意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

夏休みの宿題

私はもうすぐ夏休みも終わりで、娘の、宿題に関してはほぼノータッチであったが、帰ってみると1行日記、というものが目につき、これはぜひやめてほしいと思った。なぜならそれは貧富の差が表出ってしまうからで、貧乏な人は見栄を張って嘘を書いてしまうかもしれないが、それはそれで空しいのである。しかもそれが毎日続くのである。1行日記だなんて、日本の一億総中流時代の名残であって象徴であり、今の世の中にはそぐわないのではないか。日本よりもずっと貧富の差が大きいアメリカでは、当然1行日記など存在しないのである、おそらく。

1行日記といえば、ブログも近いものがある。私はこのブログを始めるまでは毎日書くなんて、とても自分にはできないと思ったし、書くこともないのに毎日必死になって探しながら書くというのはとても無意味なことのような気がしていた。今も気がしている。つまり、私は、少なくとも今は書くことがいくらでもあるという状態なのだ。私は毎日1本の記事を書くというよりも、1本の記事を何日か、あるいは何年かに分けて書くつもりで書いている。大根のかつらむきのようなイメージだ。私は包丁さばきがとても下手くそなので、カワがすぐに途切れてしまう。だから次の日にまた剥き始め、最終的に実が完全になくなるまでには、何年か、あるいは明日にはそういうことが起こるのかもしれない。私は言ってみればその、完全になくなる、という状態に憧れているのである。

また次の大根が出てくるということもあるかもしれないが。

ところで夏休みの宿題と言えば読書感想文もあるが、私は読書感想文と、努力と才能、については随分昔から考え続けていて、その都度違う考えが出てきて、しかし文章にすると陳腐になりそうなので、放置している。