意味をあたえる

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マイ・マイベストエントリー

年末なので、今年のよく書けた記事を取り上げる人を見かける。私としては、よく自分の書いたものについて、そこまで覚えていられるなあと感心する。世のブロガーというものは、定期的に書いたものを読み直すものなのでしょうか。例えばタイトルというものがあって、記事一覧というと普通はタイトルが縦に並ぶものだが、タイトルから記事の内容についての記憶が紐付いていて、それが芋掘りのようにずずず...ずずず...と、出てくるものなのだろうか。そうすると、タイトルというのは、中身を簡単に連想させるようなものを付けるのが良さそうだ。しかしそれでは、タイトルというのは書いている方のインデックスのために付けられていて、つまりタイトルというのは読む方からしたら別にどうでも良いもの、ということになる。

私の場合、タイトルはまず最初につけ、その時点で記事の内容についてはあまり細かく考えていないことが多い。私にとってタイトルは決意表明のようなもので、今日も書きますよ、という宣言なのである。だから読む人は、
「ああ、今日も書くと決心してくれたのだな」
と思ってくれるとありがたい。旗のような、先のとんがった棒を地面に突き立てるイメージである。そこからどこまで遠くまでジャンプできるか、それが私の狙いであり楽しみなのである。しかしそれこそあなたにとってのタイトルのほうこそ自己満足の、読者をなおざりにした行為ではないか、と言われれば、確かにそうだ、と思う。

話は戻るが、なので私がベストエントリーを自分で選ぼうとすると、すぐ前の記事か、一週間くらい前のものから選ぶ、となってしまう。ベストテンとかになると、十日前からである。私はタイトルだけ見ても、中身に何を書いているのかわからないことも多く、そういうときは少しわくわくする。以前は読み返すと、がっかりするかもしれないから、読み返す行為がイヤだったが、実際読み返すと面白くてつい読みふけってしまうことも多いので、最近はあまりイヤだと思わなくなった。だけれども、読み返すという行為は全体的に無駄な気がするのでそれほどしない。

昨日ブロガーの目さんがやはり自分のマイベストエントリーを選んでいて、その中に
「良く書けた、と感じるものは総じて短い」
とあり、それに対して私は逆で、やはりどんどこ文字が溢れてくると
「気持ちいいな」
と思う。私はそういうとき、うねり、を感じる。しかし読む方はひょっとしたら苦痛に感じているのかもしれない。というのが、私は今から2つ、過去にうねりを感じたものを挙げるが、まずは私が初めて買ったジャズアルバム、ジョン・コルトレーンの「ライブ アット ビレッジヴァンガード」を紹介する。

私はそれまでポップスやロックばかり聴いていたから、ジャズ全体が苦痛だった。しかし私はドラムをやっていたから、ドラムの勉強のつもりで聴けば、いくらか苦痛も和らいだ。そもそもこのアルバムもドラムの先生が、
「2曲目の、ソフトリー・アズアモーニングサンライズエルビン・ジョーンズのブラシがいいよ」
と勧めてくれたから買った。だから二曲目は最初からあまり苦痛は感じなかった。ソフトリー、が曲のタイトルでエルビンがドラマーの名前だった。エルビン・ジョーンズは、ジャズドラムに革命を起こした人で、ドラム界ではビフォアエルビン、アフターエルビン、と彼を基準にして時代を区切ったりする。そのくらいドラマーの演奏スタイルを変えてしまったのである。私はそういう記事を読んで、ぜひ彼の演奏が聞きたいと思って、先生に
「エルビンでオススメありますか?」
と訊いたのであった。そうしたら上記のライブアルバムを勧められた。ジャケットはコルトレーンがソプラノサックスをこちらに向けて吹いている写真であった。私はそれをインターネットで買ったが、当時の回線の主流はすでにADSL、光もぼちぼち出始めたころの中、我が家はISDNだったので、ダウンロードが大変遅かった。我が家、と言ったが父の方は早々と光にしていて、しかし当時はルーターとかそういう知識もないから、一家で二回線契約していた。

アルバムの話に戻るが、二曲目は最初から気持ちよく聴くためのとっかかりがあったからまだ良かったが、一曲目と三曲目はそうはいかなかった。全体として三曲入ったアルバムだった。しかし繰り返し聴いていたらやがて一曲目は慣れてきた。どうしても駄目なのが三曲目で、これは今でも聴く度に途中でうんざりする。サックスがうねっている。後から調べたら、その曲は即興曲だった。好き勝手やっているから、とっかかりがないのだ。

同じようにうんざりするのが小説でもあって、それは小島信夫の「ふぐりと原子ピストル」という短編だった。これは一年か二年前に「初期短編集」として発売されたもので、私は当時は小島信夫のファンになってまだ日が浅かったから、すぐに買った。「ふぐりと原子ピストル」は最後に収録された、一緒に入っている他の短編に比べたらいくらか長く、しかしその長さに絶望を感じた。読んでいても何がなにやらわからない。シュールを通り越している。「ふぐり」と陰嚢の袋のことで、これがめちゃでかい人が出てくる。原子ピストルも出てきたかもしれないが、忘れた。読み終わっても、何も残らない。

私の日々の文章も、人々をうんざりさせているのかもしれない。