少し前の記事で、私が小島信夫に触れると、Z氏が、
「私はあなたの文体をパクりたいと思うので、ぜひ、オススメの小島作品を教えてほしい」
とコメントをつけた。彼の弁では、
「唐突に「パクる」と当人に言うのは、失礼に当たるのかもしれないが、こうして最初にパクることを宣言すれば、あなたは気を悪くすることはないと高を括っている」
そうだ。そういう趣旨じゃなかったかもしれないが、同じことだった。確かに私は気を悪くしなかった。むしろ私の影響で読んでくれたなら光栄なくらいなので、「寓話」という小説を勧めた。ただしそれは現在絶版だから、中古も高価であるし、図書館に置いてなければ、買うのなら「うるわしき日々」がいい、と正直に答えた。これは、以前別の人にも、やはりほとんど同じ内容のことを書いて勧めたから、私はZ氏にフェアに接することができた私に満足した。
しかし、このやり取りに私は違和感があり、後から考えてみたら、Z氏は私の「文体」をパクろうとし、私は気前よく「寓話」を読むように勧めたが、それは決して気前よく「文体」をパクることを了承したわけではないことに気づいた。私はむしろZ氏の目先が小島信夫に向いてくれたおかげで、自分の文体が守れたと安心していた。
とうぜん、私の文体が、小島信夫の影響を受けていないわけではないが。
違和感の正体に気づいた私は、今度は「守るべき自分の文体」など、そもそもないことを証明したくなった。それを持つことはとても危険に感じたから。私は自分のコメント欄に、私が文体で影響を受けたと思っている小説や作家名をずらりと並べたい衝動にかられた。しかし、思いとどまり、思いとどまった理由は、実はZ氏が呼びかけたのは私だけではなく、A氏という人もあり、私とA氏はその前に小島信夫の話をしていて、それに興味を持ったZ氏が声をかける、というのがそもそもの始まりだった。だからそこで小島信夫以外の小説を取り上げれば、A氏には大変失礼にあたるので、私は思いとどまった。ちなみにA氏のオススメは「馬」であった。
そこで私はこうして記事にすることを思い立ち、家に帰ると志津が台所で自分の茶碗にフライパンを傾け、なにかをどぼどぼとかけていたので、私の夕飯はないと決めつけて二階に上がり、ヒーターのスイッチを入れてから本棚から文學界という雑誌を取り出して記事を書き始めた。雪は降っていなかった。そうして、書き終わったときに、「守るべき自分の文体」というものが本当にあったのなら、それを捨ててしまおうという魂胆なのである。
ところが何行も書かないうちに下から怒鳴り声が聞こえ、下に降りてみると私の夕飯はあった。親子丼だった。
(続く)
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