意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

昨日のつづき

昨日書いた文章は途中からつまらなくなってしまった。理由を考えてみると、なんとなく村上春樹を擁護したくなる気持ちが働いて、村上春樹に対して前向きな気持ちで終えられるように、無理に流れを持っていこうとしたのが良くなかった。やはり、自分の文学の目覚めが村上春樹であったから、そういう風に書きたくなるのだろうか。しかし、伊東ケン氏は実は、特に村上春樹を否定しているわけではないのである。昨日の文章を書きながら、自分の考えがどんどん伊東ケン氏に近づいていくのを感じた。しかし私の考えていることはおよそ的外れであろう。
私が昨日書ききれなかったことを今書くが、私は最近保坂和志という小説家の書いたものをよく読んでいて、小説論などはとても面白い。小説とはなにかをひたすら追求する感じだが、何が書いてあるのかよくわからないところもあって、わからないからゆっくり読めるし、とてもわくわくする。その中で保坂和志の持論があって「小説家と役者は、素人でもある日突然なれるものだ」と言っている。私は伊東ケン氏のツイートを読んだ時に、真っ先に浮かび、ほとんどすがるように、繰り返し頭に浮かべたのは、実はこの言葉だった。
伊東ケン氏のツイートで主張されていたのは、「芸術というのはエリートでなければできない。または若いころに訓練を積まなければ芸術にはならない」ということだったが、これは前述の保坂和志の持論と相反する。ちなみに、村上春樹は伊東ケン氏も言及していたが、29歳で突然小説家を志し、それまでは全く小説を書いたことがなかった。だから村上春樹の小説は芸術(文学)とは呼べず、ただの商業小説にしかなり得ないのである。しかし一方の保坂和志の持論でいくなら、村上春樹はまさにこの典型であるし、小説家というのは、若くして、それこそ10代でデビューする人が結構いる。そういう人は天才なのかもしれないが、21世紀になってから、もう何人も20代前半で芥川賞とかとっている人がいるので、この人たちがみんな天才とは考えづらいし、やはり小説というのは、誰でも書ける人は書けてしまうものではないか。そうなると伊東ケン氏の主張は、音楽家から見た芸術観であり、あまり文学のことはわかっていないのではないか、となる。
しかしここで両者の主張がぶつからない、別の考え方を示すと、そもそも文学とは芸術であるのか、という疑問がある。
保坂和志は、「小説家、と、役者は、」と述べた。しかし、小説家が芸術家とは言っていない。私は演劇とかは全くわからないのだからアレだが、役者の中で「あの人の演技は芸術だ」と言われるような人はいるのか。芸術、役者、となるとやはり歌舞伎のような世界となり、歌舞伎俳優は、幼いころから稽古を積まなければ、なることはできない。
だが、小説というのはエリートも非エリートも混在している。近年の日本を代表する作家として、1番異論がでないのは、大江健三郎中上健次だろうが、前者はエリートで、後者は元土方(のような仕事)であり、やはり一定ではない。そう考えると、やはりこの決めつけ方も乱暴だが、小説(文学)はそもそも芸術ではないのかもしれない。
私は文学について、今までは言葉を用いた芸術である、とぼんやりと認識していたが、結局それは昨日今日考えたくらいで簡単に崩れてしまった。そもそも崩れるようなものなどなかった、と言っていいのかもしれない。