意味をあたえる

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和歌山県と岡山県

昨晩私の子供が、
和歌山県と、岡山県て、もしかして別?」
と質問してきて、西日本に住んでいる人からしたら
「冗談じゃないよ」
という感想を抱くかもしれないが、私の家は三代関東に住んでいるし、子供もまだ小学二年生だから容赦してほしい。訊かれるまで気づかなかったが、これらの県は「わ」と「お」の一文字違いなのだ。大人になると、県名というのはまず漢字で目にするから、和歌山と岡山なんて、ニュルンベルクと沖縄くらい違うように思うが、まだ日本の漢字の一割も理解していない平仮名頼りきり8歳児からしたら、誤差の範囲内になってしまう。ちなみに私も地理に弱いから、去年か一昨年にiPadのアプリで「地図パズル」というのがあってそこで日本地図のパズルをやってけっこう場所をおぼえたが、和歌山と三重、岡山と広島、島根と鳥取を間違えずに配置できるかあやしい。九州も大航海時代のアフリカ大陸並みに闇の中である。それは私が単純に物をおぼえるのが苦手なせいで、実は栃木と群馬もあやしい。私はいつも橋を渡って会社にやってくるが、勤め始めのころ、いろんな人に
「どこの橋?」
と、橋の名前を訊ねられるが、私は動いている車中から橋の欄干の柱に彫られた橋の名称を素早く読み取るなんて芸当はできないから、いつも言いよどみ、仕方がないから
「メガドンキの道をまっすぐ行ったところの...」
等、目的物を挙げてイメージを共有する作戦に出るが、すると相手は
「○○バイパスの?」
とか別の目標物を挙げてきて、私はバイパスも極めて苦手なのだが、もう面倒なので、
「あー、そうです」
と話を合わせて終わらせる。橋の名前に限らず、私は最近自分以外の人との会話を注意深く観察してみたが、私は自分で思った以上に他人の言っていることが理解できず、適当に話を合わせていることに気付いた。

特に妻との会話が壊滅的で、それは結婚当初からずっと感じていたが、妻はよく主語を省いた喋り方をして、私は主語がないと何の話だかまったくわからない。それを当初は妻の責任だと思い、
「ちゃんと主語をつけてほしい」
とお願いしたりしたが、ちっとも直らず、だんだんと私の方の理解力、察知する力が乏しいことに気付いた。私は会話の中で考えたことや設定を、会話が終わった瞬間にリセットして白紙に戻し、別のことを考え出す癖があるようであり、一方の妻はアイドリングを続けているような状態で、だからいつでも続きを喋り出すことができるのである。

妻が自分以外の誰もが、このようにアイドリングを続けていると思いこむのも問題であるが、妻は私以外の人に「主語が」などと言われたことはないし、私も最近冷静になってみると、私の方がアイドリングしなさ過ぎなのではないか、と気付いた。しかしそういう会話の組み立てを一朝一夕で直すことは無理だし、また私も真面目に改善しようという気もなく、そうしたら最近では、とりあえず最初のやり取りで全てを解明しようとするのではなく、短い単語のやり取りで、徐々に何についての話であるか見当をつけていく、というやり方がいいのではないか、と思いそれを実践している。

そういうやり方は相手を侮辱しているような気配もあるが、普段自分以外の人とコミュニケーションをとるとき、そういえば相手の言葉以外の欲望とかそんなのは、全て自分の推測にしか過ぎないわけだから、「把握している」というのはほぼ思い込みに過ぎない。