意味をあたえる

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ロラン・バルト「テクストの快楽」

少し前にいまだなつき (id:imada-natsuki)さんが、ロラン・バルトをブログで紹介していて、私は興味を持った。紹介というか、いまださんはそのときロラン・バルトの本にインスパイアされて、掌編を書いたのだった。

ところで、ブログで小説を書くという行為はとても有利だ。ブログは日記、雑記、批評、フィクション、という定義はなく、ノートとか手帳のカテゴリであるから、永遠に定義などされないのだろうが、私が思うに、「フィクションでないもの」のほうが主流だと思う。私の読ませてもらっているブログでは、ドラゴンや妖精の登場や、殺人事件はそうそう起きない。そういう頭があるので、読んでいて突飛な展開があると、仰天する。これがもし「小説です」と言われ渡されたものなら、仰天せずに、分類するだろう。小説を読むという行為はとても退屈だ。

いまださんはそのときに、インスパイアされたロラン・バルトの本を紹介していたが、それは「テクストの快楽」ではない。私は以前もこのブログで「いまださん」という文字を打った記憶があるが、そのときはIDコールをしなかった。だから、いまださんが気づかずに素通りする可能性もあり、それはスリルがあった。別にスリルを求めてIDコールをしたわけではないが、IDコールという行為が、首根っこを無理やり掴んで連れてきて、「読め!」と放り投げるイメージが、私の中であるので、いつも躊躇はする。でも立場を入れ替えると、私はIDコールはとても親切な行為に感じる。好意的な内容に限り。

とにかく今回はIDコールを行った。しかし呼び出しておいて、
「あなたのブログを読んで、ロラン・バルト読もう思ったのですが、読む本は違うのにしました」
というのは失礼ではないか。そもそもなんで「テクストの快楽」を選んだのかと言えば、以前Twitterを介し知り合った人がいて、その人は哲学や思想にものすごく詳しい人で、その人自身も短歌を書き、私たちはある期間、毎月お互いにに書いたものを発表した時期があった。それで、発表の方は今はあまりやらなくなったので、自然と疎遠になり、しかしそれでは寂しいので、せっかくロラン・バルトに興味を抱いたので、メールでオススメを訊いてみた。すると「「テクストの快楽」が面白いです」というので、図書館で借りた。つまりひとりの批評家の名前を使い、私は2人の人に媚びたのである。

「テクストの快楽」は全体的には難しいが、比較的気楽に読めた。すらすら詠めたと言ってもいい。私は「倒錯」や「逆説的」とか「イロニー」という用語が、未だによくわからず、調べればいいだろ、という人もいるだろうが、調べても頭に全く定着しない。でも「わかるところだけ読みゃええやん」と言っている気がして、(それは紛れもない私の声なのだが)わかるところだけ読んだら、わかるところはとても面白い。わかるまで読む、という戦法もあるが、今回はあまり使わなかった。

私がそのように感じた理由の根拠は、あとがきを読むと少し明かされ、この本にはいくつかの断章に分かれているが、それが文字通りの断章で、タイトルのアルファベット順で並んでいるのである。つまり、章同士の関連や、連続性がないということだ。だから、どこから読んでも問題はなく、またどこかを読み落としても、他に影響がでない。逆に、そういう風にできない小説というものは、いかに不便かと感じる。小説はある程度の了解を読み手に強いる。それを高く積み上げて、良い風景の場所へ連れて行こうという魂胆なのである。そこが、滅多なことで近づけないような区域だったりすると、それが読み手の快楽となる。読み手は次の快楽を求めて文字を追う。

しかし、それはあくまで小説の話なのだから、小説ではないものに、小説的な読み方を当てはめるのは、相応しくないが、当てはめようとする人はよく見かける。一方小説にしても、書きながら私は、小説的に読むことが、小説の魅力と言い切ることができないことに気づき、むしろ魅力でもない気がしてきて、途中からはわざと的を外すような書き方になった。わざと「快楽」なんて言葉を混入させてみたが、「テクストの快楽」で扱われる「快楽」とは、まるで手触りが違った。

話は変わるが、「テクスト」とは、織物の意味だそうである。

「テクスト」は「織物」という意味だ。しかし、これまで、この織物は常に生産物として、背後に意味(真実)が多かれ少なかれ隠れて存在するヴェールとして考えられてきたけれど、われわれは、今、織物の中に、不断の編み合わせを通してテクストが作られ、加工されるという、生成的な観念を強調しよう。この織物ーーこのテクステュール〔織物〕ーーの中に迷い込んで、主体は解体する。

(p120 みすず書房)

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小説を書いています。