦労したらしい 私には当時も今もそのヤバさの本質がわからない もっと突っ込んで聞けばいいのだが親子の間には見えない壁がある だから私が今どういう気持ちで日々の仕事をこなしているか私の子供はつゆ知らずといったかんじだろう その点が救いであった のんきに
「5ミリ方眼のノートを買い忘れたので買ってきて」
と私に依頼してきた 9時を過ぎてもそういうものが買えるのである 私はTSUTAYAまで車を走らせた 私の頃は夜になって買い忘れに気づいたらアウトだったが今はアウトかどうかは親の裁量になっており親が親らしく振る舞う難易度が昔より上がっている 欲しいのは二冊だが五冊組のお得セットがあればそれでもいいと言った レジの横にあるらしい なかった ついでにふらふらと本屋コーナーに行くと吉野弘の詩集があってぱっと開くとI was bornが出てきてそれは粋がった子供が「僕らは生まれるんだね」と言って父親を困惑させる内容だった つまり生まれるとは受け身であるという子の発見に父が本当は生まれたくなかったのではないかと早とちりしカゲロウのお腹に卵がびっしり詰まった話をでっち上げるのである それを読んだのは中学か高校のときでこんな小説みたいのでも詩なんだと私と友人は感心した 


私はそういうおなじみの詩がたまたま訪れた本屋で手にとって開いたページに出ていて感激した 同時に私は父と母から生まれて今は子の父であることを思い出した ついさっきまで天涯孤独だと思いこんでいた この気持ちは明日になったら消えるだろう 詩をやろうと思った

一番の健康法は死を定義すること

昨日の記事と似ているが健康法というものがあるがそういうことを頑張る時期もあるが頑張っても死んでしまうのは空しい気がする 健康のためなら死ねるというジョークが昔からあるがそういう境地はあながち健全なのかもしれない 健康というのは単純に死までの時間稼ぎなのではないか 健康だからと言って死ぬのが怖くなるわけではなく怖いから健康になるのである そうじゃないですよという人が大勢いるだろうがそういう人は何が目的なのだろうか 人生を充実させるためなのである しかし人生の充実も結局は死から目をそらす目的なのかもしれない だから体を丈夫にするのはいいけれど頻繁に死について考えて死ぬことに対する仮説を立て続けないと健康とは言えないのである 私は最近は死んだ後は無だよねという考えにシフトしてきていて意識という装置が生まれる前や死んだ後を錯覚させるのは友達の気持ちを考えるのと同じようなものだと思った そういう風に考えると死ぬのはあまり怖くないかんじがする 私はこの冬も大きく体調を崩すことなくここまでやれて良かったと思うが昨日まで丈夫だからって明日以降が担保されないのは空しい

時間管理は死を近づけるか遠ざける

時間管理術の本を読んだ 私はこの手の本は好きだが読んでいるうちに「ここまで切りつめてその先何があるのか」みたいな気持ちになった 例えば私は「自由な時間」と言われてもぴんとこないが「ぼんやりできる時間」と聞くと「ああ、ありがたい」と思う 数年前のゴールデンウイークに江ノ島に行った日のことを思い出す 何を好き好んで人ばかりの場所で競うようにサザエやつぶ貝の串焼きを頬張るのか理解できなかった そういう人たちが実は時間管理の達人なのである 私はそういう人にはなれないとは思わないがやはり何かしらを考えずにはいられないだろう 結局時間配分を最適化して自由な時間を手にし死までの距離を稼ごうというのか あるいは引っ張られて近づくのか

毎日が祭りのようだと人は言うけれど

日々が目まぐるしく過ぎていく 午前で帰っていいかという人にダメだと言った 今日で最後なのである お昼に聖書の話をした ピラトが手を洗うと水が真っ赤になった話をしたらその人は知らなかった イエスがはりつけられたとき地震が起きて木が倒れたそうである またその人はご飯を2合炊いたが朝昼じゃ食べきれないと言った それはそうだろうと私は呆れた 私の家は家族みんなで2合という日もあるのだ 決して小食ではないが子供たちはお菓子ばかり食べるのである