意味をあたえる

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保坂和志「地鳴き、小鳥みたいな」

昨日に買った。少し前までしばらくは小説はいいやと思っていたからどちらかといえば同時に発売された「試行錯誤に漂う」を買いたいと思っていたが近くの本屋に売ってなかった。近くの本屋というととても小さなものを思い浮かべるかもしれないがそれなりに大きかった。小さな本屋なんてもうどこにもなかった。例外として中学の通学路のとちゅうに一階建てのドライブスルーみたいな本屋があるがこれは本屋というよりもエロDVD屋だった。エロで世間の荒波を乗り越え続けているのである。私はそこでエロもそうでないのも買った。十代後半から行っている。昔はエロの面積はもっと狭かったが最後のほうは半分くらいがエロゾーンになっていてご丁寧にレジも分けられるようになった。今はエロ八割くらいではないか。どちらにせよ時代遅れの話だ。今は本屋ごとのエロ本のカラーなどは気にせずに済む。


少し前に買った「三田文学」で保坂和志特集が組まれていてそこに佐々木敦の文章を読んでいたらそれまで普通に大谷みたいな名前で書かれていた人が急にOみたいなアルファベット表記がされるようになってみたいなのを読んで無性に読みたくなった。同じことが小島信夫「残光」でもあってあの中では山崎さんが章替わりでYさんになった。それってなんの酔狂ですかという感じだが書いているほうはもっと切実なのだ。確かに山崎とYじゃニュアンスも変わってきますよねと私は言うが私だって理解しているわけではない。だけど私はこういう融通の良さが好きだ。昨日見た「ララランド」でラストの妄想が妄想でなければどんなに良かったかと書いたがそれは私の純情なぶぶんがそう思わせるのだが「良かったか」というのは本音である。つまり「妄想でなかったらうれしいけれどそうすると物語が破綻する」ということではなく「妄想でないほうがずっとエキサイティングだ」というニュアンスである。映画は家を建てているわけではないから二階に行くはずの階段が三階にしか通じてなくとも問題はないはずだ。問題なのは受け取る側の融通のなさであり作る側の顔色の見過ぎである。


三田文学」には保坂和志の小説が二編おさめられており私はそれを頭からではなく適当に開いたページを飽きるまで読み飽きたらまた違うところを読むという読み方をしたら面白くて結局最後まで読んだ。だから今回の「地鳴き、小鳥みたいな」もそうやって読もうと思い実際これは短編集だから開いたページが別の小説ということもあるが問題はなかった。どんな読み方をしても今同時に読んでいるベケットの「事の次第」よりも意味はとれた。「事の次第」はちょっと意味が分からない。泥の中に男が二人埋まって過去だ現在だとこだわる話である。ピムだボムだ出てきてどっちが語っているのかあるいは両方なのかも判別できない。何行か置きに段落が変わって一行空くのが救いだ。そう考えるといわゆるブログに似ている。それでもこの前の「短歌の目」で短歌をやったときにこの小説を真似たら思いのほか面白くてわくわくした。ベケットと短歌は相性が良い。