意味をあたえる

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初めてものを書くように

昨日「狭山市、なんとか、初めてものを書くように」というタイトルで記事を書いたが「なんとか」の部分までしか書けなかった。バス酔いがひどかったからである。初めて乗り物酔いで二日酔いになった。

数日前に日本の小説の感情表現ばかりを集めた辞書のような本が出版されますよ、という記事を読んだ。その記事を読んで私は
「そこに書いてある表現をすべておぼえ、なおかつそれを全部捨てる、そこにないものを一からつくりあげるのなら、読む価値がある」
とコメントした。つまり、少なくともそれを読んだところで良い小説なんか書けないと言いたいのであった。良い小説というか、悪い小説、毒にも薬にもならない小説だって書けない。そんなものを読む時間があるのなら、別の小説を読んだほうがいい。価値のない小説を読むよりかは、指南本を読んだ方が無駄がない、という意見もあるかもしれないが、読む小説の数を増やせば、それだけ素晴らしい表現にあたる確率は高くなる。それは同じ本を繰り返した読むのであっても同じだ。

例えば日本の小説の感情表現をコレクションし、そこに何かしらの法則を見つけだすとか、時代による並び替えだとか、そういう目的ならば読む価値はあるだろうが、それを足がかりにして自分の小説を書こう、あわよくば登場人物のキャラを立体的にしたい、奥深さを出したい、というのなら、逆効果ですよと私は言いたいのだった。しかし本当にそうだろうか、と思うぶぶんも私にはあった。私は昔から指南本とかそういう類がだいたいは無駄だと思っている。だから思考がそういう回路、サーキットを通っているだけなのではないか、結局楽をしたいのは私の方ではないか、とも思った。

私は少なくとも小説に関しては
「こうすれば間違いない」
「ここを押さえておけば大丈夫」
というようなやり方をしてはならないと思っている。ほんとうは小説以外の全部がそうなのだが。しかしそう書くとじゃあ苦労をすればするほどいいという風になりそうだが、それとも違う。しかし試行錯誤はやはり必要だ。

私はやはり生まれて初めてものを書くように書ければいいな、と思う。私が奇をてらったりするのは、結局は新鮮さをもとめてのことであった。