という旨のことを書いていて、私もかつて読んだことがあったから、
「俺も俺も!」
と反応したかったが手段がなかった。私とズイショさんは友達というわけではなかった。仕方がないので、以下に思い出したことを綴る。
私が村上春樹「アンダーグラウンド」を読んだのは大学生の時に、通っていた大学の図書館の新刊コーナーにあったのを読んだのが最初だ。白い壁でラウンジになっていて、スポーツ新聞なんかもホテルなんかにある金属のぱちってとめるやつでとめられて横向きに下げられていた。私はそこでスポーツ新聞を読んだ。普通の新聞も下げられていたが読む人はいなかった。地下鉄サリン事件が起きたとき私は中学生で、三年生で進路も決まっていて卒業式も済ませ、春休みだったから9時とかに起きてテレビを見たら大騒ぎになっていた。テレビに消防士とか消防車が映っていた。私はパジャマのまま、食パンを焼いて食べた。
アンダーグラウンドは大学の図書館で読んだら面白かったので、途中から自分で購入して読んだ。面白かった、という表現は不適切かもしれないが、面白くなければ買わないから面白かった。面白さについて詳細に書くと、人々が悲惨な目に遭うのが面白いのではなく、複数の被害に遭われた人がどういう日常を送ってどんな仕事をし、どういう経緯でその電車に乗り合わせたのか、というのが細かく書かれているのが面白かった。いつのも電車の人もいればたまたまの人もいた。私が覚えているのは朝夢に死んだおじいさんが出てきて、その人が部屋中をぴょんぴょん飛び跳ねながら、
「行くな、行くな」
と呪文のように唱えてきて、しかしどうしても出かけなければならず、実際具合も悪かったがなんとか体を起こし、そういうこともあったからいつもよりも一本だか二本遅い電車になって、遅れなかった方の電車にサリンがばらまかれた。つまり予言を受けていたのである。私はその「部屋中をぴょんぴょん跳ね回る老人」というのが不気味で、そういえばクリスマスツリーの飾りで頭は人間、体は星形のモールの老人の飾りがあり、その老人の表情がとてもリアルで、子供時代の私はそれを不気味に思った。クリスマスツリーが飾られるのが子供時代だったからである。その「部屋中をぴょんぴょん跳ね回る老人」が、クリスマス飾りの老人の不気味さに重なった。
アンダーグラウンドは、沢山の人にインタビューを行って大変分厚い本であるから、おそらく事件に関わったぶぶんだけをまとめたら、特に同じ車両の人だったら話が重なるぶぶんも多いから、読んでいて退屈になるだろう。退屈になることを危惧したインタビュアーなり編集者は、重なっているぶぶんを削ったりするだろう。だからその時点で、被害者の生の声というのは加工され生でなくなってしまう。そういう被害者の相対化を防ぐために、村上春樹は事件以外の日常も詳しく記して、被害者ひとりひとりのキャラクターを浮き上がらせようと試みたのである。
「この本こそ小説だ」
と思ったりした。当たり前かもしれないが、私がそうやって思うようになって不思議なのは、「小説だ」と感じるのは決まって小説という形をとっていない。最初から小説と言われて手渡された書物を読むとき、私たちは虚構を受け入れる覚悟とか、そういう「小説を読む態勢」というのを無意識に作り上げて読む行為に臨んでいるようである。
小島信夫と保坂和志の往復書簡集の中で、小島信夫の番の時に、しつこいくらい「白十字」という喫茶店が登場してきて、前そこで会って話をしたが、今は潰れてしまってなく、しかし実は潰れてなんかなく、改修工事のために、別の場所で営業中だ、というどうでもいいことを延々と書いている。たぶん同じ本の中で保坂和志は、
「小島信夫は何を書いても小説になる」
と書いていて、私はおそらくそれは上記の「白十字」のくだりを指している、と半ば思い込み、だから風景を積極的に書き込めば、小説っぽくなる、と思い自分のブログを書いてきたが、それはそれで当たりかもしれないが、そろそろ、もっと視野を広げもっと抽象的な段階に行きたい。
話は変わるが、一方ブログというのは小雪ほど読み手に求める約束事はまだまだ少ないようで、私はあるとき割と積極的に記事を読む人のある日の記事を読んでいたら、途中までは普通に読んでいたが、途中から現実には絶対有り得ないようなシーンが出てきて、仰天した。つまりそれは端から虚構として書かれたものだったが、私は日記だと思い込んで読んでいたから仰天し、その仰天ぐあいが清々しくて気持ちよかった。小説だと思って読んだら清々しくなかっただろう。