どのブログを読んでいても、よくよく目を凝らしてみると、上の方に「カテゴリ」が付けられていて、感心する。みな、とても几帳面なんだな、と思う。几帳面な人はブログに向いているのかもしれない。私はその逆で、私のブログにもカテゴリは一応あるのだが、記事を書き終わると、だいたいへとへとになっていて、もうカテゴリを考える余裕なんてないのである。私はいつも、記事の終わりなんて考えることは少なく、
「もういいやー」とか、
「今日はたくさん書いたし」とか
思った時点で終わりにして、更新する。もちろん頭の中に書こうと思っているかたまりみたいなものがあって、それをアウトプットするには、もう少し先まで書かなきゃいけないときなんかもあって、そういうときは、尚疲れる。だから、カテゴリを考えている余裕がない。
以前は、iPhoneで書いていたときは、フォームが上から、タイトル、本文、カテゴリ、と並んでいたのでカテゴリも書かなきゃいけない気がして、その都度新しいカテゴリをつくった。私はそのときは一度タイトルを書いたら変えない主義で書いていたから、タイトルは先付けのタイトル、カテゴリは後付けのタイトル、という風に区別していた。しかし、だんだんとそういうのが、読んでくれる人に不親切な気がしてきたので、今は後からタイトルを変えたりする。
ところで、他の人のブログを見てみると、「日常」とか「雑文」というカテゴリがよく見られ、これはわざわざカテゴライズする必要があるのかと思った。ブログって日常の雑文じゃないですか。わざわざ読者に伝えなくても、それくらいはわかりそうな気がする。例えば、「わたしのブログには「書評」カテゴリがあるので、それと区別するための「日常」なんですよ」という反対意見があるかもしれないが、「書評」を書く「日常」なんじゃないだろうか。それとも、「書評」は、「非日常」なのだろうか。もちろん私は屁理屈をこねているだけだと自覚する。
書く行為が日常なのか、非日常なのか、について考えるのは大変興味深い。私は何回か前の記事で、これだけ毎日文字をつづっているのだから、私の風景はとっくにすべて文字に置き換わり、生の風景というものをとんと見ていない、という旨のことを書いた。私は帰り道に、河川敷の割と大きな運動公園の脇を走って帰るのだが、車で帰るのだが、そのときににょきにょきと、道路に平行に生えている木があって、それが遠目に見ると、スーラの絵のような木で、その先に夕暮れがあって、私はスーラの夕暮れの絵は見たことないが、夕暮れを描くとしたらこんな感じなのではないか、と思う。そんな感じのことをほぼ毎日思って、そのことを、今日のブログに書こうと、しょっちゅう思うのだが、書けたためしがない。その運動公園が帰り道の割と序盤で、そのあと家に着くまでにまだいろいろ考えちゃうから、書けないのだ。それなら朝、行く途中に見ればいいじゃないか、と思うが朝は見えない。行きと帰りの風景とは、信じられないくらい違うのである。だから、もし私たちがアリンコだとして、私たちに対しての人的な生き物が、とある実験と称して私の家と会社を強引に入れ替えたら、私はパニックを起こして、仕事どころでなくなる。その前に家がめちゃくちゃになって、大変なのだが。
それで、人々が、なぜブログにカテゴリをつけたくなるのかがわかった。それは、あるとき私は他の人のブログでやっている「あわせて読みたい」というのがやってみたくて、少し調べたら、あそこに並んでいくのは実は同じカテゴリの記事で、要するにこの記事が気に入ったのならこのカテゴリ丸ごと気に入るはずですよ、という親切心なのだ。だからもし私が「あわせて読みたい」をやっても、下は空欄になるだけなので、断念した。もちろん管理画面で一括でカテゴリをくっつける術は知っていて、以前やったこともあるが、私は、そういうことが億劫で仕方がないのである。そういうことに私のリソースを割いたら、私の書ける文字数が減っちゃいそうで、嫌なのだ。というのは詭弁だが、私は凝り性とは逆の性格で、とにかくなんでも途中で投げ出しちゃうのだ。
おかげでいつまで経っても読みづらいブログでゴメンナサイ、という気持ちも少しはあるが、たまには感想を寄せてくれる人もいるから、そういうのを楽しむ余裕のある方もおられるようだ。私のブログは、こんな読みづらいブログを読める辛抱強さを持っているのは俺だけだ、という自意識の強い方や、私がこの記事を読まなければ、きっと誰にも読まれずに埋もれてしまう、という自意識の強い方向けなのである。
ところで、「あわせて読みたい」という文句の主語は、一体誰なのか気になる。書き手は書いている方だから、「読みたい」というのは不自然だし、読み手の方なら「読みたいかどうかを決めるのはこっちなんだよ」という気持ちなのだから、誰の気持ちも言い表していない文句である。ブログ特有の言い回しなのだろうか。しかし、正確に記すなら
「あわせて読ませたい」か、
「重ねて読んでもらいたい」
だろう。なにをそんな細かいことを、と言われそうだが、なにせ前述の通り、私は風景が文字になってしまうのである。文章も文字なのである。少し違うけど、この不自然さは、コンビニのトイレにある、
「いつもキレイに使用していただき、ありがとうございます」
というのに似ている。まだこちらは用を足す前なのに、どうして汚さずに済むことがわかっているのだろう。もし汚したら、きちんと掃除をしてから帰れという意味だろうか。何故ふつうに、「清潔なご使用にご協力ください」等の言い方ができないのか。と、昔Twitterでつぶやいたら、
「そう書くほうが、トイレはキレイに使われるから」
らしい。そういうものなのかしら。
2、不倫をする夢を見た
これは昨晩の夢の話で、私は不倫をする夢を見て、不倫相手と箱根かどこかのホテルへやってきた。相手は大してかわいくもない女で、私の知っている相手だ。大学時代の同級生で、と言っても私は特別親しいわけではなく、同じサークルの人の彼女だった。彼女、といってもその人(男のほう)は遊び人で女たらしで、高校時代はサッカー部でポジションはボランチだった。
「ボランチっていうのは、ただ走ってればいいだけのポジションだから楽なんだよ」
と以前話していた。サッカー部のくせに、偉そうなところがなかった。とにかくたくさんの女とつき合っているという噂で、しかし私が見たのはその、私の不倫相手だけだった。だけれども、その女はあまりかわいくないので、途中で捨てられたが、あきらめきれず、大学時代の後半、彼女はストーカーになって過ごした。でもそういうのは全部噂だからどこまで本当なのかはわからない。私の大学時代は、まだストーカーという言葉が出てきて間もない頃で、まだ冗談で済むところもあったのだ。それと、これはどうでもいい話だが、彼はあるとき彼女のことを縛ったらしい。本当どうでもいい。
そんな女と私は不倫関係で、そうしたらホテルで両親とばったり会い、向こうはまだ気づいていないので、私はへんてこな顔をして、ごまかそうとし、どうしてこんな面倒なことをしなきゃなんないんだ、女もかわいくないし、まるで割に合わない、と私は夢の中で不機嫌になった。