意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文体(3)

前回(文体(2) - 意味をあたえる)に引き続き、山下澄人を引用する。まったく関係ないが、山下澄人、とフリックで入力するときに「やましたすみと」と入れてもちゃんと変換はされず、「やましたすみ」までならちゃんと出たので、そのあとに「ひと」入れた。それが予測変換に残っていて、「やま」と入れると「山下澄」と候補に上がっていたが、ここまで平仮名とか混在させたら出なくなった。

今はわたしひとりで暮らすものなので、家にはわたし以外誰もおらず、予定ももちろん何もなかったので、出るのは朝でも昼でも夕方でもいつでも良かったから、出るのは深夜になった。

明日、徹と名付けられる男の子が美智子という女から生まれた。

これは別の小説の書き出しで、上はルンタ(講談社)のp7、下は砂漠ダンス(河出書房新社)に収録されている「果樹園 Фруктовый сад」のp97である。ところで、果樹園以降が読めない。入力もできないので、最初Amazonからコピペしようとしたが、Amazonには出ておらず、ウィキペディアからコピーした。ロシア語だろうか? 話の中で触れられることは全くない。

この2つの文は、文法的には怪しい部分もあり、読み手の出鼻をくじくような感じもするが、私はわくわくした。「今まで読んだことのない話が始まるのかもしれない」と期待が高まった。興奮して、果樹園のほうはコピーして知人にメールした。ルンタのほうは、できるだけゆっくり、味わいながら読もうと思った。でも途中から一気に読んだ。

そういえば果樹園は、写しながら「明日」「生まれた」というのは間違っているが、「明日」は「名付けられる」にかかっているので、実はおかしな文章ではない。そういうことを理解せずに真似しようとすると、途端に自分の話が陳腐になる。ということを、多分初めて読んだときにも思ったのだろうが、忘れていた。

小説は書き出しがいちばん大事、という保坂和志の言葉があるが、私はこの2つの小説を読んで大いに納得した。

今度は別のを引用する。

九歳で、夏だった。

これは乙一のデビュー作、「夏と花火と私の死体」(集英社文庫、p7)の書き出しだが、これは、「やってやるぞ!」という気概を感じる文である。もちろん九歳の夏の話なのだろうが、普通はこうは書かない。乙一が普通でないことを自覚し、少しでも他の小説家と違うところを見せようと、無理やり作った文章に感じる。私はこれを暗記し(短いから簡単に覚えられる)頭の中で唱えるたびに、ロックバンドのデビューアルバムの一曲目を連想する。具体的にはBase Ball Bear相対性理論パスピエだが、それらの一曲目は、前奏が決してシンプルでなく、肩に力が入りまくっているような緊張感がある。

それで、書き出しがとにかく重要ですよという話だったが、ふと書きながら、その人の文体というのは、冒頭の部分からしか感じ取れないのではないか、と思った。小説は文章の連続、集まりであって、一度始まってしまったら、ラストまで途切れることはない。良かったシーン、感動的なラスト、と言った風にストーリーや展開を切り出すことは容易にできるが、文体は文字で、文字は記号だから目にした瞬間がいちばん印象強く、後から「あの単語が」とはならない。後から沸き起こるのは、文字ではなく、そこから受ける印象だ。だから、文章は一度読み出したら、中から文体について意識するのは難しいのではないか。それは書くほうからしても同じで、やはり書き出しで力んだり、他との差異を生み出したりできるのは、それは「まだ書いていない自分」が書くからではないか。

(続く)