意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

考える力、とは宙ぶらりんのストレス耐性のこと

今朝、ブログを読んでいたら、考えるということについて書いているのがあった。そこには「自分のアタマで考える」という言葉があり、しかし、そもそもこの言い回しは奇妙だ。考える、というのは自分の頭で行うのが前提であるから、わざわざ「自分のアタマ」と頭に付けるのだから、私たちの単なる思考は他人のアタマということになる。と、書いたら最初に「自分のアタマ」と言い出した人の言わんとすることがわかってしまったので、私の考えが出る幕がなくなってしまった。

私が「考える」というワードで最初に思い当たるのが、保坂和志の「考える練習」という著書で、若い編集者に対して保坂和志が、
「どうしたら自分の頭で考えられるかっつったら、やっぱりベケットの「モロイ」を読めってなっちゃうんだよね」
と多少投げやりに語っていたところである。「考える練習」は、図書館で借りて読んだので、これは引用ではなく、ただの私の記憶なので、投げやり、というのはただの思いこみなのだが。言葉を尽くすよりも、読んだ方が早い、それは蟻と新幹線くらいの差なのだ、と言わんとしているのである。

その後私は「モロイ」を読んだが、もちろんベケットが著書の中で「自分の頭で考えるには、まずニュースを見なさい。新聞とテレビとネットで同じニュースを見て、視点の差異を、ノートに書き出す。しかし手書きのノートは効率悪いから、スマホタブレットのアプリを使いましょう。これらの作業は通勤中の電車の中等で行いましょう。自分の乗っている路線のWi-Fi状況をきちんと確認し、場合によってはオフラインの作業環境をきちんと整えましょう。上司を無能と決めつけずに、吸収できる部分はしましょう。ランチは栄養価の高いものを摂りましょう」と書いているわけではない。ベケットが「モロイ」を執筆した時期にはまだインターネットは整備されておらず、地下鉄くらいはあったかもしれないが、おそらく、滅多に乗らない人だろう。

「考えるとは○○である」というのは、あくまで他人の頭の中の結果であるから、私たちがいくら○○を実践したところで、考えていることにはならず、むしろ思考停止となって、「考えられない人」のレッテルを貼られる。そう考えると世の中にある「考える人になるための本」の真の目的とは、考えられない人の量産であり、本は余計な疑問を抱かせずに次の著書、次の著書、と誘導させていくための装置である。

別に私だけがいい子ぶるわけではなく、私がこうして毎日書いていることに対してだって、余計なことは考えずに、
「面白い」
「弓岡さんの着眼点は他とは違うなあ」
などと、健気に思ってもらいたいのである。

そういう結論になってしまうと、私は最初に考えることについて、表題のようなことを思いついたわけだが、そこに至るまでの背景や根拠や妻の愚かさを書き記したところで、読み手の共感などをえるのは難しいので、おわり。

※弓岡とは飯村のことで、私の便宜的な名称です。